答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

認めて許す

2017年12月20日 | ちょっと考えたこと

某月某日某所、知り合いの経営者さんとはち合わせ。

「ごぶさたしてます」とあいさつしたわたしに対して彼は、

「なにもかにもがうまくいきゆう人は、やっぱり心おだやかな顔をしちゅうねえ」と言う。

「おやまあ、よくもそんな言葉が口をついて出るもんだ」と半ば感心しながら、にっこり笑って、こう返すわたし。

「何をおっしゃいますやら、わたしなんか不平不満の塊ですよ」

すると彼、ますます皮肉っぽい冷笑を浮かべ、

「そんなことないやろ」。

「いえいえ、このへんに毒がたまって渦を巻いてます」

と、胸のあたりで二度三度と円を描くわたし。

そのあといくつか言葉のジャブを交わしたのち、軽く会釈をして別れた。

 

さて問題は、胸にたまった毒である。

毒を持つこと自体が悪いことだとは思わない。たまってしまったときにそれが問題となるのだ。とはいえ、何はともあれ「我慢」をモットーとするわが身なれば、まったくためないというわけにはいかない。つまり、いつもどこかに毒をためているのがわたしという人間の日常の姿ではある。だが、ためすぎると自分の毒で自分がおかしくなってしまう。そのへんの按配がむずかしい。

毒にも薬にもならない人間にはなりたくない。では、毒か薬か、どちらを選ぶかといえば、いかな生来のひねくれ者であるわたしといえど、やはり「薬」になるほうをチョイスする。それが人情というものだ。いきおい、生まれた毒は主人たるわたしに抑圧されて行き場を失い、身体のなかに沈殿してしまう。いつも、というわけではない。どちらかといえば、テキトウに体内から毒抜きをしていることのほうが多い。だが、気がついてみればひと足遅れてためすぎてしまっていた、なんてことがたまにある。

そうなると厄介だ。自分の毒に自分がやられてしまう。自家中毒である。そこまで行くと脱け出すのに少々手間どってしまう。

それだけならまだいい。沈殿しているうちに毒性を増したソイツが、ターゲットを探し出すとさらに厄介なこととなる。

 

さて、その状態から脱出するにはどうしたらいいか。

答えはこれまでにも何度か書いてきた。

「認める」だ。

「認めて許す」だ。

それはなにも他者向けに限定されたものとは限らない。

「許せない自分」も「認めて許す」だ。

さらに言えば、「許せない」という「自分の無能」を「認めて許す」だ。

 

あらあら・・・

連々と書いていたらスラスラと出てきたが、生身のわたしはすっかり失念していた。そのあげく、ああでもないこうでもないと思い悩んでもいた。繰り返し書いてきたにもかかわらず忘れているということは、毒が身体にまわってることの証左か。いやいやそうではない。その思考が身体に染みてないからだろう。「腹に入ってない」と言ってもいい。だから忘れる。付け焼き刃が剥がれたそのあと「えらく切れないなコイツは」と腹を立てているのはいいが、自分でつけた「付け焼き刃」のことを忘れていたようなものだ。

いやはやまったくこりゃどうも・・・

相も変わらず困ったオヤジではある。

 

 

 

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