答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

5人

2019年06月19日 | オヤジの情報発信修業

・・・・・・

いつも礒部組さんの投稿を楽しく拝見しています。ライブ感のある働く人の画像。その人の存在が支えているものが伝わってくる。仕事とは、そういうものだと教えてくれる。

・・・・・・

インスタグラムに投稿した写真を、同時にフェイスブックページでシェアする日々もようやっと半年。同時にそれは、「人物は主役としない」という工事写真のセオリーから外れた行為に自ら進んで踏み込んでいくこと、すなわち、「人にフォーカスした現場写真を撮る」というパラダイムシフトを自らに課すことでもあり、

「オレってこれ好きかもしれない」

とか

「1日一枚ならチョロいもんだ」

とか

まわりには、そう言い放ち、なんの苦労も問題もなさげにふるまっている一方でその内心は、「はてさていったい、こんなんでいいのだろうか?」などと手探り状態がづいている(非テキスト系SNSによる)オヤジの情報発信修業の日々だった。

そんなある日、フェイスブックページにアップロードした写真をシェアしてくれた人がいる。そこについていたコメントが冒頭のものだ。

読むなり、込み上げてくるものがあった。大海原の真んなかで途方にくれていたら、取りつく島が見つかったといえば、「なにをまた大げさな」と笑われるかもしれないがが、当の本人にとってはあながち過大な表現でもない。

となると現金なものだ。生来のものか、それとも紆余曲折の果てゆえか、捻じて曲がって屈折した性分ではあるが、その一方、すこぶるつきで単純な男でもある。がぜんヤル気がわいてきた。

翌晩、そんな話を友人にしたら、こんな答えが返ってきた。

「土木写真という分野にあらたな風を吹きこんだ」

誰って、わたし(たち)の写真が、である。

いくらなんでもそりゃ持ち上げすぎだろう。いかに自惚れ屋のわたしといえど、そんな言葉においそれと乗るわけにはいかないな、と思った。だが、冷静に彼の言葉をふりかえってみれば、何かを成したとはひと言も言ってない。であれば、あながち過大な評価でもないかもしれない。では素直に受け入れようと、浅くうなずき、またまたヤル気がわいてきた。

なんてことを、昨夜、別の友人に話すと、

「ホントにいいですよ、あれ。最初はどおってことなかったけど、途中からスゴくよくなった」

との感想。

それを聴いていた飲み屋のおネエサンが「なになに?」と問うので、インスタグラムを見せると、

「これいい。スゴくいい。”映え”とかを意識してないところがとてもいい」

と、予想をはるかに超える好反応。

そしてもうひとり。

毎朝いの一番で「いいね」をくれる、北の大地の土木屋さん。

開口一番の「会いたかった」につづいて、現場写真の数々を絶賛してくれた。


今のところ合計5人。

「たった5人」ととるか「5人も」ととるか。

当然わたしは、「5人も」を採用しておのれのヤル気を増幅させる糧とする。

 

ありがとう。

精進します。

ぼちぼちと。

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本物

2019年06月18日 | ちょっと考えたこと

札幌にいる。

本物に会った。

一夜明けた今も、興奮の余韻を引きずりつつこれを書いている。

42歳だという。

もちろん、その人物のデキるデキないを評価するのに年齢は関係ないが、迂回や逡巡を繰り返しつつようやっとここまで来た年寄りは(それでもたかだか「ここまで」ですが)、ついつい、「お若いのにたいしたもんだ」などという感想を持ってしまう。

悪い癖だ。

しょうがないヤツだと笑ってほしい。

さて、くだんの彼だ。

今朝、勉強会のメモをあらためて読み返してみた。

じつをいうと、その本物氏とわたしは、初対面ではない。

いかな記憶力が衰えたオジさんだとはいえ、会ったのははっきりと覚えている。

しかもいつどこで、どのようなシチュエーションで会ったかもきちんと覚えている。

名前と顔もちゃんと一致していた。

しかし、会話をした記憶がない。

「たしか、名刺交換しかしてないですよね」

勉強会の冒頭、そう切り出したわたしに、「けっこう濃い話をしてくれましたよ」と彼は言う。そして、そのときわたしがアドバイスをした内容をきちんと説明してくれたうえで、こう付け加えた。

「ずいぶん酔ってらっしたようでしたから」

あゝ・・・

内心の動揺を隠しきれないわたしは、

「あ、あんときゃあ、◯◯さんとかに日本酒をたっぷり呑まされてね・・」

などという痴れ言を口走り、恥の上塗りをしてしまった。

まあいい。

いくら吐く言葉に修辞を凝らしてみても、しょせんはその程度の男だ。 

であれば、早い段階で知ってもらっていたほうが、あとあとが付き合いやすいというものだ。 

 そう、この付き合いは先へとつづく。

 いや、つづけさせてほしい。

 お願いします。

 

 

 

 

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『俺に似たひと』(平川克美)を読む

2019年06月17日 | 読む(たまに)観る

 

俺に似たひと (朝日文庫)
平川克美
朝日新聞出版

 

平川克美さんの著作はほとんど読んでいるなかで、意識的に避けてきた一冊。

『俺に似たひと』を読む。

避けてきたというその理由は、「ひとりの働き盛りの男が、単身で親の介護をし」、そして看取った物語であるという「重さ」ゆえ。その一連の経緯は、平川さん自身がWebで発信したものを折に触れ読んでいたことから、ぼんやりとではあるが把握していた。そう、「俺に似たひと」とは著者の父親のことである。つまるところ、自分が自分の「俺に似たひと」と向き合わざるを得なくなるだろうことを察知して、その煩わしさが嫌で避けてきたのだ。

当然のことながら、なにかを「読む」「読まない」はわたしの自由であり、「読まない」を選択したところで誰にどうこう言われることでもない。しかし、その「読まない」が、なんだか釈然としない選択だったのもまた事実である。

そんな『俺に似たひと』を読む。

・・・・・・

 人は誰もが人生の冬至に向かって長い坂道を下って行く。その介護と看取りの過程に積まれた膨大な極私的些事の堆積が「世界」をつくっている。それなしに「世界」は成立しない。些事にして大事、あるいは些事こそが大事、そうしみじみと思わせるのが、この本『俺に似たひと』の文学の力量であろう。(解説『気づいたときには終っている』関川夏央、より)

・・・・・・

読んでよかった。

 

 

 

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旅のはじめに

2019年06月16日 | ちょっと考えたこと

長瀬さんがこんな文章を投稿していた。ご自身のFBタイムラインにである。

ご本人の了解をいただいたうえで全文を紹介する。

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 最近こんなことを思います。他の企業がこんな賞をもらった、表彰された、認証された、新聞に掲載された。など各企業様々な取り組みに対し非常に努力している。でも業界では誰も何も言わず、ライバル会社の実績についてあえて多く語るものはいない。言い方を変えれば良く思わないのだ。本当にこれでいいのか。この業界。
 最先端で苦労し努力し、前向きな企業には学ぶことも沢山あり、見本になる。そんな企業に対し、敬意を払い、業界の発展の為に尽くしている企業に対し心から感謝したい。これからもご指導お願いしますという謙虚な気持ちを伝えなければいけないのではないかと思います。それぞれ企業とは競争性もある、しかし実行に対し心から評価、尊敬したいと思います。そして負けないように社員一丸となって努力し、地域の皆様に喜んでもらう。それを目標にすればよいのではないでしょうか。お互いに切磋琢磨、業界を盛り上げて行くことが大切なんだと。

・・・・・・

もちろん、「最先端で苦労し努力し、前向きな企業」が、自ら「敬意を払え」だとか「感謝してほしい」とかを表明するとも思えないし、もしそう公言するとしたら、それはたぶん紛い物なのだろうとは思うが、そういった企業や個人の存在が、その他おおぜいにとってどれだけ有意なものかについては、じゅうぶんな評価とリスペクトが与えられるべきだとわたしも思う。

しかし現実は、長瀬さんがおっしゃるように、「良く思わない」人たちが多数存在する。いや、よく思おうが悪く思おうが、それはその人たちそれぞれの心象なのだから好きにすればよいが、有りがちで、そしてどうにも辟易としてしまうのは「足を引っ張って引きずり下ろす」という行為を目にしたり耳にしたりすることだ。しかも、「ちがうチカラ」を持ち合わせた人たちを利用してそれを行ったりする。いやはやまったく、どうもこうもない。

とはいえ、「なに甘っちょろいことを、弱肉強食の世界を生き抜いていくうえではアノ手コノ手は当たり前じゃないか」と反論されれば、わたしとて尻の青い小僧ではないのだもの、「たしかにそりゃそうだ」と肯定してしまいそうな自分がいないではないが、さりとてやはり、それはそれ、そこはそうではないのだと旗色を鮮明にしておかなければならないだろう。 「お盆」の上の住民が、その「お盆」の上でいかな争い方をしようと勝手なのかもしれないが、その「お盆」はいつでも外とつながっていることを忘れてはいけない。外界の目にさらされつづけていることに自覚的でなければならない。「お盆」の外の世界によって生かされていることを忘れてはいけない。 となればやはり、こういうマインドセットを保ちつつ、「やるかやられるか」の日々を生きることが肝要なのではないだろうか。

・・・・・・

それぞれ企業とは競争性もある、しかし実行に対し心から評価、尊敬したいと思います。そして負けないように社員一丸となって努力し、地域の皆様に喜んでもらう。それを目標にすればよいのではないでしょうか。

・・・・・・

読みながら、深く深くうなずくわたしは、きのうから「杜の都」にいる。あしたからは「北の大地」だ。きっちり一週間の長の旅、来し方をふりかえり、行く末を考える遠征になりそうだ。


 

 

 

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「使える」写真

2019年06月14日 | オヤジの情報発信修業

インスタグラムを会社アカウントではじめて、はや半年になろうとしている。

そのあいだの投稿数は176、数撃ちゃ当たるってものではないのは承知しているが、「スタートにしては上出来じゃないか」と独り悦に入っている。待っていても誰も褒めてはくれないので、とりあえず自画自賛をして自分で自分をヤル気にさせる、といういつもながらの方法だ。

つい先日、「あれって全部アナタが撮った写真ですか?」と訊かれた。同様の疑問を持つ人は少なからずいるようで、これまでも何人かに質問されている。

答えは「ほぼ・・」である。

ちなみに、はてじっさいはどうなんだ?と数えてみたら、今日現在のカウントで176のうち155投稿がわたしが撮影したもの、あとの21がわたし以外が撮ったものだった。176分の155だから88パーセント、やはり「ほぼ・・」という感覚にまちがいはなかった。

とはいえ、残りの10パーセント強の存在が数字どおりの十分の一の価値かというとさにあらず、これがずいぶんとわたしの「インスタグラムという日々」を支えてくれているし、そう社内で広言もしている。

そしてそれは、インスタグラムに限らない。「現場情報」という名のブログの場合もそうだ。というより、ブログの場合は、その重要度がなおさら高くなってくる。

なぜか?

毎日毎日現場へ足を運んでいるわけではないからだ。

いやむしろ、現場へ行っていない日々のほうが多いからだ。

それは、意図してそうしている場合と行きたくても行けない場合とに分かれるにしても、どちらにしても、つまり「行かない」と「行けない」のどちらにしても、「行ってない」という結果は同じである。そのような状況のもと、社内の情報共有ツールとしてあるサイボウズOfficeにアップされる日々の現場情報写真が、わたしが「Webという場」でする情報発信にとって、このうえなく重要な位置を占めてくるのは当然の帰結だろう。

そんななかで、数多ある写真は、当たり前のように「使える」と「使えない」とに分かれてくる。

なにがその差を生み出すのだろうか。

ウデだろうか。

たしかにそれもあるだろうが、そうではないとわたしは思うのだ。

いわゆる「ウデ」の差というやつが効いてくるのは、もそっと高いレベルにその段階が上がってからである。

今わたしが問題としているのは、そのまだ下段階の話だ。

ではもういちど問おう。

なにがその差を生み出すのだろうか。

まずは意識だとわたしは思っている。

「ありゃりゃ、もっと意味のある言葉が出てくると思ってたら、よりによって意識かよ」と嘲笑うそこのアナタ。

だから「まずは」と前置きをしたではないか。誰がなんといっても、「まずは意識」である。そしてそれが意外なほどハードルが高い。漫然と撮るか、意識して撮るか。この差が大きい。

たとえばそれは、伝えることを意識するだ。

なにを伝えるかを意識する、どうやったら伝わるかを意識するだ。

またたとえばそれは、表現することを意識するだ。

なにを表現するかを意識する、どうやったら表現するかを意識するだ。

言い換えると、主題を持って写真を撮るだ。

な~んにも考えずアタマを空っぽにした状態で「撮るという現場」にのぞんだほうがよいものが撮れる、という人は多くいるだろうし、わたしもまたその意見を支持するものだが、それはあくまで、撮りはじめる前に先入観を持つな、とでもいうべきことであって、いったん撮りはじめたら、やはりテーマは持つべきだろう。一枚一枚が別々でも、今日はコレにき~めたでもどちらでもいい。とにかく、主題を持って写真を撮る。

他にまずすることは、基礎技術を覚えるだ。

漫然と、ただそこにあるものを撮るか、基礎技術を習得して撮るか。技術、と呼ぶほどのたいそうなものでなくてもよい。初歩程度のものだけで差し支えない。見渡すところ、工事記録写真撮影という仕事を必須業務としてこなしながら、それすらもわかってない人がなんと多いことか。それは、そんなこと理解してなくても撮れちゃうもんねーという現実が生み出したものにはちがいなく、テクノロジーの進化とはそういうものだと言ってしまえば、それはたしかにそうかもしれないが、それでは「使える写真」は撮れない。とにかく、初歩テクニックぐらいはアタマに叩き込んでおくことが必要だ。特に必須なのはフレーミング(構図)の基礎知識だろう。そしてそれは、記録として必要なものがフレームのなかに入っているか、あるいは記録としては余計なものが写っていないかを確認するだけのフレーミングではなく、どのようなアングルを採用すれば「伝わる」か、もっと平たく言えば、どのような構図が「カッコいい」かを第一義として考えるうえでのフレーミングだ。

ではそのさらに先は、中級あるいは上級テクニックを習得する、になるのだろうか。

わたしの答えは、「必要ない」だ。

好きならば学べばよい。

だが、現場からの情報発信に「使える写真」を撮る、という目的を満足させるためには、とりあえず要らない。

ではそのさらに先で必要とされるものはなにか。

感性である。

「な~んだ、感性かよー、意識といい感性といい、あいかわらずフワフワっとした形而上の話しかしないから困っちゃうね、このオジさんは。技術屋だったらもそっと具体的な話をしてよ。」とお嘆きのそこのアナタ。わたしはおおまじめだ。もういちど言う。

感性である。

何度でも言う。

感性である。

フレーミングの基礎知識がなんだのかんだのといっても、

つまるところはそこではない。

決め手は、

感性である。

ついでに言う。

土木技術者にとってもっともたいせつなものは、

感性である。


では、その感性とやらはどうやったら磨かれるのか。

ここからが肝心だが、長くなったので手短に済ます。

残念ながら、「土木だけ」では優れた感性は身につかない。「土木の仕事だけ」をいくら一所懸命やったところで、磨かれる感性はたかだか知れている。ストレートに言えばそれは、「プロフェッショナルの写真を観る」だろう。あるいは、「絵を観る」もそうだ。マンガでもいい。映画を観るのもよし。とはいえそれは、「その気」になって観なければなんにも生み出さない。なにをするにつけても、「漫然と」という態度から生み出されるものはない。

「あれあれ?”土木技術者にとってもっともたいせつなもの”が”土木の仕事だけ”を一所懸命やって身につかないってどういうこと?とんだ自家撞着じゃないの?」といぶかしがるそこのアナタ。ところがどっっこい、それが土木技術者の土木技術者たるゆえんであり、そこんところが土木技術者という仕事のおもしろいところだ。

優れた土木技術者は、ジェネラリストでなければならない。

ジェネラリストには、「土木の仕事」を一所懸命やるだけではなれない。

そういうことだ。なんの矛盾もない。

ん?

なんの話だった?

そうそう、写真の話だ。

これをお読みのアナタが、もしも「業務以外になんでそんな面倒くさいことを考えなけりゃならんのよ」と思う人なら、これだけは教えておいてあげたい。ともあれ、そんなふうに色々さまざま考えながら写真を撮るという行為が、「工事記録写真を撮る日々」に活かされないはずはないのだ。

情報発信に「使える写真」を撮る。

そしてもちろんのこと、それを「使う」あるいは「使ってもらう」。

技術者としてのレベルアップはわたしが保証する。

なによりそうすることで、仕事に別のたのしさが生まれる。

今がたのしくない人は、そんななかからたのしさが生まれるかもしれない。

さ、「れっつびぎん」だ。


以上、今という時代の土木技術者にとって「使える写真」とは、である。


 

 

 

 

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本日の・・・

2019年06月13日 | オヤジの情報発信修業

さて、今日はなにを書こうか、とキーボードに手を置き天井を見上げたが、ひと欠片の言葉も降りてこない。

そりゃそうだ。そもそも、言葉が降りてくるのを待つ、という了見がおかしい。

あるときふと「降りてきた言葉」をキッカケとして、そこから湧き上がるものを紡いでいく場合はあるにせよ、言葉が降りてくるのを待ち、それをキッカケに書くというのは、方法としてまちがっている。そんなことをしたところで、ただただ時間が無為に過ぎるだけだ。それならば、行き着くあてがないままでも、とにもかくにも書きはじめたほうが、筆が進む確率はずっと高い。となれば・・・よくあるパターン、困ったときの「下書き」頼みだ。「記事一覧」から未公開の稿を漁ってみた。

と、2週間ほど遡るまで「下書き」がない。

いくらでも湧き上がってくるときは、そんなものではない。

近ごろの「書くという日々」が、いわばその日暮らしのようなものであることの証だ、ということは置いといて、2週間前の草稿を読んでみた。

こんな文章だ。

・・・・・・

「見返り」を求めるならば自分で動け。

価値は自分でつくり出せ。

でも

「見返り」があるとはかぎらない。

いや

期待値と等価の「見返り」があることは少ないのが世の中の常だ。

ときとして

想像以上の「見返り」があったにしてもだ。

そしてその成功体験を糧としてステップアップを図ろうとするにしてもだ。

・・・・・・

残念なことに、何を言わんとしたのか、まったく身に覚えがない。

たいがいの場合は、読み返すと何かしらを思い出すものだが、コイツはさっぱりわからない。

はてさて何を伝えたかったのか?

きれいサッパリ忘れてしまうということは、たいした想いでもなかったのだろうと推察するが、なんだか思わせぶりな文章でもある。

あゝ、なんてこったいまったく、ヤキが回ったもんだねオレも、などと独りごち天井を見上げ、さて・・・と首をひねった刹那、ひらめいた。


「という近況報告をもって本日のブログ更新ってのはアリか?」

そう自分に問いかけ、

「いや、アリでしょ」

と自分で返答し、

「ながくやってるうちにゃあ、そんなのがあってもイイ」

と大真面目にうなずいてみる。


そういうことで、

またあした。


 

 

 

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人生はよろこばせごっこ(やなせたかし)

2019年06月12日 | ちょっと考えたこと

朝、こんな文章を読んだ。

・・・・・・

人間が一番うれしいことはなんだろう?

長い間ボクは考えてきた。

そして結局、人間が一番うれしいのは、

人間をよろこばせることだということがわかりました。

実に単純なことです。

ひとはひとをよろこばせることが一番うれしい。

美しく生まれた人は、

その美しさでひとをよろこばせることができます。

学問のあるひとは学問で、

絵をかけるひとは絵をかくことで、

歌えるひとは歌で・・・。

なぜおいしい料理をつくるか。

お料理を食べたひとが「おいしい!」と

いってよろこぶのがうれしいからです。

ひとはみんな、よろこばせごっこをして生きています。

それが、このいかにもさびしげな人生の

ささやかなたのしみになります。

ボクらはそんなに長く生きはしません。

星のいのちにくらべれば、瞬間に消え去っていきます。

それならば、その束の間の人生は、

なるべく楽しく暮らしたほうがいい。

そして、その楽しさの最大のものは

他のひとをよろこばせることなのです。

(やなせたかし『もうひとつのアンパンマン物語』より)

・・・・・・

 

 

もうひとつのアンパンマン物語―人生は、よろこばせごっこ
やなせ たかし
PHP研究所

 

なにより気に入った箇所を、なんどもなんども繰り返し読んでみた。

 

ひとはみんな、よろこばせごっこをして生きています。

それが、このいかにもさびしげな人生の

ささやかなたのしみになります。


深く深くココロに染みた。

ハゲしくハゲしくうなずく辺境の土木屋61歳と5ヶ月。



 

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たまには右を向いてみよう ~ モネの庭から(その355)

2019年06月11日 | 北川村モネの庭マルモッタン

坂道をあがって水の庭へと着くと

まず太鼓橋が迎えてくれる。

左を向く。

そこが水の庭だ。

と、

たいがいの人はそうなるが、

橋というからにはとうぜん、

右を向いても池はある。

 

 

楓(ふう)の木のあいだから

太平洋が見える風景に

思わず息を呑んだ。


池には白い睡蓮が3つ

並んで咲いている。

その横に目を移していくと

小ぶりの赤い睡蓮が・・・

 

 

 

小首をかしげながら

風にゆれていた。


緑萌え

空あくまでも青く

水は澄み

雨の季節の気配を微塵も感じさせない「水の庭」を歩く。


これだから

モネの庭通いはやめられんのだわ。


 

 

 

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純白 ~ モネの庭から(その354)

2019年06月10日 | 北川村モネの庭マルモッタン

蒼い池に浮かぶ

 

 

翠の池に浮かぶ

 

 

影に咲く

日向に咲く

 

 

やはり睡蓮は白がよいな



 

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「問題の答え」としてある「問題」

2019年06月09日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

喪失の戦後史
平川 克美
東洋経済新報社

 

・・・・・・

なぜ、成長の停滞や、格差の広がりを、問題の答えだととらえず、問題だととらえてしまうのか。

(No.2615あたり)

・・・・・・

この文章が、きのうからずっとアタマの片隅に住み着いて離れない。

もちろん、「成長の停滞」や「格差の広がり」という大きな問題がどうのこうのではない。この辺境の土木屋が考えることといえば、家族のことと会社のこと、そして太鼓のこと、範囲を広げたところで公共土木という業界のことであり、日本全体や、はたまた全世界規模のことなどは、このへっぽこアタマの思考がおよぶところではない。あくまでもそれは、「わたしとわたしの環境」についてであり、しかもそれは限定された「わたしとわたしの環境」の範囲でしかない。

では、どの部分がアタマに住み着いて離れないのか。

後段の部分だ。

つまり、

なぜ「問題の答えだととらえず、問題だととらえてしまうのか」

という問いかけが、である。

この言葉はじつに示唆に富んでいる。

今そこにある問題は、単なる「問題」ではなく「問題の答え」としてあるのかもしれない。

残念ながらこれまでのわたしは、めったにそういうアプローチから思考を展開したことがなかったような気がしてならない。そう思いはじめると、「問題の答えとしてある問題」という言葉がぐるぐるぐるぐると頭のなかを駈けめぐり、出て行こうとしなくなったのだ。考えれば考えるほど、「問題の答えとしてある問題」はそこらじゅうにゴロゴロしていることに気がつく。気がついたからといってそれは、問題解決に即つながるようなものではないだろうが、少なくとも、そう考えることから問題解決への道すじを探していくという方法は、選そう考えることから問題解決への道すじを探していくという方法は、問題解決策が現実から乖離しないためにも、選択肢のひとつとしてあったほうがよい。


そんなことなどを考えながら、モネの庭を歩く辺境の土木屋61歳と5ヶ月。



 

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