答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

時間外労働

2018年04月27日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

夜、依頼されていた資料をつくり終わり、ファイルを添付したメールを送ろうとして、待てよと思いとどまる。

たぶん相手は今、仕事をしてはいない。それならば明朝送っても同じこと、あわてて送ることはない。ひと晩寝かせて、再度チェックしたあとにしようとパソコンを閉じ帰宅した。

少し前までならそうはしてなかった。それなりに、「あわてて送る」理由が存在したからだ。「夜までがんばっていたのだ」というアピールとしてメールを使っていたのだ。知人には、メールを送るためだけにわざわざ休日出勤をしていたという、涙ぐましい努力をしていた人もいる。目くそ鼻くそを笑う。可笑しすぎるが、人のことは笑えない。

今から思うとじつにくだらないことをしていた。

あまつさえ、そのくだらない行為をさも立派なことかのように後輩に推奨していた。

まったくもってナニヲカイワンヤだ。

労働に多くの時間を割くということが美徳だった時代の名残りではあろう。そんな時代に仕事を覚えてきた人間には、珍しくもないことなのかもしれない。

 

35年も前になるだろうか。

「能力ないんやったら時間でかせげや!」

と叱責されたことがあった。

「この会社の誰よりも多く働いてます!!」

と反論した記憶がある。

今という時代の風潮から見れば、怒ったほうも、言い返したほうも、どうも理屈がおかしいのだが、たぶん互いに真剣だった。

ほどなくして、その会社を辞めた。長い時間働かされるのがイヤで辞めたのではない。だいいちその長時間労働は、わたしを叱責した経営者がいみじくも言ったように、時間をかけなければ仕事ができないゆえに自分自身が選択したものであって、けっして上から無理強いさせられたものではなかった。辞職の原因(のひとつ)は、そんな従業員の状態を把握すらしていない経営者に嫌気がさしたことだった。

長時間労働をしてはいけない時代なのだそうだ。 

だが、ことは労働時間の長短ではないと思う。

むしろ、ときとして、過剰なほどに働くことはたいせつだ。この「働き方改革」のご時世に何を言ってるのかオマエは、との誹りは甘んじて受けよう。だが、たとえばその「働き方改革」にしてからが、それを立案推進する総本山たる官僚さんたちは、たぶん寝る間もなく働いて働いて「働き方改革」をすすめようとしているはずだ。パラドクスではあるが笑い話ではない。そういうものなのだ、ということをわたしは言いたいだけである。

久々に、わたしが大好きな文章を引く。

内田樹さんだ。

 

仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。
このことは繰り返し学生諸君にお伝えしなければならない。
賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。
動物の世界に「とりあえず必要」とされる以上の財貨やサービスの創出に「義務感」や「達成感」を感じる種は存在しない(たぶん)。
「糸の出がいいから」という理由で自分用以外の巣を張る蜘蛛や、「歯の切れがいい」からという理由で隣の一家のためにダムを作ってあげるビーバーを私たちは想像することができない。
そのような「過剰な労働」は動物の本能にはビルトインされていない。
人間は「とりあえず必要」である以上のものを作り出すことによって他の霊長類と分岐した。

どうして「とりあえず必要」である以上のものを作る気になったのか。
たぶん「とりあえず必要」じゃないものは「誰かにあげる」以外に使い道がないからである。
人類の始祖たちは作りすぎたものを「誰か」にあげてみた。
そしたら「気分がよかった」のである。
あるいは、「気分がよい」ので、とりあえず必要な以上にものを作ってみたのかもしれない。
(『内田樹の研究室』2005.5.19『資本主義の黄昏』より)

 

世の中のありとあらゆるところは、オーバーアチーブタイプによって支えられている。それが自然発生か意図的かのいずれにかかわらずアンダーアチーブを実践する人たちが、「組織としての成果」という恩恵を等しく受けているのは、オーバーアチーブタイプの存在があってこそだ。

だからといってわたしは、手放しでオーバーアチーブメントを勧めているわけではない。

ことは労働時間の長短という単純な問題ではない。長ければいいというものではないというのではもちろんないし、短くすればいいというものでもない。長いから悪い、短くすればOK、という議論はことの本質とは離れている。

肝要なのは、仕事に対してどのようなスタンスで臨むかという心持ちである。

労働に自分自身のなにもかにもを捧げてはならない。何もかにもを労働に収れんさせてはならない。

心をしばろうとしてはならない。

心をしばられてはならない。

心をしばられようとしてもならない。

それが、オーバーアチーブメントタイプな人、あるいはそうならんと欲する人、はたまたそう強いられている人にとってたいせつな心持ちなのではないだろうか。

 

あらあら、たかだかメールを送るか送るまいかと逡巡したことについてを、面白おかしく書こうと思って始めたが、いつものことではあるけれど、なんだかとても大げさな話になってしまった。

これもまた大好きな文章を引いて、今日のところは終わりにしよう。

平川克美さんである。

 

社会と会社も別の文脈で考えるべきです。もちろん、それらは画然と区別されるわけではありませんが、少なくとも会社というものが持っている限界、お金儲けとか効率化というものが会社の中では重要な要素ですが、それを社会全般や個人の哲学に適応できるわけではないということに自覚的であるべきです。

(『移行期的乱世の思考』平川克美、PHP研究所、P.163)

 

移行期的乱世の思考 「誰も経験したことがない時代」をどう生きるか
平川克美
PHP研究所

 

わたしの現実がそうなっているかどうかは別として(たぶん違うんだろうな)、心のなかでは、いつもいつでもそう思うようにしている。

でわ。

 

 

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