「風流」という言葉の歴史は古く、禅語として用いたのは、十一世紀中国の白雲守端禅師だという。
「不風流処也風流」
(風流ならざる処もまた風流)
玄侑宗久さんがその「風流」という言葉を解していわく、
これは本来「ゆらぎ」という意味で、目の前の現実に合わせて自身がゆらぎながら重心を取り直すことである。(P.124)
ないがままで生きる (SB新書) | |
玄侑宗久 | |
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「ゆらぎ」
という言葉の響きと「現実に合わせて・・・ゆらぎながら重心を取り直す」という文章にぐぐっと心が引き寄せられてしまったわたしは、そのあとつづく宗久和尚の言葉に膝を打った。
現場を見て、状況の変化を見ながら、間違っていたと思えば計画も変えていいのだ。ゆらぎながら、新たな重心を常に捜し、そのときに一番いいやり方を、模索するべきではないか。(P.125)
即断即決(特に現場では)を旨としていると、
「あ、オレ間違うちょったかな?」
と悔いることなど日常茶飯事だ。
そしてそれへの対応は、その場そのときの状況で異なってくる。
ときには、
(ゆらぎながらも)頑として変えない。
そしてときには、
(ゆらぎに身をまかせ)柔軟に変更する。
いずれにしても、心のうちの逡巡を他人さまに悟られるような素振りは、厳として戒めながら現場で起こるさまざまな問題に対処していく。
そのうちまた問題が起こる。
「あ、コレおかしかったかな?」
という後悔が生まれる。
そしてまた対応する。
ときには、
(ゆらぎながらも)頑として変えない。
そしてときには、
(ゆらぎに身をまかせ)柔軟に変更する。
この繰り返しだ。
宗久和尚はこうも書いている。
ある程度信念を持つことは、むろん必要なのだろうが、状況を見なくなるとそれも単なる執着に堕する。(P.125)
「執着に堕する」とき、多くの場合その判断と行動は間違ったものとなる。
かつてこんなことがあった。
大雨のなか台風で寸断された国道の応急復旧をしていた。危険と隣り合わせの現場だ。わたしが置かれた立場は総責任者だ。工事中、それまでにあった何度かの失敗、そこから先の工期の厳しさ、その他もろもろによりわたしの心に「何がなんでもやらなければならないのだ」というヒロイックな情念が生じ、ソイツが増幅して、作業中止という判断を躊躇させた。
轟音とともに山が崩れた。
幸いなことに死者負傷者ともにゼロだった。全員がかすり傷ひとつ負わなかった。ほんの少し前の作業員さんの言葉がわたしを我に返らせ惨事を回避するキッカケとなった。
宗久和尚の言葉を借りれば、あれこそが「執着に堕する」ということなのだろう。もちろん、「信念」を持つことはたいせつなことだ。リーダーの「信念」が原動力となってことが動く。またことを動かす。しかし、状況が見えない(状況を見ない)まま、「信念」に固執するようであれば、その「信念」は悪になりかねない。いや、その「信念」が悪である。
現場を見て、状況の変化を見ながら、間違っていたと思えば計画も変えていいのだ。ゆらぎながら、新たな重心を常に捜し、そのときに一番いいやり方を、模索するべきではないか。(P.125)
玄侑宗久を読み、「現場監督の仕事」のことなぞに想いを馳せる朝。
その稿、このサイトでも読めます。興味があればぜひ。
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『「風流」の境地へ』
(genyusokyu.com『エッセイ/立ち読み』より)
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