玄侑宗久さんの『ないがままで生きる』(SB新書)に、『ネコの枕経』という稿がある。
ないがままで生きる (SB新書) | |
玄侑宗久 | |
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文中、老衰で亡くなった義父を回想して60代後半と思しきお嫁さんが、「よく口笛を吹いてたんです」と言う。どんな曲かも、曲になっていたのかどうかもわからないが、とにかく上機嫌で口笛を吹く「最高のお舅(しゅうと)さん」だったと。
それを受けて宗久和尚は、話をこう展開する。
それを聞いて私は、思わずネコや犬が上機嫌を示す能力に思いを馳せた。ネコはごろごろ喉を鳴らし、犬は尻尾を振る。彼らのこの能力について、私はかねがね尊敬の念を抱いているのだが、人間の場合はそうした大切な能力が如何に抑圧されているか、そう思って考え込んでしまったのである。(P.48)
我とわが身をふりかえってみる。
いや、ふりかえる必要もないぐらいに、わたしのなかでは自明のこととしてそれはある。
ふだんのわたしは、心のなかの「上機嫌」を自分自身で抑圧してでき得る限り表に出そうとはしない人である。しかもそれは、そうしようそうしなければ、と努めてきたことの結果として今ある。なぜそのようなややこしいことを実行しなければならなかったか。少し、内なる思いを紐解いてみたい。
わたしという人間が、上機嫌なときと不機嫌なときと、どちらが多いのかといえば、他人から見ればたぶん、圧倒的に不機嫌なことのほうが多いと見受けられるだろう。
とはいいつつもわたしとて、紆余曲折の60年を生きてきたのだもの、とびっきりの営業スマイルのひとつやふたつ、出すすべを持ち合わせていないわけではないし、現に、あくまで「自分自身では」の括弧つきではあるけれど、それを駆使して他人さまとのコミュニケーションを図りもする。さはさりとてもさりながら、「今のオレ、たぶん不機嫌そうに見えるだろうな」と自覚はしているのだ。そしてその「不機嫌そうなオレ」は、隠さなければならないと「オレ自身」で意識した場合を除いては、隠そうとしない。
となると、ソイツは必然的にしょっちゅう表出することになる。
とはいえその内実は、よっぽどのことを除きそれほど不機嫌ではない。いかに怒ってるように見えても、機嫌が悪いように見えても、他人さまが感じているほどにはそうでもなかったりするのだ。
そんな人間がだ、たとえば、すこぶるつきで機嫌がよいときがあったとしよう(けっこうあるんですねコレが)。
そこでだ、鼻歌を口ずさんだり口笛を吹いたり(そんなこともあります。隠してるケド。)、上機嫌な態度をあからさまにしてしまうのは、大の大人としてみっともない行為だと、そう思ってきた。だから努めて態度に出さないようにしてきた。
「イヤイヤ、おもいっきり顔に書いてるし」
というそこのアナタ。60年もこの性格と付き合ってきてるのだもの、わたしとてそこんところは百も承知二百もガッテンだ。むしろ、喜怒哀楽が表出しやすい自分だからこその上機嫌の抑制なのである。
ふ~。
そんなわたしだが、ごくごく近い身内によると、このごろ少し変化の兆候が見えてきたという。
自分では気づかなかったその兆しのきっかけは、どうも孫2号のようだ。
ソイツへの態度がちがうのだという。
1号2号の親である娘いわく、1号のときはどこかで距離を置こう置こうとしているジジイだったが、2号に対してはちがうらしい。マインドを全開にして相対しているように見えるという。
「そうか?」と思う。
わたし的にはもちろんワケヘダテがあるはずもない。
だが、その言に素直に乗っかることにした。
孫の顔やしぐさを見たときの上機嫌は隠さずにおこう。
気分がよいときは気分がよいような顔や振る舞いをしてみよう。
そう意識するようにした。
マインドをフルオープンにして「ベロベロバー」、てなもんである。
とはいえそれを、家庭という場所以外の、たとえば仕事場で出してしまうのは、やはり気が引ける。家庭と仕事はまったく別物であるからこそ上手く行く。平川克美さんの言葉を借りれば、「家庭と仕事は両立させるものではなく、むしろ倒立してあるべきもの」であるからだ。
そういえば・・・、
「つらいときほど笑え」をモットーにしているひとつ下の後輩がいたことを思い出した。
アイツは本当に笑っていた。
今でもそうだろうか。
きっとそうなんだろうな、
と彼の笑顔を思い浮かべながら我とわが身を思い、ブルルっとかぶりを振った。長い時間をかけて「不機嫌という習慣」もしくは「上機嫌の抑制」という振る舞いが身についてしまったわたしに、そんな芸当ができるとは思えない。
とはいえ、周りがわたしより若い人ばかりになってきたことを思えば(限界集落である住環境周辺は別ですよ。ここでは相対年齢として今でも「若い」。)いつまでも上機嫌を抑制し不機嫌さを身にまといつづけるオヤジもどうかと思う。
さて、
ためしに口笛でも吹いてみるか。
ためしに鼻歌でも口ずさんでみるか。
上機嫌を抑制する結果、どこかへ雲散霧消させてしまうのではなく、たとえば口笛たとえば鼻歌から、上機嫌を上機嫌としてしっかりと身体に入れてやれば何かが変わるかもしれない。
たとえば上機嫌な犬のように尻尾をブンブンふる。
たとえば上機嫌な猫のように喉をゴロゴロならす。
このわたしにはどう考えてもできそうもないことではあるけれど、そんなことができればそれはそれでけっこうなことではあるなと、このうえなく上機嫌なわたしを思い浮かべ、「やっぱり似合わないわな」と苦笑いひとつ。
それを見て、「やってみろよ。それもまた一興じゃないか。」と、別のわたしが目の前で笑った。
以上、玄侑宗久『ないがままで生きる』を読みながら考えた「上機嫌のすすめ」。
自戒という類のものではない。勧告といえば大げさに過ぎる。もちろん、他人に説教を垂れているのでもない。あくまでも、自分自身への「すすめ」である。
追伸:この稿をアップし、トイレで用を足したあと鏡を見ると、不機嫌そうなオヤジがひとり ^^;
追追伸:ということで、当ブログのプロフィール画像を、私的「とびっきりの営業スマイル」にリニューアルしてみた (^^)/
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発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う
あ、 いいなぁ
と思いました。(^^)
笑顔って、それだけで人の心に ぽっ と温かさをもたらしてくれる気がしました。