いたちゃんの『なるほど通信』

函館市議会議員・板倉一幸が市政とまちの「なるほど」をお伝えしていきます。

被災地を目の当たりにして。

2011-06-08 23:17:34 | Weblog
 青森市内での予定を終え、6月5日(日)夜に仙台市に向かいました。緊張しながらの宮城県入りでした。震災から3ヶ月、仙台市内は元どおりとはいかなくても、元気な仙台に戻っていると期待していました。駅前周辺の繁華街なども歩いてみましたが、深刻な表情をした方はいらっしゃいませんでしたが、日曜日の夜のせいか(といっても、そんなに遅い時間ではありませんが)、少ないように感じました。
 翌6日に、宮城野区にある私鉄総連東北地連の事務所にお邪魔し、状況についてのお話をお聞きしました。地連傘下の各組合(バス、鉄道会社)でも大きな被害を受けたところも多く、以前行方不明者もおります。また、こうした災害の際の、避難者や交通弱者の移動の足の確保も重要な課題となります。
 説明をお聞きした後、いよいよ被災地の現場に連れて行っていただきました。国道45号線を北上しましたが、次第に大きな建物にシートを被せた建物が目立つようになりました。地震で屋根や壁などが崩落した建物です。
 初めに見せていただいたのは、仙台市交通局岡田出張所(現在は、宮城交通が管理委託を受けています)の建物です。機会があれば、その写真もご覧いただきたいと思いますが、なぜ、こんなところまで津波が?と思いますし、その威力にも驚きます。周りは水田地帯ということでしたが、至る所も車や瓦礫が散乱し、戦争後のようでした。
 次は、石巻市内です。死亡者数や行方不明者数では、この震災の被災地で最多ではなかったでしょうか。漁業のまち、海に面したまちということでは、函館も同じです。地形の違いはあっても、漁業や水産業といった基幹産業に適したまちづくりがなされてきたことは同じです。それが災害には弱いまちの構造になっていたといえるのではないかと思います。一瞬にして、多くの方々の生活が奪われた姿は無残です。
 そして、さらに北に。南三陸町に足を踏み入れました。震災直後を知っている方は、大分瓦礫の撤去が進みましたよと仰っていましたが、初めてすぐ近くで、まさしく目の当たりにする者にとって、その状況は目を覆うばかりの状況でした。
 写真の、私の右後ろは、ご存じのとおり、最後まで無線で住民に避難を呼びかけ、自らは津波に呑まれてしまった女性職員の勤務場所、災害対策庁舎です。といっても骨組みしかのこっていません。そして左後ろは、公立志津川病院です。これも三階まで津波に運ばれた瓦礫で埋まっていました。私の視線の先には、志津川小学校の無残な姿もあります。私の足下には、「志津川中学校○年○組※※※※」と名前の入った文房具入れのケースがありました。
 私は、政治家の使命と責任は、国民の、住民の命と生活を守ることであると確信していますし、自分自身に誓っています。この経験を、しっかりと市政に生かしていくことが自分の仕事だと思っています。
 国会で、首を取るとか取らないとか、退陣時期は何時でなければならないとか、不毛(といったら叱られるでしょうか)な議論をしている皆さんも、この現場で国会を開いて議論してはいかがでしょうか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自然の力を目の当たりにして…... | トップ | 謎の縄文人…? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事