答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

『無常の見方ー「聖なる真理」と「私」の幸福』(アルボムッレ・スマナサーラ)を読む

2018年08月10日 | 読む(たまに)観る

 

無常の見方―「聖なる真理」と「私」の幸福 (サンガ新書)
アルボムッレ・スマナサーラ
サンガ

 

こりゃちょっと過激すぎてついていけないな、と読むのを途中でやめていた本、『無常の見方ー「聖なる真理」と「私」の幸福』(アルボムッレ・スマナサーラ)を読む。どんなところが(わたしにとって)過激なのか。

スマナサーラ老師(といってもわたしより10歳上でしかないが)は説く。

 

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覚えておいてほしいのですが、変わるものは必ず変わるのです。変わることをやめる、ということはあり得ないのです。頑張っても、努力しても、変わるものは変わるのです。(Kindleの位置No.259)

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これだけならどおってことはない。どころかむしろ、諸手を挙げて賛成したい意見だ。

だが、ここでいう「変わる」は、わたしの理解をはるかに超えた「変わる」である。

たとえば、と老師は花を例にとる。

 

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 光のエネルギーが花に入ります。すると花びらが乾いたり、細胞が壊れたりします。花が変わったのです。

 花を変えることで、光も変わります。エネルギーの量も変わるし、色も変わります。花に当たる光(直射光)と、花で跳ね返る光(反射光)は違いますね。直射光は太陽光の色でも、反射光は赤や黄や紫だったりします。

 花から出た光が私の眼に入ると、目の神経細胞が反応します。私の体が変わったのです。

 それから私に「花だ」という認識が生まれます。私の心が変わったのです。

 花から光(反射光)が出ることで、花そのものも変わってしまいます。光が反射することは変化です。

 そしてさらに、私が瞼を開いたとたん、「眼に入る花=花から出る光の一部」は、私の眼に触れて消えてしまう、変化してしまう。(略)

 私が花を見ると花は変わる。上述したように花を見る私も変わる。瞼を開いて閉じる瞬間に、見ているものも見られているものも、めまぐるしく変化してしまうのです。

 私が花を見ても見なくても、花に光が当たるたび、花はずうっと変化しつづけます。(No.449)

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お次は「音」だ。

 

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 音も同じです。音の振動が空気を動かして、さまざまなものに当たるとき、当たったものは変化してしまうのです。スピーカーなども、自分自身で変化しないと音という振動は生まれてきません。その振動の一部が、鼓膜に当たって消えると、我々は「音だ」と認識するのです。

 世界は音で溢れています。ということは、音の振動が当たるすべてのものは変化する、ということです。要するに、世界中のすべてのものは、絶えず変化しつづけているのです。(No.456)

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うんナルホド、そう言われればそうだ。と感心しきりなわたしだが、そのつづきになるともうわけがわからない。いや、説いてる意味はわからないでもないが、わたしの脳が拒否反応を示して理解しようとしない。

 

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 我々が持っている「花が(変わらずに)ある」という認識は「錯覚」です。

 この錯覚が「知る」ということになって、自分の「知識」となるのです。つまり、「ある」という錯覚→知る→知識です。

 しかし花は変わり続けるので、知識は常に過去のものです。「花を知っている」といっても、その花はとっくに変わってしまっています。したがって知識は過去のもので、役に立ちません。

 だから知識をあてにすると、失敗するのです。(No.477)

 

「変化→知る」が正しいのです。

 それなのに人間は「知る→ある」と錯覚してしまうのです。順序が逆だし、変化にも気づかないのです。

「知識」のひとかけらひとかけらには、こうした「花がある」「音がある」「人がいる」といった錯覚が入り込みます。この錯覚がすなわち「固定概念」です。

 我々の知識は錯覚です。客観的な事実、真理ではありません。「知識がたくさん=錯覚がたくさん」なのです。「知識、知識、知識」は「錯覚、錯覚、錯覚」なのです。

 我々の知識は錯覚です。それなのに、さらに知識を組み合わせて、さらにつなげた知識を構成します。当然、この知識も錯覚です。

「そこに花がある」というのでさえ間違いです。それなのに、我々は頭の中であらゆる間違った知識を組み合わせたり、合成したり、考えたりするのです。当然、ぜんぶ駄目です。(No.493)

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なにもすべてを理解しなければならない、すべてを受け入れなければならない、というものではないし、テールワーダ仏教を学ぶという目的で読んでるのではないだもの、わたしにとって都合のよい、いわばイイとこ取りをすればよいだけのこと。今までもそれがわたしの本読み作法だったし、これからもずっとそうなのだ。であれば、最後まで読んでみよう。少なくとも、この人が説く理にはその価値があるのではないか。そう思い直して再開すると、そこはそれ、よくしたもので、数々の学びがあった。

なにより、

 

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一切は流動的です。ノンストップ。瞬間ですら停止しない。

これがブッダによって説かれた「無常」という聖なる真理です。(No.530)

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などというくだりを読んでしまうと、「変わる」だとか「変わらない」だとか、「変える」だとか「変えられない」だとかに悩んでいるのが、なんだか少しバカバカしくさえ思えてくるのだが、読んでるあいだは多少の感化を受け、悟ったような気になってはいるが、読み終われば、「悟り」などとは無縁の凡人たるわたしのことゆえ、またまた同じような悩みがむくむくと頭をもたげてくる。

「変わる」、「変わらない」、「変わらなければならない」、「変えられてはたまらない」・・・・

とはいえ、そんなところを行きつ戻りつしながら悩み多く過ごす人生が、ひょっとすると「私の幸福」だったりして・・・なんてことを思わないでもない。

などと訳のわからぬ納得をして、『無常の見方ー「聖なる真理」と「私」の幸福』(アルボムッレ・スマナサーラ)を読了なのである。

 

無常の見方―「聖なる真理」と「私」の幸福 (サンガ新書)
アルボムッレ・スマナサーラ
サンガ

 

 

 

 

 

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