高輪ゲートウェイ駅についての議論が喧しい。
そういうわたしも、その名称を聞くなり思わず首をひねった口だが、どうこう言っても、たとえばJR東日本もたとえば東京メトロもすでに存在して久しいのだ。あたらしい駅にゲートウェイという名前が冠せられたといって、「なんだかなあ」とは思えど、今さら驚くほどのことではない。
そうそう、先日読んだ井上ひさし『日本語教室』にこんなことが書かれていた。
日本語教室 (新潮新書) | |
井上ひさし | |
新潮社 |
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キーワードは「カタカナ倒れ」と「漢字倒れ」です。程のいい漢字の量で、ひらがなとカタカナをきっちり使って、正確で奥行きの深い、そういう文章を書いたり読んだりするためには、どういうふうに考えればよいのか。私たちは、まさに今、そのことを問われているのです。(P.53~54)
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まずは「漢字倒れ」。
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特にワープロが使えるようになって、書けない字でも漢字に変換しますから、今、若い人の文章というのは、漢字の使い過ぎ、「漢字倒れ」になりかかっていますね。(P.53)
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これについては、ある時期に気がつき、以来努めて使いすぎぬようにしてきた。今のわたしの漢字使用基準はこうだ。
すぐ書けるものは使う。
書けないにしても、変換候補として出てきた漢字が、(紙の)辞書があったとしたら引いてでも使おうとするはずだろうなと感じたものは使う。
書けたとしても、ひらがなとの混ざりぐあいが悪いものは使わない。
書けないが、変換候補として出てきた漢字のたたずまいが、ひらがなとの混ざりぐあいにおいてバランスがいいものは使う。
つづいて「カタカナ倒れ」。
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マインドセットなんて、気持ちとか、覚悟とか、心持ちとかにすればいいのに、マインドセットと言われるとがんばって、覚悟と言ったらがんばらないなんてことがあるんでしょうか?(P.39)
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むむむむム。
正直に告白すると、カタカナ語を使えばいく分か程度がよくなったような気になるという、じつに醜悪な傾向がわたしにはある。「覚悟」も「心持ち」も好きだが、たまにはマインドセットを使ってみたくなる。マインドセットと書くと、少しばかり知的なフレーバー(ほら、またカタカナだ)をふりかけたような気がして、ついつい使い、いい気になっている。じつに程度が低い。こうやってあらためて白状すると恥ずかしくてたまらないが、事実である。
なんとかしなければ、と思わないでもないが、この病い、なかなかに深く脳内に巣くっている。
『日本語教室』のもととなった上智大学での講演が行われたのが2001年。17年前、ブロガーとしての日々を送るなど思いもつかなかったころのわたしがどうだったか、たしかな記憶はないのだが、まちがいなく今ほど酷くはなかったはずだ。
あれあれ?テメエのポリシー(ほらね、これぐらいは自然に出てきてしまうんです)はこうじゃなかったのかい?
言葉は生き物、「言葉は世につれ」だ。言葉遣いや言い回しは時間や空間の移り変わりとともに変わっていく。「日本語の乱れ」だのなんだのと、イチイチ目くじら立てなさんな。
別のわたしがツッコんでくる。
たしかに、おっしゃるとおり。それについてはなんの反論もございません。
ただ思うのだ。
とはいえ限度があると。
だからといって、「乱れ」に身を委ねっぱなしにしているのは危険きわまりないと。
最後にもう一度『日本語教室』から引く。
たとえばリフォームという言葉には、再生、改良、仕立て直し、改築、増築、改装などたくさんの意味があって、それぞれ微妙に違うのを無視してリフォームとしてしまうことについて、井上ひさしはこう言っている。
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一見便利なようですが、今まで言い分けてきた日本人の脳の働き、正確さというのを、リフォームの一言で、非常に単純にしてしまうのです。こういうことが積み重なっていくと、悲劇的なことが起こるのではないでしょうか。(P.29)
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もう遅いのかもしれない。
日本語は、すでに悲劇的なことになっているのかもしれない。
しかし、世の中の風潮全体を変えるなどという大それたことなどできはしないし思ってもいないが、ことをわたしやアナタ個人に限定すれば、じゅうぶん引き返す余地はある。
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キーワードは「カタカナ倒れ」と「漢字倒れ」です。程のいい漢字の量で、ひらがなとカタカナをきっちり使って、正確で奥行きの深い、そういう文章を書いたり読んだりするためには、どういうふうに考えればよいのか。私たちは、まさに今、そのことを問われているのです。(P.53~54)
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「高輪ゲートウェイ」
笑ってる場合ではないのだ。