答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

書く

2019年01月10日 | ちょっと考えたこと

「文章を書くことなしには思索を進めることはできません」とは岡潔の言葉。

もちろん、稀代の碩学と、この辺境のいち土木屋とを比べるつもりもないが、

「そうだよな~」

Webで書きつづけてきたこの10年の、われとわが身をふりかえり深くうなずく。

「書きつづけてきた」と言えば聞こえはよいが、そのじつは「書き散らかしつづけてきた」ようなものであり、「どうにかこうにかつづけてきたあいだに、たまにどこかの誰かのお役に立てるものがちょっとずつあったかもしれない」程度のものにすぎないのは承知しているのだけれど、そこはそれとして、

「そうだよな~」

Webで書きつづけてきたこの10年の、われとわが身をふりかえり深くうなずく。

 

社内の情報共有ツールとしてサイボウズOfficeを使っている。

いくつかのグループウェアを変遷してこれに至っている。

そのなかの「掲示板」というカテゴリーに、各現場の情報を毎日かならずアップすることが決めごとだ。

「毎日かならず」というところがポイントだった。人間というものはおもしろいもので、「気が向いたらやってね」という声がけでそれを実行に移す奇特な人はほとんどいない。案の定、最初はつづかなかった。何度かの失敗を経て、「毎日かならず」になった。だが、ああだこうだと口やかましく言わなくてもすんなりそれを実行できるシステムやルールがなければ、何度やっても元の木阿弥だ。システム、と呼ぶほど大げさなものではなく・・・と考え、そのために決めたルールが「今日やったこと明日やること」だった。

「今日やったこと」と「明日やること」を書く。

そして1枚以上の写真をつける。

(できたら、「気づいたこと」とか「こんなおもしろいこと」とか書いてくれたらうれしいけど強制はしない)

このルールの効果はてきめんで、以来、何年もにわたりつづいてきた。

で、ご多分にもれず惰性化した。

しばらくほうっておいたが、そのマンネリは極地に達し、「”やれ”と言われてるからやってるだけだもんネ」的マインドが全面を覆いはじめたのはいつごろからか。「空気」とか「雰囲気」とでもいうようなものなので記録として残ってはいないが、きのう今日のことではない。すでに何年も経って久しいはずだ。

その試みの主謀者たるわたしとしては、「なんだかなあ」と思いつづけてはいたが、かといって何かの手立てを講じて「思わしくない現状」を打破しようとしてきたかというと、なにもしなかった。機が熟するのを待っていたわけではない。手をこまねいて見ていた、というのが本当のところだ。

そろそろなんとかしなければ、と思い立ったのは昨年末。

「”今日やったこと””明日やること”以外に現場で起こったことを必ずひとつ書いてね。仕事に関係ないことでなんでもいいから」と関係各位にお願いをした。本当は「(自分の)仕事(現場)のこと」をオープンに書くという行為を通じて、各自が持つ情報と考えを全体で共有し、智恵を出し合いましょうね、というのが目的なのだが、とりあえずは、「仕事に関係ないことでなんでもいいから」とすることでハードルを下げ、「なんだったら”今日やったこと””明日やること”を書かず、これまでのやり方を全部リセットしてもいいから」と、それぞれに委ねてみた。

ひと月以上が経過した。

「掲示板」は予想以上に活況を呈している。

とはいえそこはそれ、熱心に情報を発信しようとする人、なんとかあがいてくれている人、それが意図的か不作為かはわからないがどうしても旧来の方法から脱出できない人、本人的には変えているつもりなのだろうがほとんど変わらない人、それぞれに温度差はあるが、とにもかくにも全体としてはよい方向に変化した。

そして、そこはかとなく漂いはじめたのが惰性の空気だ。

しかしわたしは、「ああやっぱりな」と悲観しているわけではない。

マンネリは、よくないことではあるが、よくあることだ。惰性に陥らないことなど世の中にはないと断定してもいい。マンネリズムに染まることを避けながら漸進をつづければいいだけのことだ(それがイチバンむずかしいのだが)。

竹原ピストルさんいわく、

何度でも立ち止まって

  また何度でも走り始めればいい

  必要なのは走り続けることじゃない

  走り始め続けることだ

   (『オールドルーキー』)

わたしのなかで「走り始め続ける」というのは、たとえばそういうことだ。


さて、グループウェアでの現場報告には、もうひとつの大きな目的があった。

「書く」をトレーニングする「場」の提供だ。

「文章を書く」という行為は、頭の中に思い浮かんでいるもろもろを言語化するということだ。「思い」は言語化することで「ふりかえり」となり「気づき」が生まれる。それは言葉にしなくともできなくはないが、脳内でぐるぐると循環させることにとどめている限りそれは、本当の意味での理解には近づくことができない。

言語化には2つの種類がある。

「書く」と「話す」だ。

「書く」は、言葉を選ぶことだともいえる。「話す」がそうではないというのではない。いささか大げさに表現すると、「話す」が刹那だとすれば「書く」は劫だ。「書く」のほうが、より慎重に、より深く、言葉を考え、選択する行為となる。

ゆえに、「ふりかえり」となり「気づき」が生まれる。

その繰り返しが思索だ。

したがって、「書くの初心者」あるいは「書くに不慣れな者」は、少しでも長く書こうとする訓練を積み重ねることがたいせつだ。そしてその「場」は、たとえば日記などのようなプライベート空間ではなく、ある程度の緊張感をもって発信する「場」であることが必要だ。でき得れば、十年にあまってわたしがつづけてきたように、Webという不特定多数にオープンになった「場」で(なおかつ氏素性をあかして)言説を晒すというのがオススメなのだが、それは誰でもができることではないし無理強いすることでもない。

となれば、特定の人間に開かれた場所で「書く」をトレーニングする。

それがわたしの目論見だったし、今もそれは変わりない。

「あ、そんなんだったらLINEでやってるもんね」

そんな声が聞こえてきそうだ。

SNS隆盛の、とりわけInstagramに代表される感情と感覚に訴える非テキスト系SNSが席巻する「今という時代」に、「なにをいまさら」というような古くさい話かもしれない。

だがアレらはちがう。現にわたしも使っているし、その存在価値を否定はしないがアレらはちがう。

LINE的、あるいはInstagram的コミュニケーションの一方で、思索を進める道具としての「書く」の重要性とそのトレーニングの必要性を、今という時代だからこそ再認識しなければならないのではないか。


というこの文章。

じつをいうと、書いては消し、書きかけては寝かせを幾度か繰り返したあと、ふと思いつき、「下書き」のなかから引っ張り出してきた今朝、降りてきた言葉からまた書き直し、昼飯を食ったあと仕上げた今、20日ほどが経ってやっとリリースすることができた。冒頭のセンテンスは変わらないが、その内容や方向性は、当初思い描いていたものとはずいぶん異なったものとなってしまっている。

ま、本日の稿を要すると、そういうことなのである。


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