ふとしたときに、
「オレと同じような意見だな。」と感じることがある。
何気なしに、
「オレと似たような考えを持った人もいるんだ」と思うこともある。
他でもない。なりわいについてのことである。
そんなときは、なんだかとてもうれしくなる。
先日、そんなふうなことを知り合いの某氏に話した。すると彼は、「そりゃキミ、”同じような”とか”似たような”と感じるソイツは、アナタの言動に感化されてるんだよ」と言うではないか。「そりゃあないやろ~」と返すわたしに、「いやいやけっこうあると思うぜぼくは」と某氏は引き下がらない。
いやいやそう言ってくれるのはまことにもってありがたいのだけれど・・・
自称「種をまく人」である。
何年も種をまきつづけてきた。
しかし、その「種」の行末まではわからない。発芽せずに終わったか。はたまた人知れず育っているか。育っているとしたら、どこでどうやって育っているのか。顔を見知り気心の知れた人たちをのぞくと、それはわたしの想像が及ぶところではない(したいのだができないというほうが正解です)。
そういう意味から言えば、「種をまく」というよりも「種をまきっ放し」と言ったほうが適切である。「まきっ放し」、すなわち無責任であると言えなくもない。
もちろん、おのれの発する言葉には全面的に責任を負ってアウトプットしている。だが、そのあとについては、責任をとりたくても責任のとりようがない。そんななかでわたしの言葉を受けとめて(たとえそれが勘違いであってもだ)、行動に移し、かつそれを継続する人がいたとしたら、とてもありがたいことだ。ありがたいことこの上ない。
考えてみれば、それはかつてのわたしだ。誰かの言葉(あの人やあの人やあの人・・・)を「これはオレに対するメッセージだ」と受けとめて(勘違いも多々あったでしょうが)、行動に移し、つづけてきた。それがかつてのわたしであり、その延長としての今のわたしだ。そこのところを踏まえたうえで本音を吐露すると、「種をまく」という行為をつづけるうえで「”かつてのわたし(のようなもの)”がそこにいるかもしれない」という期待は常にあり、そのいるのかいないのかわからない「誰か」に、わたしの言葉やら文章やらが届いて、そこから何らかの芽ばえと結実があったらいいなとも思っている。
とはいえ、もしそれがあったとしても、「種をまく人」としての自分自身がソイツをもたらしたのだと思い込むほどわたしは不遜ではない(別のところでは不遜すぎるほど不遜ですケド)。なぜかというと、わたしが説く知見にオリジナルなものなどはひとつとしてなく、受け売りをブレンドし、さらにそれを継ぎ接ぎして披瀝しているだけだからである。オリジナルな知見ではない以上、わたしと同じようなことを同時発生的に語る人たちがいても何らおかしな話ではない。むしろそれは当たり前のことだ。もし、そんな「空気」がいくばくなりとも漂っているとしたら、それはとてもありがたいことだし、多少なりともわたしがそれに貢献しているとしたら、つづけてきた甲斐があったというものだ。その文脈のなかでは、どこのどなたが言ったとか言わぬとか、そんなのは瑣末なことでしかない。
「オレと同じような意見だな。」
「オレと似たような考えを持った人もいるんだ」
とうれしくなったわたしに対して某氏が言った「そりゃキミ、”同じような”とか”似たような”と感じるソイツは、アナタの言動に感化されてるんだよ」という言葉に「そりゃあないやろ~」とわたしが返したのは、たぶんそういう理由からだろう。
だが、つらつら書きながら考えていたら、思いもかけず降りてきた結論がひとつ。
「うん、けっこうそうかもネ」
そんなふうに思うことが、「つづける」こと「つづけ始める」ことの「動機づけ」になるのなら、たまには独り自惚れて、ニンマリするのもアリかもしれない。
うん、今日のところは、それでよしとしておこうじゃないか。
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