答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

脆さ

2019年03月31日 | ちょっと考えたこと

元来が涙もろいほうだったのだが、近ごろではそれがなおさら進行したようで、ほんのなにげないことでウルっときたり胸がつまったりする。

アレ?

こんなところで?

自分でもびっくりしてしまうぐらいだ。

イカンイカン。

そう自制しなければ、そのまま落涙してしまうにちがいないようなザマもたびたびだ。

なんてこったい。

どうしようもないジジイだな。

と思うが、ふいに圧しよせるその感情は自分自身でどうすることもできない。できるのは、グッとこらえて自己崩壊を防ぐことだけだ。

「ホラ、また涙ぐんでる」

女房殿はすぐそうからかうが、わかるのは彼女ぐらいだろう。他の皆は気づいていないはずだと自分では信じている。

加齢のせいだろうか。

まったく関係ないとは断言できない。いや、その影響がもっとも大きいのだろう。

「別に悪いことでもないぢゃないか」

別のわたしが珍しく擁護してくれるが、

「そうか?よくはないぜ」と返答する。

ただでさえ生来の感情過多熱量過剰熱苦しさ満載のオジさんなのに、齢を重ねれば重ねるほどその針は逆の方向にふれるだろうと思っていたそれが、、、

だが、ま、よいではないか。

自分のダメさかげんを認めて許せ。

自分の脆さを認めて許せ。

自分の至らなさを認めたうえで許してあげることができない人間に、他人さまを認めて許すことなどできはしない。

テレビのなかで芸能人3人が国訛りで楽しそうにしゃべっているのを見ながら、ふとそんなことなどを思った日曜の朝。

平成30年度が終わる朝。

辺境の土木屋60と1歳。

 

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iCOLOCOLO

2019年03月30日 | オヤジのIT修業

 

 

つい先日、3名でのぞんだ発注者との打ち合わせの席上、3Dモデルをぐるぐる回したりドローンで撮った俯瞰画像で説明したりのわたしと、そのかたわらで2次元図を拡大したり不明な点を検索したりの「若」。iPad を2台駆使しての打ち合わせが終わったあと、どちらからともなく、「今日はけっこう上手に使えたね」としたり顔で、ささやかな自己満足にほんの少しだけれど浸っていた。

そりゃそうだ。

苦節七年である。

iPad を仕事に使おうとしたはいいが、なかなかものにはならず挫折。一念発起して再度チャレンジをはじめてから、まだ数ヶ月しか経ってないが、今度はなんとかなりそうな、そんな確信めいたものができている。

さてその iPad 。さほどキレイ好きとはいえないわたしだが、ディスプレイの汚れが気になって仕方がなかった。iPad にかかわらずタブレット全般がそうなのだろう。いやスマートフォンにせよ PC にせよ、指の脂や汚れが画面につくのはタッチパネルが持つ宿命だ。繰り返すが、お世辞にもキレイ好きとはいえないわたしだが、妙に神経質な部分も併せもっており、気になりだすとこれがどうにも、、、

 

 

そんなとき、知ったのがこれだ。

 

 

キングジム タッチパネルクリーナー 保護フィルム用 iCOLOCOLO C1820 グレー
キングジム(KINGJIM)
キングジム(KINGJIM)

 

 

 

うん、快適。

iPad、

苦節七年艱難辛苦の末、なんとかものになりそうな気配である。

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ダイアローグ

2019年03月29日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

提出書類を確認してくれと頼まれた。

わたしの通常業務範囲内である。

こんな場合のわたしは、誰にでもかれにでも等しく通りいっぺん決まりきった対応をするわけではない。パターンはいくつかに分かれる。

1.ヒントだけ与えて突き放す。

2.一言一句を直接なおす。

3.その中間、つまりあきらかな誤字脱字は直接なおすが、本質にかかわる部分は考えてもらう。

などなど。

1はもちろん、自らのアタマで考えてほしいがゆえだ。

2を選ぶのは、そんな手間ヒマをかける時間がないか、何度かやりとりをしたあとなどが多い。

もちろん、そんなふうに大別してスパッと割り切れるようなことはあまりなく、その場そのときで対応にアタマを悩ませることも少なくない。

今回も「さて、どうしたもんじゃろかのう・・」と腕組みしてしばし考え、これまでにあまりなかった方法を採用してみた。

「話し合うという方法」だ。

「ダイアローグという方法」とでも言おうか。

それも、直接の当事者である彼我だけではなく、他の人にも加わってもらってである。

これが思いのほかよかった。

その場の雰囲気がよかったとか、よい話し合いができてよかった、とかはもちろんだが、それよりなにより、結果としてできあがったものが「よかった」のである。

ちょっとした発見だった。

と同時に、その実践においてはよほど注意してかからなければならないということにも気づいた。わたし、つまり彼我の力関係において強いほうが考えや意見を押しつけないことだろう。いかなる場合も同じことではあるが、押しつけや強制は厳として戒めなければならない(どの口が言うんだよ、といった文句には耳を貸しません)。そうしないと、一見すると「開かれた方法」を採用したようでいて、そのじつは、単なる強制や押しつけのほうがシンプルでストレートな分よほどマシ、といった笑えない結果になりかねない(いや、よほど気をつけてないとけっこうあるんですよネそういうの、わたしだけじゃなく)。言わずもがなのことだが、ただただ複数で会話をすればダイアローグが成立するというわけではない。いわゆる「上」に、「場」を成り立たせるための自覚と努力がなければ、そこは単なるアリバイづくりや自己満足の場としてしか存在し得ないのだ。


と、そんなことなども考えつつ、とはいえちょっとした発見だったことに変わりはない。

とにもかくにも、そうかこんな方法もアリだなと気づいた。

あらたなラインアップに加わりそうな気配、いや、加えなければならないんだな(たぶん)。


 

 

 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

 

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カフェインハラスメント(カフェハラ)

2019年03月28日 | ちょっと考えたこと

カフェインハラスメントという言葉をご存知だろうか。

略して「カフェハラ」だという。

わたしは今日知った。

JCASTニュースに載っていたこの記事からだ。

「来客にコーヒー提供」は「カフェハラ」? マナー講師の見解は...

「なんでもかんでもハラスメントとつけりゃいいってもんじゃないよ」とふだんはハラスメントという言葉に辟易としているくせに、オジさん、この「カフェハラ」という言葉には得たりとうなずいた。

なぜか。

じつはわたし、コーヒーが飲めない人なのである。

無理して飲めないことはない。

だがそれは「よっぽど無理してなら」というほどの無理であって、そのあとは十中八九ひどい胸焼けとなるので、飲むときはよほど腹をくくって飲まなければならない。

いや大げさではない。

「酒はあれほど呑むくせに・・・」

そうそう、私が「だめなんですよ、コーヒー」というと、たいがいの人は、そうおっしゃるし、それはたしかにそうなのだが、ダメなものはダメ、わたしはコーヒーが大の苦手なのだ。

そんなもんだから、こちらの都合をきかずに出てくるコーヒーへの対応はというと、相手との距離感によってほぼ次の段階に分かれる。

「飲めないんです」と言う。

なにもいわずに飲まないで置いておく。

「男の気持ち」で飲む。

いや笑わないでほしい。

これが、ときには憂うつにもなってしまうほどの、けっこう大きな問題なのだ。

「カフェハラ」

わたしがその言葉の響きに得たりとうなずいたのも、「むべなるかな」と理解していただけただろうか。

 

JCASTニュースの記事によると、なんでも発端は、『はてな匿名ダイアリー』への投稿だという。調べてみたら3月20日、まだあたらしい。

コーヒーを軽々しく勧めないで!「カフェハラ」ですよ

全文を読んでみた。

・・・・・・・・・・

アルコールと同様に、カフェインも健康に対する影響は個人差が大きいので、軽々しく勧めるなどの「カフェハラ」をしてはならないのだ。私が望むのは、カフェイン摂取をセルフコントロールできるような社会である。

・・・・・・・・・・

と締めくくっていた。

どうやら投稿主さんは、カフェインを問答無用ですすめられることを問題視しており、「こちらの都合もきかずに出てくるコーヒー」はそのもっとも典型的で顕著な例としてあるようだ。わたしとはチトちがう。

わたしはコーヒーが苦手なだけだ。

そしてその苦手なものが、ほぼ問答無用で出てくるということに、いちいち対応することが辛いだけだ。出してくる相手を責めようという気持ちはほとんどの場合にない(何度か言ってもわかってくれない場合はそりゃね)。「ったく、たかがコーヒーぐらい、ひょいひょいと飲めないもんかね」という思いが忸怩としてあるからだ。

そんなわたしの心持ちにピタリと当てはまるのは、JCASTニュースの記事中で紹介されたナンシー関のこの一文だろうか。

・・・・・・・・・・

私はコーヒーが嫌いである。理由は、おいしくないと思うからだ。 単なる嗜好品の好き嫌いであるから、非難される筋合いのものではない。確かに非難はされない。しかしそれは、コーヒー好きの人たちの視野の中に『非コーヒー好き』が入っていないからである。 『よもやコーヒー嫌いなんて人がこの世に居るなんて』ということである。だから、いろんなところで『当然』のようにコーヒーを出される。もてなしという善意が前提にあるだけに、 我々コーヒー嫌いに残された選択肢は『手をつけない』だけである。これをコーヒーのファシズムと言っては言いすぎだろうか。

・・・・・・・・・・

さすがナンシー関だ。わたしは諸手を挙げてこの説に同意する。

コーヒーがきらいになってこのかた(じつは昔は飲んでいた。それもけっこうな数を。ある時期からだめになったんですねコレが)、折に触れてはこれと同じような思いを持ちつづけてきたからだ。

しかし、そこで気をつけなければならないことがある。被害者ヅラして「ハラスメントだ!」と叫ぶその前にまず内省という行為が必要だ。

それはどういうことか。

「そういうオマエは別のモノや別のコトで同じ意味合いのことをしてはいないか?」

と自分自身に問いかけてみることだ。

かつてわたしは、それを酒席に置き換えてみた。

そして反省した。

それ以降、「やれ呑めやれ呑め」という行為を自省するようになった。「さあ呑もうぜ」と大いにすすめはするが、無理強いはしなくなった。

とはいえそれはそれとして、今でも、カフェインハラスメントと同様の行為をしていないかといえば、真っ白でございますと断言できるほどの自信はない。だが少なくとも、そういう心持ちを胸に抱いて生きてはいる。

 

コーヒーぎらいのわたしが今日、「カフェハラ」という言葉を知った。

思わず得たりと膝を打ったが、よくよく考えてみるとわたしには似合わない言葉だ。ごくごく近しい間柄でジョークとして使わせてはもらうが、それ以外では使うことはないだろう(たぶん)。

 

 

 

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郷愁のバリアングル式液晶モニター

2019年03月27日 | ちょっと考えたこと

あの二眼レフカメラは、いったいどこのメーカーのものだったのだろうか。

そんなことをふと考えたが、調べようとまではしない。ひょっとしたら、その持ち主だった亡き父の連れ合いが暮らす家の物置の片隅にでもしまわれたまま、ひっそりと現存しているかもしれないのだが、探そうとまではしない。

なぜかしら茶色のケースが印象的だった。

こんな感じだったろうか。

 

https://aucfree.com/より

 

もっとボロボロだった印象があるが、当たらずといえども遠からずだろう。

特に若い人などにはご存知ない向きも多いだろうが、二眼レフカメラは、上からのぞきこんで被写体を確認し写真を撮る。

画像がどこかにないか・・と検索してみると、わずかではあるがあった。

こんな感じだ。

 

www.flickr.comより

 

そんな二眼レフを思い出したのは他でもない。

今年になって愛機となった LUMIX-FZ300 でバリアングル式液晶モニターを真上に向けて、上からのぞきこんで「現場の人」を撮っているときだ。

あるときふと、「オレにとってコレが思いのほか快適なのはアレに似ているからじゃないのだろうか?」そう思ったのだ。

 

 

 

 

思いつきはすぐに確信に変わった。


「そうかまちがいない。コレはアレだったんだわ」


郷愁のバリアングル式液晶モニター、

うん、そんなのも悪くないねと、独り悦に入ってまたのぞきこむ。




 

↑↑ 土木のしごと~(有)礒部組現場情報

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumiー


 

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愛しのゴルゴサーディン

2019年03月26日 | ちょっと考えたこと

きのう帰宅したわたしを待っていたのは、こんなものだった。

 

 


こういうの、とっても好きなオジさんなのである。

もちろん、ゴルゴ13がではない。

ゴルゴサーディンという名のオイルサーディンがでもない。

ゴルゴサーディンという名のオイルサーディンを大真面目に売ろうとする人たちがである。

これを商品化するためにどれだけの大人が真剣に働いただろうか。

それを想像すると、なんだかとてもうれしくてたまらなくなってしまったオジさんなのである。

 

はごろも オイルサーディン ギフト (ゴルゴ13) GLG-AE (6449)
はごろもフーズ
はごろもフーズ
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東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当大臣が「震災被害について事実誤認の発言」をしたというニュースを読んで考えた。

2019年03月25日 | オヤジの情報発信修業

「東日本大震災のときは東北自動車道が健全に動いていた」という旨の発言を、例の東京オリンピック等担当大臣がおっしゃったとか。

そんな新聞記事を読むなり「あゝ」と嘆息。

ずっと腹の調子が悪くてメシもろくに食えず、やっとこさっとこ気力を奮い起こしながらだましだましで乗り切った先週が終わり、「さあやるぞ」と気合を入れたとたんのバッドニュースに、なんだか暗澹たる気分になってげんなりしてしまった週初めの朝だった。

あの方についてとやかく非難することは避けたい。論評に値しないとだけ言っておく。

わたしがげんなりしてしまったのは、その発言をそこだけのもの、つまり大臣として適格であるかどうかとか、また政治家としてどうかの問題としてだけには受け取ることができなかったからだ。

いわずもがな、8年前のあのとき、東北自動車道のみならず各地の幹線道路が機能しなくなったのは、誰もがあまねく周知の事実である。日本国民すべてが共通の了解事項であると表現してもなんら差し支えがない。

と、今の今まで思ってきたが、ひょっとしてそれはそうでもなかったのではないかという疑念が、わたしのなかでむくむくと湧いてきた。

 

わたしが拙講で「建設業者からの情報発信」の必要性を説くときに必ずといっていいほど使わせてもらうグラフがある。日経コンストラクションが震災の翌年である2012年冬に実施した意識調査で、「東日本大震災の被災地支援で、より大きく貢献したと思う団体・組織などはどこか」という質問に対する回答をまとめたものが下のグラフだ。

まず建設業界以外のいわゆる一般の回答を集計したものでは、

 

 

建設業界は8番目に位置している。

次に業界人の回答では、

 

 

自衛隊についで2番目だ。

自衛隊の1位は衆目の一致するところだとして、建設業に対する評価のこの差はなんなのだろう。

結局のところこのグラフは、わたしたちがいかに情報発信をしていないかということを端的にあらわしたものだとわたしは思う。残酷すぎる結果だが、これがわたしたちが置かれている現実だ。 

今朝、くだんの大臣の発言を知るなり、わたしのアタマのなかにあらわれたのがこのグラフだった。そして、むくむくと湧き上がった疑念。知らない人がいるのではないか。そしてひょっとするとそれは少なくはない。東北自動車道をはじめとした道路が健全であったという認識があるとすれば、当然、まず「いの一番」にその応急復旧に奔走し、あとへつづく自衛隊、消防、警察などなどが使う文字どおり「命の道」をつくった無名の「土木の人」たちの存在もなかったということになる。

だとすれば・・・・

いったいどう考えればいいのだろう。

本当に、たったひとりのダメ大臣が放った失言だけの問題なのだろうか。

 

♪ だけど俺たちいなくなりゃ

ビルもビルも道路もできゃしねえ

誰もわかっちゃくれねえか ♪

 

 

岡林信康の歌声が脳内に響きわたる。

そう愚痴りたい心持ちはよくわかる。

だが、やはりわたしはこう答えるしかない。

「わかっちゃくれねえんです」と。

ただしカッコつきである。

「(自ら情報を発信しないかぎり)わかっちゃくれねえんです」と。

 

東日本大震災から8年、このあいだ、列島をあいついで襲う災害によって、それに対応する建設業者の存在が認知されてきたと言う人は少なくない。

「風向きは変わった」と断言する人も多い。

だが、誤解をおそれずにわたしは、「そんなことはない」と言い切ってしまう。

そんなわたしの言説を、時代錯誤だ、悲観的にすぎる、と批判するのはけっこうだ。

だが、それやこれやを踏まえてなお、わたしは、「本質的には何も変わってないのだ」と言い切ってしまう。

今や、建設業の側からは多くのポジティブキャンペーンが発信されている。けっこうなことだ。どんどんやっていただきたい。だがその多くは、「現場から」ではない。

 

一つひとつの現場から一人ひとりの現場人が現場の言葉で発信する。

 

この行為が広がらないかぎり、わたしたちはわたしたちとわたしたちの環境を救うことができない。

「たかだか小さなアリたちが、いくらがんばってみても事は動かんよ」と言われたら、「たしかにそうですね」と答えはする。だが、「小さなアリ」たちにしか伝えられないこともまたたしかにある。

つまるところわたしは、「他人のせいにするな」ということを言いたいのだ。いくら憤ってみても、いくら恨みつらみを吐いても、「んなこといってもよー」と斜にかまえてみても、他責の念をつのらすばかりでは、問題はなーんにも解決しないのだ。

だからバカのひとつ覚えのごとくこう言う。

 

一つひとつの現場から一人ひとりの現場人が現場の言葉で発信せよ。

 

そして、「なにを悠長なことを」と嗤われたとしてもこう言う。

 

ひとりひとりが自分の持ち場で、笑顔でたたかえ、えぶりばでぃ!

 

以上、東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当大臣が「震災被害について事実誤認の発言」をしたというニュースを読んで、辺境の土木屋61歳が考えたことである。

 

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オジさん技術者最強説

2019年03月24日 | オヤジの「ゆる~いCIM」修業

「どうして紙が減らないんでしょう?」

というコーディネイターの問いに、

「簡単ですよ。わたしは、デュアルディスプレイにしたらぐっと減りました」

と答えたわたしの言葉にドット笑いがあがったのは何年前だったか。

わたし自身は場所も時間もはっきりと覚えているが、ここではその時も場所もシチュエーションもさして重要ではないので触れないでおく。

どうやらその言葉は、わたし自身の意に反しジョークだと受け止められたようだった。「あのくだり、サイコーでしたね。ナイスジョーク」と、そのパネルディスカッションが終わったあとで声をかけてくれた同業者がいたという事実でもそれはわかる。

ところが当人、言っちゃ悪いが(言わなきゃわからん)大まじめだった。

じじつ、わたしはディスプレイを複数にしてからというもの、提出物以外、つまり自分が仕事で使うものをプリントアウトすることがほとんどなくなった。画面に映し出したものを見ながら、別の画面で作業をすればいいだけのことだからだ。その場かぎりの一過性のものならもちろん、保存しておきたいものですら、自分発の資料ならなおさら、よほどのことでなければプリントアウトはしない。「極力しないように」と自分で自分に言い聞かせてもいる。

そうすると減る。増えない。「むしろ増える(た)」とお嘆きの諸兄は、パソコンを文房具の延長、つまりスーパー文房具として認識し使ってきた延長線上に、自らのアタマも行動様式も置いたままなのではないか。手描きの図面→ CAD → 3次元モデルを同じ延長線上のものとしてしか捉えられないのもまた根っこは同じだ。

そんなわたしだが、けっして「紙」全否定派というわけではない。ここはやっぱり「紙」でしょうというときは「紙」を使う。

今日も今日とて、たったひとりの事務所で、こんなものをグルグル回しながら、

 

 

となりのメインディスプレイでは、きのう、関係者数名で各タスクのつながりまでをつくった(まだ日数は入れてない)ネットワーク工程をいじくり回していたが、コイツはどうにも間尺に合わぬわいと、こんなものをつくった。

 

 

困ったときの「紙」頼みである。

そうだ!

アイツはどこにあるんだ?

記憶をたよりに探しあてたソイツとは・・

 

 

 

はい、かつては土木技術者たるもの皆の必需品だった色鉛筆。

 

 

 

 

オジさんだから「今という時代」に適応できないのではない。

「あたらしい技術を覚えない」オジさんだから「今という時代」に適応できないのだ。

その積み重ねてきた「経験と勘」と、それによって得た「引き出し」というアドバンテージがあるオジさんは、「あたらしい技術を覚える」ことでさらにパワーアップする。


「デジタルとアナログをハイブリッドして適時適所で使えるオジさんは最強なんだぞ」


誰もいない事務所で、そう独りごちる辺境の土木屋61歳。

誰も言ってくれないのなら自分で言う。

そんな厚かましさもまた、オジさんのストロングポイントなのである。

 

 

 

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現在地 ~ 2019年春

2019年03月23日 | オヤジの「ゆる~いCIM」修業

 

各所で「あんなこともできます」「こんなこともできます」、あるいは「仕事の仕方が変わります」とさんざっぱら吹聴してきたどの口が言うかとの誹りは甘んじて受ける覚悟で白状すると、まことに残念ながら、あいかわらず停滞しているわが社の「ゆる~いCIM」だ。

わたしが今ここであきらめたら、雲散霧消してしまいかねない。だから、風前の灯火ではあっても、けっしてその火を消してはならないし、石にしがみついても、いや、しがみつく適当なものが見当たらなかったらそのへんにある棒きれにしがみついても、つづけなければならない。

とそれほど気負いこんでいるわけでもないが、そんな想いを胸に秘め、ほそぼそと「ゆる~いCIM」継続中。

いっぽう、「ゆる~いCIM」とセットで取り組むことで、(わが社の)「建設生産性向上」の最終兵器となるであろうはずの(とわたしが勝手に思い込んでいる)クリティカルチェーン・プロジェクト・マネジメント(CCPM)は13年目の原点回帰。

「ぐるぐると循環するのもアリじゃないか」

ということで繰り返しのなかからあらたな可能性を探っている今日このごろ。

 

 

 

「ゆる~いCIM」もCCPMも、わたしにとっては同じ幹に生えた枝。

太い幹は、「コミュニケーション&コラボレーション(伝えあい、そして、協働する)」だ。


こう見えて、けっこうしつこいのだよオジさんは。

 

 

 

 

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ボタンアップのベルボトム

2019年03月22日 | ちょっと考えたこと

「中津商店」が20日の営業を最後に店を閉めたという。

・・・・・・・・・

 高知市の中心商店街でカジュアル衣料品を中心に販売してきた「中津商店」(同市帯屋町1丁目)が、20日の営業を最後に閉店する。創業68年、ジーンズショップの草分け的な存在で幅広い層から親しまれてきたが、社長の中津満子さん(97)が体調を崩したことを一つの区切りとした。店を切り盛りする長女の松田智香子さん(60)は「母の汗と涙が染み込んだ店として頑張ってきたが、スタッフの高齢化なども考えて決断した」と話している。...

(03.07 高知新聞より)

・・・・・・・・・

何十年も店の中へも入ったことがないオジさんが、「残念だ」などと言ってしまえば、そりゃいくらなんでもご都合主義もいいところだもの、けっしてそのような言葉を口にすることはないが、「時代だな」、と思わざるを得ない。

その「中津商店」で最初に買ったものがなんだったか。

それが最初だったかどうかという意味で確とした記憶ではないのだが、たぶん、ボタンアップのベルボトムジーンズだったはずだ。いや、まちがいない。ボタンアップのベルボトムジーンズだった(ジーンズなんて呼び名は田舎にはなかったか、あっても誰も使わなかったですね。ジーパンです)。

 

↓ こんな感じ。

 

 

経験したことのない履き心地に閉口しつつ、「カッコつけるとは耐えること也」ということをおぼろげに理解したわたしは中学生。何年生のときだったかは忘れたが、ニキビヅラの中学生だったことはまちがいない。

そうそう、たしかベルトもいっしょに買ったはずだ。

うん、あの穴がいっぱいあいたやつだ。

 

↓ こんな感じ。

画像はあくまでイメージです。

 

いったい、どんな顔をしてこれらを身に着けていたのだろうか。想像がつかないことはないが、思い起こさないでおこう。

50年近く前の話だ。

昔話にふけるような爺さんにはなりたくないと生きてきたが、これからは、これぐらいの感傷にひたるぐらいは許してあげようか。

そんなことを考えていると、思わず、今のわたしがこれらを身に着けたところを想像してしまい吹き出しそうになる。

やはりわたしには似合わないようだ。

いやボタンアップのベルボトムジーンズがではない。

もちろんハドメがたくさんのベルトでもない。

つまりアレだ。

そうアレだ。


朝、「中津商店」がおととい限りで店を閉めたというニュースを聞き、そんなことなどを思った。



 

 

 

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