答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

ひとりのために書く

2018年09月15日 | ちょっと考えたこと

花森安治が提唱した「実用文十訓」。その内容は以下のとおりだ。

 

(1)やさしい言葉で書く。

(2)外来語を避ける。

(3)目に見えるように表現する。

(4)短く書く。

(5)余韻を残す。

(6)大事なことは繰り返す。

(7)頭でなく、心に訴える。

(8)説得しようとしない(理詰めで話をすすめない)。

(9)自己満足をしない。

(10)一人のために書く。


その存在を知ったのは4年前だ。以来、少なからずその作法に影響を受け、今に至っている。とはいえ、そのすべてを私的ブログ作法の拠りどころとしているかというとそうではなく、例えば「(7)頭でなく、心に訴える。」のように、理解はできても圧倒的な力量不足で実践ができないというようなものについては、その影響下に入りようがない。また、「(8)説得しようとしない(理詰めで話をすすめない)。」という項目などは、そもそも順序立てた理詰めのテクストを書くことができないわたしにとっては、そんな気づかいは無用だと言っていい。

十訓のなかで、一読するとわかったような気になるが、どうしてもしかとは腹に入らなかったのが「(10)一人のために書く。」だ。「一人のために書く」って言ったってアナタ、どうすりゃいいのさ思案橋、てなもんである。

ところが、近ごろよくあるのだ。ふと気がついてみると、「ひとり」(ここで使う「ひとり」はごくごく少ない単位の複数も含まれます)のために書いていることが。のみならず、書き始めから「ひとり」を対象としていることも少なからずある。

「あの人に向けて書く」

と明確な対象を定めて書き出すことがあるのだ。

そんなこんなを繰り返していると、「(10)一人のために書く。」がじわじわと腑に落ち始めた。ストンとではなく、あくまでもじわじわとではあるが、「(10)一人のために書く。」という文章作法の有用性が、わたしのなかに浸透してきた。

あくまでも私的な感覚ではあるが、思考とその具現化としての表現が具体的になっているような気がしている。要するに「顔」があるかないかのちがいだろう。ことわっておくが「顔」とは現実に見知っている「顔」ばかりではなく、読者だと表明してくれている現実には見知らぬ個人を思い浮かべる場合も「顔」である。

とはいえ、「ひとり」の顔を思い浮かべながら書くと、すべてにおいて筆が進むかというとそうでもなく、かえってその人に対しての責任感のようなものが芽生えてしまい、「夢おろそかなことは書けぬわい」と、それ以上書き進めなくなる場合もあるが、考えてみればそれとてもけっして悪いことではない。そんな稿は下書きのまま寝かせておいても、いつかきっと思い出す。なぜならそれは、「ひとりのために」書こうとしたものであるからだ。「想いがちがう」と言うべきか。

念のため言っておくが、この場合の「ひとりのために書く」とは対象となる「ひとり」が読む読まないという結果にかかわらず「ひとりのために書く」だ。読者だと申告してくれている奇特な人だからといって、読んでくれるかどうかはわからない。読者ではない「ひとり」に向けて書くこともある。

しかし、いずれにしても「ひとりのために」だ。

花森安治の実用文十訓(その10)、「一人のために書く」。

利いた風なことを書いたが、まだよくわかってはいない。

いつもいつでもというわけにはいかないにしても、折にふれては、も少し気にかけて書いてみようと思っている。

 

 

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