その一方で、実際に演ずる段になって、
各受講生(或は狂言師以外の人々)がもつ
各々の‘狂言風’表現に陥る傾向も否めず、
それは誤解を恐れずに言えば、
拙いモノマネの物真似でしかないことにも気づかされました。
でもそれを超えるには、目の前の先生方の動きや発声や呼吸を
ただひたすら一つずつ真似ることでしかない、ということ。
このほんの少しの意識の差を持った時初めて、
いままでにない新鮮な体験として
<狂言と出会う>ことになるのでしょう。
それは奇しくも、西洋舞踊や自国の民族舞踊、
様々な演劇のメソッドを身につけている外国人受講生が直面した壁と、
合わせ鏡のごとく表象されていたのが印象的でした。
思い込みを排し、あるがままに受け止める、感じる事、
そして文字通り「真似る」ことの難しさと重要さを再認識し、
芸の基礎とは何かを知る貴重な経験となったのではないかと思います。
様々な場面を乗り越えて、
9月1日、銕仙会の能舞台を踏んだ13人の受講生たち。
萬先生がおっしゃった「能舞台にたつために、どういう身体、
どういう声が必要か」という課題は、
及第点には至らなかったかもしれませんが、
狂言の大きな魅力で一つある、
ほのぼのとしたおかしさを生み出す空間を皆で創り出せた事には、
万蔵先生からも合格点をいただけたのではないかと思います。
最後にご指導いただいた、萬先生、
万蔵先生をはじめとする萬狂言一門の先生方、
梅若能楽学院、銕仙会の方々に心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
(制作補:三宅文子)
なお、写真や過去のワークショップのレポートは、
本サイトをご覧下さい。
国際演劇協会
各受講生(或は狂言師以外の人々)がもつ
各々の‘狂言風’表現に陥る傾向も否めず、
それは誤解を恐れずに言えば、
拙いモノマネの物真似でしかないことにも気づかされました。
でもそれを超えるには、目の前の先生方の動きや発声や呼吸を
ただひたすら一つずつ真似ることでしかない、ということ。
このほんの少しの意識の差を持った時初めて、
いままでにない新鮮な体験として
<狂言と出会う>ことになるのでしょう。
それは奇しくも、西洋舞踊や自国の民族舞踊、
様々な演劇のメソッドを身につけている外国人受講生が直面した壁と、
合わせ鏡のごとく表象されていたのが印象的でした。
思い込みを排し、あるがままに受け止める、感じる事、
そして文字通り「真似る」ことの難しさと重要さを再認識し、
芸の基礎とは何かを知る貴重な経験となったのではないかと思います。
様々な場面を乗り越えて、
9月1日、銕仙会の能舞台を踏んだ13人の受講生たち。
萬先生がおっしゃった「能舞台にたつために、どういう身体、
どういう声が必要か」という課題は、
及第点には至らなかったかもしれませんが、
狂言の大きな魅力で一つある、
ほのぼのとしたおかしさを生み出す空間を皆で創り出せた事には、
万蔵先生からも合格点をいただけたのではないかと思います。
最後にご指導いただいた、萬先生、
万蔵先生をはじめとする萬狂言一門の先生方、
梅若能楽学院、銕仙会の方々に心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
(制作補:三宅文子)
なお、写真や過去のワークショップのレポートは、
本サイトをご覧下さい。
国際演劇協会