isorokuのこころの旅路

遊行期に生きる者のこころの旅路の記録です

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遊行期の生き方を考える

2011-11-20 12:50:38 | Weblog
まだまだ林住期と思って生活していました。しかし病を得ていよいよ遊行期の門が見えてきましたので、遊行期の生き方を正面から考える気持ちになりました。インターネットで遊行期を検索すると、五木寛之氏の著作があることがわかり早速読みました。

そもそも人間の生き方を考える場合、個人の内面(精神)と個人の外面(身体)さらに個人が生活する社会の内面(思想・文化など)と外面(政治・経済・社会システムなど)の4つの視点から考える必要があります。

五木寛之氏もやはりそうした視点で論述されているようです。五木寛之著「遊行期の門」(徳間書店刊)の共感した部分を記録し、所感を記しておきます。

●「遊行期」というのは、ただ死を考え、死を求める旅立ちの季節ではあるまい。七十六歳から百歳までの「遊行期」をどう生きるか、それが問題なのだ。

<個人の内面>

●「遊行期」を目前にした人間の実感とはどのようなものか。肩の荷をおろしたような感覚とでもいおうか。名誉とか権力とか、他人の思惑とか、家庭の事情とか、そういったものが遠くに見えてくる感じである。「遊行」とは遊び心で生きることなのかもしれない。

<個人の外面>

●老いていく自分は、子供に還っていく人間の自然な姿でなくてなんであろうか。もの忘れがひどくなることを嘆くことはない。子供に還り、赤ん坊に還り、やがて誕生した場所へ還る。それを死というのである。生まれて数年間、人間は他人の世話にならずには生きていけないのだ。幼な子はすべてそうなのだ。「なにが辛いといっても、下の世話を人にしてもらうほど辛いことはありません」とは高齢者の嘆きの声である。しかしおむつをかえてもらうことを恥じる子はいない。

<社会の外面と内面>

●戦後の五十年間は間違いなく「躁の時代」だった。高度成長しかり。前年比しかり。国際化、市場原理しかり。この数年大きな時代の転換があった。「躁の時代」から「ウツの時代」への転換である。それは世界のすべての思想、体制、文化、感性が「躁」から「ウツ」に変わろうとしているのだ。

●開發というのは「躁の思想」だ。市場原理も資本主義も「躁の経済」である。エコロジーというのは「ウツの思想」「ウツの経済」である。量の市場原理から、質の市場原理へと二十一世紀は変わって行くのではないか。「喜び」「励まし」「笑い」「明るさ」「元気」なども「躁の文化」である。無気力な人は「ウツ」にならない。個性や能力をまだ実現できずに、秘めているからこそ「ウツ」が生じるのである。

●年をとるということは、時代とずれることだ。しかし、どんなに割り引いて考えてみても、やはり今は変な時代だと思う。人の命がこれほど軽くなった時代は、これまでなかったのではないか、と思う。自殺者の増加と殺人事件の激増は同じ盾の両面だ。

●2001年の9月。新しい欝の時代の幕開けは。その日からはじまったのだ。ホットウオーも冷戦も、どちらも敵がはっきり見える戦争だった。軍事力を投入し、敵を圧倒する。それは躁の時代の戦争である。戦略爆撃と地上戦が躁の戦争で、テロとゲリラ戦が鬱の戦争だ。相手が見えない。疑心暗疑が欝の戦争の本質だ。そこでは軍事テクノロジーの優越も無意味である。

<個人の内面>

●まず鬱は人間の支えである、と考える。生きるということは、楽しい一方ではなく、鬱という重い荷物を背負って坂道を歩くがごとしと覚悟する。その人間の運命的な鬱を、自分には関係ないと内側に押し込め、無視することから鬱が病気に発展するのだ。

●年をとる、老化するということは、考えようによっては気楽で、なかなか面白いことなのだ。老いるということは、世間的には自由になっていく過程である。アンチエイジングより、エンジョイ・エイジングのほうがいいと思ったりするのは、私だけだろうか。

●本物のマイナス思考は、人を勇気づける。余命6カ月と宣告されて、あと6カ月あるのだと考えるのがプラス思考だ。あと6カ月しかないと考えるのがマイナス思考だ。あと6カ月しかないと考えるほうが、残された日々をより良く生きようと思うはずだ。

●人は苦しい時ほど遊ぶのだ。そして遊びの中で死中の活路をみいだすものなのではあるまいか。

<所感>

・生理的に後期高齢者になったならば、精神的・身体的・社会的にしっかりした遊行期の生き方を確立していないと、もうじき死んでいく哀れな老人として存在することになります。五木寛之氏の論考は遊行期の生き方を確立するための道標として参考になります。

・残された余命があまりないというマイナス思考から発生する「一日一日を大切にしようという実感」は、遊行期の生き方を確立する原動力になると思います。

・エンジョイ・エイジングという視点、後期高齢期を遊行期と規定したインドの思想や八十歳の躯で旅に出て野垂れ死にをした仏陀の生き方には、正直言って馴染めません。しかしそこまで極端でなく、「肩の荷をおろしたような感覚とでもいおうか、名誉とか権力とか、他人の思惑とか、家庭の事情とか、そういったものから(林住期の時よりもっと大幅に)自由になり、その自由時間を楽しめるという意味で、遊行期という言葉が存在することには共感を抱けます。ただし病の痛みや発熱の苦痛から解放されることが大前提でしょう。

・社会にも「躁の時代」と「ウツの時代が」あり、今の世界や日本は「ウツの政治、経済、戦争の時代」「ウツの思想・文化の時代」なんだという自覚は重要な視点だと思います。「テロとゲリラ戦が鬱の戦争だ。相手が見えない。疑心暗疑が欝の戦争の本質だ。そこでは軍事テクノロジーの優越も無意味である」という視点は、他の分野にも応用しなければならなくなると思われます。

・ソ連型社会主義には打ち勝った新自由主義的な政治、経済システムの行き詰まりは遅かれ早かれ避けられないと思われます。今の日本の政治、経済、マスメディアの動向はあいかわらずの新自由主義的な発想が支配しているようで、「躁の経済」の復活を目指しています。「ウツの時代」に入った現在、この路線はやがて行き詰まる可能性が高いと思われます。

問題は新自由主義路線がやがて二度目の行き詰りに直面した時現れる政治、経済システムの姿が、いまのところはっきり見えないことにあります。(小生は北欧型国づくり方式の日本化が必要と考えていますが、日本化の具体像はまだ研究中です)。

地球温暖化による自然災害の拡大は、目下高成長を続ける開發途上国の経済成長も抑制する条件になるでしょう。エコ経済の必要性から、やがて世界的に市場原理と資本主義の自由な活動を制限せざるをえないと思われます。

・遊行期の老人といえども、社会が躁の時代からウツの時代に転換するのであれば、しっかりしたウツの生き方を確立すれば社会にも貢献できると思われます。それにしても自立か準自立ができる期間であって、完全介護が必要になればもう赤子に帰り、お迎えをすなおに待つことになりましょう。


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