答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

「道は、押しつけがましさやきらびやかさもなく、何かを人に課する場所でもない」(曽野綾子)

2019年02月19日 | 土木の仕事

昨日、当ブログ初訪問だという方からコメントをいただいた。

「曽野綾子さん 土木」

で検索してたどり着いたのだという。

そういえばたしかに、『無名碑』のことを書いたことがある。

ということで、わたしもくだんの訪問者さんを真似て

「曽野綾子さん 土木」

というキーワードでGoogleさんに問うてみた。

と、トップページにそれはあった。

『無名碑(下)』(曽野綾子)を読んでいたことー答えは現場にあり!技術屋日記”というタイトルだ。

そのなかでわたしが引用した2つの文章のひとつがこれだ。

 

 道は、押しつけがましさやきらびやかさもなく、何かを人に課する場所でもないことを、竜起は楽しく思った。宗教的な建築物ならば厳粛さを伴うであろう。他の多くの建造物は多かれ少なかれ、限定された目的を持っている。しかし道には、何の制約もなかった。あらゆる人々が、あらゆる目的をもって、その上を移動するだけであった。その生活の匂いにまみれた空間の生命を、竜起は尊いものに思った。(P.91)

 

もちろん覚えている。覚えてはいるが忘れていた。ややこしい表現だ。

そういえば書いたと覚えてはいるが、書いたことは忘れていた。あら、よけいにややこしくなった。

とにもかくにも、約5年前に自分が引用した曽野綾子の文章にあらためてうなった。じつによいではないか。

ん、まてよ。と、あることを思いついた。「竜起」という物語の主人公が「思った」という箇所を除けば汎用できるのではないか、という思いつきだ。

やってみよう。

 

道は、押しつけがましさやきらびやかさもなく、何かを人に課する場所でもない。宗教的な建築物ならば厳粛さを伴うであろう。他の多くの建造物は多かれ少なかれ、限定された目的を持っている。しかし道には、何の制約もなかった。あらゆる人々が、あらゆる目的をもって、その上を移動するだけであった。その生活の匂いにまみれた空間の生命が尊い。

 

もう少し削ってみる。

 

「道は、押しつけがましさやきらびやかさもなく、何かを人に課する場所でもない。」

これは必須だ。

「宗教的な建築物ならば厳粛さを伴うであろう。」

ここは思い切ってカットさせてもらおう。

そのあとは・・・う~ん・・・こんなのでどうだろう。

「他の多くの建造物は多かれ少なかれ限定された目的を持っている。しかし道には何の制約もない。あらゆる人々があらゆる目的をもってその上を移動するだけだ。その生活の匂いにまみれた空間の生命ゆえに道は尊い。」

できた。

 

道は、押しつけがましさやきらびやかさもなく、何かを人に課する場所でもない。

他の多くの建造物は多かれ少なかれ限定された目的を持っている。しかし道には何の制約もない。あらゆる人々があらゆる目的をもってその上を移動するだけだ。その生活の匂いにまみれた空間の生命ゆえに道は尊い。

 

「あら、けっこういいじゃないの」と自己満足したあと、ちょっと待てよと腕組みをする。

こんなことをしていいのか。こんなことが許されるのか。曽野綾子の文章のようで曽野綾子ではないこれを、アチラコチラでちょいちょい使っていいのか。もし使うとして、「(曽野綾子『無名碑』より)」とやっていいのだろうか。

やはりそれはNGだろう。だとしたら・・・

原文のまま行くしかないだろうな。


 道は、押しつけがましさやきらびやかさもなく、何かを人に課する場所でもないことを、竜起は楽しく思った。宗教的な建築物ならば厳粛さを伴うであろう。他の多くの建造物は多かれ少なかれ、限定された目的を持っている。しかし道には、何の制約もなかった。あらゆる人々が、あらゆる目的をもって、その上を移動するだけであった。その生活の匂いにまみれた空間の生命を、竜起は尊いものに思った。


よし、これで行こう。

と、どこへ行くのかよくわからないが、そう決めた辺境の土木屋61歳。

と言った舌の根も乾かぬうちに


「道は、押しつけがましさやきらびやかさもなく、何かを人に課する場所でもない」


これだけでも十分じゃないのか?

なんて考えがむくむくとアタマをもたげてきたりする。

ともあれ、「真由美さん」、よいネタをくれてありがとう。

これからもヒマがあったらのぞいてやってくださいな。

 

 

 

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『いつまでも若いと思うなよ』(橋本治)を読む

2019年02月18日 | 読む(たまに)観る

 

いつまでも若いと思うなよ (新潮新書)
橋本治
新潮社
 


・・・・・・・・・・ 

 老人の嫌われ方の一つに、「お前に任せた」と言っておいて、そのくせ後になってなんだかんだ文句を付けるというのがあります。文句を付けられた方は、「だったら自分でやりゃいいじゃねェかよ」とひそかに不満をぶちまけるわけですが、なんでそういうことになるのかというと、「お前に任せた」と言うだけで、それに付随する権限を老人が譲渡しないからですね。「お前に任せる」が、時として「これは本来俺のものだが、特別にお前にやらせてやる」という留保付きのものになっているから、後になって「俺の思うものとは違う!」になってしまう。(Kindleの位置No.720あたり)


「任せる」と言うのだったら、その分の権限を譲渡しなければならない。権限を譲渡して、責任も押し付ける。押し付けたんだから、もうこっちの知ったこっちゃない。遠巻きにして文句を言っていると「権限を譲渡しない老人」になってしまうから、「俺はもう知らない」と言う。「自分は年寄りだ」と認めてしまうと、責任がなくなって楽になり、それと同時に世代交代が促進出来るから、いいことずくめです。(略)

 ちょっとずつ年を取っていくんだから、権限譲渡もちょっとずつやって、若い奴に「お前もちょっとずつ年を取るんだから」と教え込む。そういうことをしないで、ある時一挙に権限譲渡を全部やると、リア王みたいな悲劇や、全体の破綻が起こる。(No.730あたり)

・・・・・・・・・・


ふむふむナルホドそりゃそうだ。

と得心しつつ朝もはよから橋本治を読む。

なぜだろう?

ふだんより少し早い時間に起きたというのにスッキリとした目覚め。

いやいや今にはじまったことではない。

いつのまにか心と身体がそういうふうにできてしまっているのだから、考えてみても詮ないことだ。

つまり、「なになにをしなければいけない」という束縛がないと、早くしかもスッキリと目覚めるという、ごくごく素直な心と身体の反応だ。

よいではないか。

なんとなれば、

「いつまでも若いと思うなよ!」

なのだもの。


 

 

お日様がこんなふうに見えると、すぐこのような写真を撮りたくなるジジイ。

ちなみに本分と画像に特段の関係はありませんのであしからず ^^;

 

 

 

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「わからない」という方法

2019年02月17日 | オヤジの情報発信修業

毎日一枚ずつの写真ならチョロイもんだ。なんとなればオレには、約11年にわたるWebでの情報発信の蓄積があるのだもの。とタカをくくって始めてみたはいいが、イマイチあのインスタグラムというやつが、まだまだよくわからない。したがって、相変わらず手探り状態でつづけている。

自分なりに、何を出すか、どんなものを発信するか、という見当をつけてはいるものの、それがあの場でどうなのか、いやそもそもあの場がどのようなものなのかについては、イマイチどころかほとんどわからないのが実状である。

だからといって、「わからないからやらない」あるいは「わかってからやる」という、常識的に考えればごくごく当たり前の道などはあり得ず、これまでと変わらず、「わからないからやる」という方法しかわたしが採用するルートはない。 とはいえ、そこにしがみつく必要性もないのであって、何度も繰り返しているように、「ま、ぼちぼちやってみようや」というのが今のわたしの心境だ。

そんな心持ちの今朝、起き抜けのインスタグラム投稿というルーティンを済ませたあと、フェイスブックをのぞいてみると、近ごろとんとフェイス・ツー・フェイスではお目にかかっていないわが盟友が、自身が「SNSを使う根底にある考え」として、こんな文章を引用していたのを読みハッとした。

・・・・・・・・・・

経験を振り返り、徹底的に追体験することによって、そこで学んだ智恵を可能な限り言葉にしようとする方法。反省を通じて、そこで学んだことを言葉で表そうと極限の努力をするとき、言葉で語れる知識だけではなく、「言葉で語れない智恵」も掴みやすくなる。(『これから知識社会で何が起きるのか』田坂広志 )

・・・・・・・・・・ 

そう、その他おおぜいの「桃組」関係者と同様、「遅れてきた桃組」であるわたしもまた、この、いわゆる「反省の行為」というやつを、Webで情報発信を行うに際しての行動指針あるいは戒めとしてきた。いや、ことはWebだけではない。「完成検査プレゼンテーション」しかり、「工事だより」もまたしかり。情報を発信しようとするときすべてに通底するものであり、その行為がフィードバックされて自身の血となり肉となる。

まちがいない。

とまでは断言しないが、少なくともわたしはそう信じて自分自身を磨いてきた(アタマを磨いてきた、じゃないですよ)。

とかナントカえらそうなことを言いながら、「で、インスタグラムのどこがどうなってそれと関係するの?」と問われれば、

「それは・・・」と天を仰いで、「わからない」と答えるしかない。

なんとなれば、

「わからなくても歩いて行け行けばわかるよ」

あるいは、

「走り出したらいつか答えが出るだろう」

でしかないのが、いつもの「わからないという方法」なのだもの。

 

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2019年02月16日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

ひょんなことから知った人に、知人を介して「会ってもらえないでしょうか?」と打診した。

結果は、快諾とはこういうことを指して言うのだろうな、というほどの見事な快諾。

ほどなくして、先方からダイレクトメッセージが届いた。

彼いわく、このブログをずっと読んでくれているのだという。そして、わたしと会えるのが光栄だという。

この辺境の土木屋が、「光栄」などという晴れがましい言葉をいただくに相応しい人間かどうかは置いといて、さっそく、わずかなキーワードを頼りに過去コメントを探してみると、それほど時間がかからずに見つかった。そりゃそうだ。そんなにたくさんコメントが来るブログではない。と同時に、わたしが書いたテクストに対してコメントをしてくれようかという奇特な人はめったにいるもんではない。そんななか、どうやら何度かコメントをしてくれた人だったようだ。

そしてその最初は、こんな稿に対してだった。

 

・・・・・・・・・

相手のチカラを出させないようにする。

そういう戦術が、サッカーなどのチームスポーツで、勝つために採用されるのはさほど珍しくない。

チームスポーツに限らず格闘技などでも、相手のチカラを削いで勝つ、という戦い方を得手とする選手は少なからずいる。

こと「勝ち負け」にこだわった場合、それは立派な戦術であり、他人がとやかくいう筋合いのものではない。

(エンターテイメントとしてのスポーツを楽しむという観点からすれば別ですが)

だが、ルールを改変するというのはどうだろう。

またまたスポーツの例を出すと、かつての水泳(田口信教しかり、鈴木大地しかり)や、かつてのノルディック(ジャンプしかり、複合しかり)のように、優秀な日本人選手が出現して競技を席巻すると、すぐさまルールを改変して勝たせまいと策略をめぐらす(どこの誰、とは特定できないが)欧米の輩のように。

そういう戦術を採用する人が、どうやら私たちの業界にもいるようだ。

せっせせっせと陳情とやらにいそしんで、今、優位に立っているものたちのチカラを削ごうとする人たちである。

だが、制度やシステムの改変は、それがどう転ぼうと、公共事業の請負者たる私たちにとっての宿命だ

なにをどういおうと結果的には、変わったなかで泳ぎ切っていかなければならないのが現実である。

そのために肝要なのは、変化に対応できる柔軟な発想と、変化するなかでも変わらない理念を持ちつづけ行動していくこと。

そしてその繰り返しのなかから、それを実行できる人材を育てていくことではないだろうか。

制度改変についてのイニシアティブは施工者の側にはない。

バッジをつけた先生にお願いして、たとえいっときある例でそれが成功裏に終わったとしても、あくまでそれは、官の側が官にとっても都合がよかったから乗ったというに過ぎない。 

繰り返し言う。制度の改変やシステムの改変は、それがどう転ぼうと、私たちにとっての宿命なのである。

もちろん要望をあげること、手練手管を使って制度を変えようとすることは、戦術として否定されるべきものではない。おおいにやったらよろしがな、である。

だが私は、そんなことよりも、内なるチカラを磨くことを優先したい。

地域を向いた仕事をしつづける。そしてそこから生まれた信頼をストックしていく。

今の「勝ち負け」というフローに一喜一憂し、そこを勝ち切る戦術を考え実行していくことは、番頭たる身として当然のことなれど、「信頼のストック」にはこだわりつづけたいと思う。

そのうえででき得れば、「だって私は技術を売ってるんだもの」、とにっこり笑って対応していくぐらいの心持ちでありたい。

とはいいつつも内実は、切歯扼腕、涙がちょちょ切れながら、青息吐息でついて行くのが精一杯だ。内々では、ああだこうだと愚痴ってばかりもいる。

だが、困った困ったと頭を搔きながらでも、そんな心持ちを忘れてはならないと思っている。

信頼は現場から生まれ、そしてその信頼はストックされる。

笑顔でたたかえ、えぶりばでぃ。

・・・・・・・・・


「私たちも」で始まるこれに対するコメントの最後はこう締めくくられていた。

「常に自分達の武器を磨いて真面目に努力していたら、自然と道が開かれていました。」

刹那、坂本九がナレーションをしていた『新八犬伝』の名台詞が思い浮かぶ。

「因果はめぐる糸車、明日はわからぬ風車、臼で粉引く水車、我が家の家計は火の車、車は急には止まれない、すべて世の中堂々巡り・・・」

いやいやアレはよくないたとえ。この場合にアレはふさわしくない。と苦笑しつつかぶりを振ったわたしに、すぐ別の言葉が降りてくる。

袖触れ合うも他生の縁。

Webでのささやかな触れ合いが、まわりまわってあらたな縁となる。

発信しつづけることが、そして動きつづけることが、またあらたな縁を生み出す。


辺境の土木屋61歳、少しばかり感動している。

 



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やけどの丸干し

2019年02月15日 | 食う(もしくは)呑む

 

朝いちばんのインスタグラム投稿がほぼ日課になってきたわたしが、どれどれ今日はとスマートフォンのライブラリをのぞいていると、一枚の画像に目が止まった。

ひと皿に乗った一匹だけの干物。

丸干しだ。

もちろん、いつ食したのかまでを忘れていたわけではない。その一部始終をくっきりはっきり鮮明に覚えている。

先日、お城下の夜、連れが頼んだ「メヒカリの丸干し」の品書きのその横に書いてあったその干物を、思わず注文したのはなぜだったか。酒を呑むと胃がバカになってしまい、食べだすと止まらなくなるのを警戒自重して、飲酒の端(はな)を除いては、食べ物を口にすることがほとんどなくなってしまうわたしだ。ふだんならアルコールだけがあればよかったはずだ。

が、たまらなくそそられた。

そして、目の前に出された干物を見るとどうにも箸が止まらなくなった。

食う。

そしてぐびり。

また食う。

そしてまたぐびり。

干物になった魚の名は「やけど」。

「やけど」の丸干しだ。

ハダカイワシのことを、ここ高知では「やけど」と呼ぶ。

外見とは異なり上品な身が、ほろほろと口のでほぐれ、口中に広がった脂を酒で胃の腑に流し込む。

「そそられた」直感はまちがいではなかった。

じつにうまい。

食味もさることながら、その見た目がまたよい。

ウロコが取れてツルツルな風貌が、他人ごとのような感じがしない。

心して食えよ、と独りごちながら、

またまた食う。

そしてまたまたぐびり。

気がつけば、となりにあったメヒカリもほとんどわたしが食っていた。


それから何日かが経ち、ひと皿に盛られた一匹の裸鰯の画像を見て、

「さて今宵は・・・」

と早くも晩餉に想いを馳せる辺境の土木屋。

「その前にしごとやろが!し・ご・と!!」

別のわたしにそう叱られて首をすくめる、セントバレンタインデーの次の朝。

 

 

 

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