不育症の記録 あなたの産声を

6度目の妊娠で第一子を出産しました。記録を残すことで誰かの助けになればと思います。
旧 不育症記録 虹の向こう側

はじめに 2018.1.22追記

2027年01月01日 | 幕間
はじめまして、川辺ゆりです。

2009年に初めて妊娠し流産し、不育治療、片側の卵管の摘出、不妊治療、
一度子供を諦めてから数年後に再び妊娠、もう一度不育治療という経過を経て
2017年に6度目の妊娠で男の子を出産しました。
その記録をここに残そうと思います。

・一度子供を諦めた時に、不育検査と不妊検査の結果を含む資料を処分してしまったため
 正確な情報が少なく記憶に頼って書いている部分が多いこと
・情報が正しいとしても、古い情報であること

以上の点を踏まえて読んで頂ければと思います。


不妊治療の経験はありますが、6度の妊娠は全て不妊治療を受けずに妊娠しています。
そのため、不妊治療の参考になることは少ないかもしれません。


我が子を授かり、その夢を絶たれて、傷を抱えて生きる人生の支えの1つになれば幸いです。




・追記 2018.1.22

まだ先の話ですが、このブログの記事にはいずれ出産の場面が出てくる予定です。
できればそういう場面は書かずに飛ばそうと思っていましたが、ある程度書かないと都合の悪いことになりそうです。

出産や産後の場面、また死産になった子供の葬儀を書いた記事等、
読むのが辛いケースもあると思われる記事には、題名に「」をつけて更新し、
その記事を飛ばしても内容がわかるように、後の記事に要約や補足を入れます。
なお出産には生産も死産も含まれますが、特に区別はしない予定です。

読むのが辛いと思ったら無理をせずに飛ばしてください。

ブログタイトルを変更します

2018年03月24日 | 幕間
突然ですが、ブログのタイトルを変更しようと思います。
元々ブログを作る時につけたいタイトルがあったということはなく、
ブログを書きたい気持ちだけがあってタイトルに困ったので、
レインボーベビーという言葉からなんとなくつけました。

ブログの内容が重いので、いいタイトルを考えるのが難しいのですが
しっくり来るのが見つかるまでは何度か変えてしまうかもしれません。

ブログタイトルで検索している方もいるかもしれないので、
しばらくはサブタイトルに前の題名を入れておきます。

32・決まっていたこと

2018年03月24日 | 3度目の妊娠
一年後、私はまたA先生の診察室にいました。
不育治療の注射を受けるためです。

この一年の大半は、前回の子供の出産予定日を待つのに使いました。
その間に不妊治療専門クリニックで残った卵管の側からの排卵があるかどうかだけ見てもらって、
もしそちら側からの排卵がないようなら出産予定日以降、体外受精をするよう準備していました。

結果、左右どちらからも排卵があるけど残った側からの排卵は少ないということでした。
不妊治療クリニックの先生は、これはじゃんけんのようなものだから10回連続同じ側ということももあり得る。
ある時期に、たまたまどちらかが多かったからといって、もう片方が排卵しにくいということではないと言っていました。

そこまでわかったところで出産予定日があって、その後卵管のない側の排卵が続いたのでそれを見逃していた時期でした。



「焦らなくていいんですよ」
あの時と同じ穏やかな先生。
「無理はしないでください。大丈夫ですよ」
先生の優しい言葉を聞いているうちに、突然私の心の中に言葉が出てきました。

先生、私はどうしてまだ生きてるんだろうって思うんです。

私だってあの時、私の子供たちに会いに行くチャンスだったのに。

私が助からないこともあり得るケースだったのに
どうして私だけまだ生きてるんだろうって、
でも先生や、C先生を始めとしたあちらの病院の先生方と看護師さんのことを思うと
そう考えてることが申し訳なくて、どうしていいかわからなくなるんです。


そのまま声に出してしまいそうになって、咄嗟に抑えました。
そして自分で自分の考えてることに驚きました。





私はあの時流産を待たせてくれなかった先生方と看護師さんたちのことが許せなかったんだ。
そして私をあの病院に行かせたA先生も。
私は流産を待ちたかった。
命が危ないと言われても、たとえ自分が助からなかったとしても、それでも。
私の子供を1人だけあの世に送り出して、自分だけが安全な場所で助かる保証を得るのが許せなかった。
子供が命を懸けるというなら私も、少なくとも同じだけのものを懸けたかった。


でもそれは、本当に可能なことだったでしょうか。
病院の先生方が、自然に流れてほしいからという私の希望をいれて
すぐに手術したら確実に助かる患者を見捨てることができたでしょうか。


帰りの電車の中で涙が溢れました。


できるわけがありません。
決まっていたのです。
不育治療を受けると決めた時から。
今回の子供を助けられないことも。
私が1人だけ生き残ってしまうことも。
A先生の判断が正しかったことは、もう私にもわかっています。

ただ、1ヶ月も一緒に過ごせたから、
1ヶ月も、このままずっと一緒にいられるかもしれないと思ってしまったから。
だから、諦めるのが辛かっただけ。


それだけです。

31・「3.11」について

2018年03月14日 | 幕間
次の記事は「3.11」という題名で用意していました。
手術からしばらく経った震災の日の私の心情を書いたもので、
私にとって震災のことを思い出すたびにその時の気持ちも思い出してしまう、とても大きなことですが、
震災で被災された方々や、その身近な方のことを思うと公開することに躊躇いがあります。

被災者の方やその関係者の方は読まないよう注釈をつけようかとも思いましたが、
やはり辛い思いをされた方が余計に辛くなるような記事は公開しない方がいいと判断して
31は欠番にして、次の記事は32にしようと思います。


これから31を欠いた構成を考えるので、次の公開まで少し間が空くかもしれません。
被災者の方とその関係者の方の今後の人生が少しでも穏やかでありますように。

30・涙

2018年03月12日 | 3度目の妊娠
手術の後、私は4人部屋に入りました。
婦人科の患者さんばかりの病室でした。
お向かいのベッドの患者さんと、偶然名前が一緒だったことから仲良くなって、
それから担当の若い看護師さんとも仲良くなりました。

お向かいの人には中学生の娘さんがいたのでその話を聞いて、
その人が今回子宮を取ったことについて、辛い心情を聞きました。

担当の看護師さんはフレンドリーで、婦長が日勤ばかりしてる、私は夜勤○回も入れられた!とか
そんな愚痴をよく聞いていました。

傷の治りは早い方だったと思います。
手術から3日後の夜にお手洗いに行った時、自力でまっすぐ歩けない人を見つけて病室まで支えて送りましたが、
その人は私と同じ日に、同じ腹腔鏡下手術を受けたとのことでした。

話相手もいるし、夫も毎日病院に来てくれました。


同じフロアに産婦さんもいて、昼間は赤ちゃんの声がよく聞こえましたが、
私はこれまで妊娠初期でだめになるパターンばかりで、
胎動を感じたり出産準備をする時期まで進んだことがなかったので、特に辛いとは感じませんでした。


退院まであと2日。

手術の日までの毎日の緊張感が嘘のように、穏やかになっていました。
私が安静にしてる間に、気がついたら季節が変わりつつあって、自分がどれほど必死だったのかを感じました。


もうすぐ退院…と思っていた時に、看護師さんから呼ばれました。
手術についての説明を先生から聞くのだそうです。
わかりました、ありがとうございますと返して、私は指定された部屋に向かいました。


手術に立ち会った先生から、間違いなく子宮外妊娠だったこと、順調に手術が終わったこと、
今後の妊娠のために残った卵管の通りをチェックして問題なかったことを伝えられました。
それから突然モニター画面を向けられて「はい、ここです。間違いなく子宮外妊娠ですね」と言われました。

何も考えずにぼんやり画面に目を向けると、手術で卵管を摘出する瞬間の映像でした。


お世話になりました、ありがとうございましたと頭を下げて、私は部屋を出ました。


通路を歩きながら、帰りにお水を飲んで行こうかと考えました。
お水を飲んで、病室に帰ったらさっきまで読んでた本の続きを読もう。
今日夫が続きを持ってきてくれるって言ってたから…。

ああ、そっか。さっきの映像で、私は初めて自分の子供を見たんだ。

そう思って歩いていた時、突然目の前が歪みました。



気がついたら私は、人目も憚らず、その場で声を上げて泣き崩れていました。

お向かいのベッドの人が走ってきて、抱き起こして病室に連れ帰ってくれるまで。