答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

偶然はよく練られた実験室を好む

2017年11月28日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

4年半ほど前、こんなテクストを書いた。

 

『たまたま、もしくはツイている』(2013.5.18)

いくつかの偶然や僥倖や、はたまた失敗やらが重なって、ある成果が出たとする。それをして、偶然と呼ぶか必然と呼ぶかは人それぞれなのだろうが、私は少なくとも偶然を必然に転嫁するべく、ささやかながらでも努力をしたいと思うし、その偶然の重なりを見逃さないようにしたいとも思う。そしてそんな事象の一つひとつが、その時と場合の偶然や僥倖や、はたまた失敗やらと化学反応を起こして、さらに成果を生む。

というふうに上手く行くほど、渡る世間の現実は甘くないが、何度もそういう場面に遭遇したことはある。

いや遭遇、という言葉は正しくないのかもしれない。なぜならば、そこでもまた偶然を必然に変えようとする少しばかりの試みがあったことは、間違いがないからである。

ま、どちらにしてもラッキーには違いがないのであるが、それをして偶然と解釈するか必然と解釈するか。すべからく必然なんだという解釈は、あまりにも不遜に過ぎた心構えであると私は思う。またその反面で、「たまたま」もしくは「ツイている」で片づけてしまうのも、どうかと思う。たしかに、戦略的(あるいは戦術的)でなかった、という意味からいえば明らかに偶然ではある。かもしれないが、「たまたま」もしくは「ツイている」で片づけてしまうのは、次へつなげるという営為をほぼ放棄したに等しい。

なぜ出来たのか?何が偶然で何が僥倖で何が失敗で、その中でおのれは何をしたのかあるいは何をしなかったのか。それを問いかけ検証し理解することが、さらなる成果を生み出すのだ。とまでは断言出来ないが、少なくともそれによって、次へつなげるためのチケットは手に入れることが出来るのではないだろうか。

 

 

今でも想いは変わらない。

というか、よりいっそうその意を強くしている。

そんな稿を思い出したのは、東京に住むNさんからこんな言葉を教えてもらったからだ。

 

偶然はよく練られた実験室を好む

 

はたと膝をうつわたし。

「そうか、偶然にも好き嫌いがあるんだ」

たしかに、身に覚えがある。

偶然に愛されるためには、実験を繰り返し、その繰り返しのなかで練度を高めること。そしてその実験室に身を置くことが、「正しいときに正しい場所にいる幸運」を呼び込むことにつながる。いや正しくは、つながるかもしれないしつながらないかもしれないがつながる可能性は高くなる。

それでも不遇をかこつときはある。自分の力だけではそこからなかなか脱出できないこともある。

だとしても、「やる」。

「やる」をつづける。

「やる」をつづけ始める。

その繰り返しのなか、ふらりと舞い降りた偶然によって救われることもある。

なんとなれば、「偶然はよく練られた実験室を好む」からだ。

あとは、その偶然を必然に変えることができるかどうか。そいつが勝負だ。

「ある偶然」に対して「たまたま、もしくはツイている」と解釈することなく、「よく練られた実験室」だからこそ「その偶然」がやってきたのだととれば、その勝負が妙味にあふれたものとなるし、やりがいも出てくる。

 

わたしがひとつの時代に生きていたという確かな証(あかし)は、わたしが自分の偶然を必然に変えたのだというところに生まれるものだとわたしは思っています。
(『小商いのすすめ』平川克美、ミシマ社、P.214) 

 

この勝負、意外とおもしろいよ。



小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ

平沢克実

ミシマ社


 

 

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