いつ読んだのだろうか。それほど前ではない。1年にはならないはずだ。読みかけて途中で放り投げた本がある(電子書籍なので「放り投げる」ことはできないが、気分的に「放り投げた」)。積ん読や途中放棄は数数えきれないほどあるが、「もうムリ」と放り投げたことが記憶にくっきり残っているのはそれほどない。という意味では、逆に言えば、わたしの脳内にけっこうなインパクトを与えたという証左なのだろう。
そんな本、玄侑宗久『荘子』をふたたび読んでみようと手にした。
NHK「100分de名著」ブックス 荘子 | |
玄侑宗久 | |
NHK出版 |
途中放棄したのは、たとえばこんなところにその原因がある。
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この物語(みやうち注、『荘子』徳充符篇です)でまず注目されるのは、「和して唱えず」という哀駘它のあり方でしょう。冒頭で漆に関連して述べた光の話にも通じますが、荘子は「自己主張する」ということは人為的でさかしらなことだと考えているようです。今の世の中ではおよそ考えられないことかもしれませんが、自分の考えなど主張することなく、ただ相手の話に同調するのがよいと言っています。「未だ嘗て其の唱うるを聞くものあらず、常に人に和するのみ」ーーつまり、こっちがこう言えば「うん、そうだね」と言い、あっちがああ言っても「うん、そうだね」とうなずく。お前の意見はどっちなんだ!と言いたくなるかもしれませんが、荘子に言わせれば、人の考えや言葉というものはじつに頼りなくて当てにならないものだから、突き詰めて言えば、どっちだってよいわけです。(Kindleの位置No.361付近)
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あゝこりゃついていけんわ。
てなもんで、全体の四分の一ほどしか読み進まないうちに放り投げた、というわけだが、「そんなことでけへんやろ」と思いつつも、ずっと心のどこかに引っかかっていた。
自分の考えなど主張することなく、ただ相手の話に同調するのがよい
こっちがこう言えば「うん、そうだね」と言い、あっちがああ言っても「うん、そうだね」とうなずく
なんだかよくわからないのだが、ふと気づくと、この文言を思い浮かべていることがある。生来、自己主張の激しいわたしとしては全否定したいところだ。そしていったんは否定した。しかし、やはりなぜだか否定しきることができない。
ということで、毒薬か、はたまた良薬か、『荘子』(玄侑宗久)をふたたび読んでみようと思う。最後までたどり着くことができず、また放り投げてしまうかもしれないのだけれど。
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