答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

『日本語びいき』(清水由美)を読む

2018年11月02日 | 読む(たまに)観る

 

 

日本語びいき (中公文庫)

清水由美・文

ヨシタケシンスケ・絵

中央公論新社

 

著者が生まれ育った飛騨高山では、「〈進行〉と〈結果〉をそれぞれ別の形式で」表すという。こんなふうにだ。

 

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標準語ではすべて「~している」になっているところを、高山弁では「~しよる」と「~しとる」という二つの形で表し分けることができます。(略)逆にいえば、標準語は「~している」という形一つで〈進行〉と〈結果〉を表すという、かなり無理な芸当をしているわけです。どちらの意味になるかは、「~」に入る動詞が、運動を表すタイプなのか、変化を表すタイプなのかに依存しているわけです。

 その点、高山弁は、それぞれに専用の形があるのですから、「冷めつつある」と言いたければ「冷めよる」と言うことができます。「お茶、冷めよるよ。早よ、飲みない(=飲みなさい)」なら、〈進行〉です。そして「お茶、冷めとるな。新しいの淹れるさな」なら、〈結果〉です。(P.71~72)

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「な~るほどネ」

ながいあいだの疑問が氷解していくのを感じながら読んだこのくだり、土佐弁ネイティブのわたしには簡単に理解できる。わが母方言もまた、〈進行〉と〈結果〉をそれぞれ別の形式で表すからだ。前記の例にあてはめると、「冷めつつある」は「冷めゆう」だ。「お茶、冷めゆうよ。早よう飲みチヤ」なら〈進行〉であり、「お茶、冷めちゅう。新しいの淹れちゃるキ」なら〈結果〉である。

秋田県横手地方で生まれ育ち、杜の都仙台でわたしと知り合ったわが妻は、南国土佐の高知へ移り住んだ約30年前、周囲がビックリするほど早く土佐弁をマスターした。わたしはそこに彼女の覚悟のようなものを感じたのだが、当の本人に言わせるとそれほど大げさなものではなく、「ただ早く溶けこもうとしたことの表れ」に過ぎないらしい。「それがある種の覚悟ぢゃないか」と思うわたしだが、それ以上はツッコまないようにしている。その彼女をしてだ。どうしてもくだんの使い分けをマスターできないのである。

なぜ?

どうして?

これがながいあいだの疑問だった。

つまり、〈進行〉を表す「お茶、冷めゆうよ。早よう飲みチヤ」も、〈結果〉を表す「お茶、冷めちゅう。新しいの淹れちゃるキ」も、いつまでたっても同じ「冷めちゅう」で言い表してしまう彼女に、「どうして使い分けができないのだろうか(簡単なのに)」と疑問を抱いていたのである。いやいや土佐弁ネイティブであるわたしや子どもたちが、手をこまねいてそれを聞き流していたわけではなく、彼女をバカにしていたわけでもない。

現在進行形の場合は「~ゆう」、

過去形の場合は「~ちゅう」、

噛んで含めてそう諭したことは何度もあるが、なかなかにそれは理解しずらかったようで、「なんでかなあ」と思いつつ、慣れてくるとそのマチガイもまた可愛げがあって、そのまま今に至っているというわけである。

で、『日本語びいき』に出会ってその謎が解けた。

彼女の母方言は「~している」という形一つで〈進行〉と〈結果〉を表すという、「かなり無理な芸当」をしていたのだ。いやいやチトちがうな。母方言たる秋田弁だけではない。標準語(共通語)そのものがそういう成り立ちなのだから、マイノリティーであるのはたぶんわたしたちのほうだろう。

ことほど左様に言葉というやつは、たとえ同じ言語であっても、時間や空間が異なればその表現がちがってくるものだ。だからこそおもしろい。日本語しか使えないわたしだもの、他の言語はいざ知らずだ。したがって、日本語はおもしろいとしか言えない。

そうそう、『日本語びいき』にはこんなくだりがある。「タダシイ日本語って?」というコラムだ。


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 ことばというのは、究極の民主主義、多数決がすべて、数の暴力がまかり通る世界です。どんなにマチガッテル!と言われていた表現でも、使う人が増えれば、やがてそれが正義になる世界です。その暴走に歯止めをかけたくなる心理は理解できるし、そうした抵抗が変化のスピードを緩やかなものにして、同時代に生きる多様な世代の人々の相互理解を担保するよすがにもなるとは思います。でも、だからといって、妙な教条主義をふりかざすような考え方は、日本語を息苦しくさせるだけです。

(略)

さまざまな変化に柔軟に対応するために必要なものは、日本語についての正確な知識です。知識というより、判断力といったほうがいいかもしれません。「正しい日本語」ではなく、「適切な日本語」を見極める。そんな判断力です。場面や人間関係によって、同じ表現が適切にもなり不適切にもなります。また、日々変化を続ける日本語の、どのあたりまでを許容するかも判断しなければなりません。そんな力が重要なのです。(P.173~174)

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とてもじゃないがわたしには、そんな知識も判断力もないし、まことに残念ながら、この先それが身につくとも思えない。

しかし、も少し日本語を勉強してみようかな。

『日本語びいき』、そんな気にさせてくれた本だった。


 

 

日本語びいき (中公文庫)

清水由美・文

ヨシタケシンスケ・絵

中央公論新社


 

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