答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

許せない自分を許す

2017年10月31日 | ちょっと考えたこと

朝めし前に、グループウェアにアップされた現場報告や資料、予定に目を通すのが、毎朝のディテールだ。ところが、これには功罪があって、ときとして、どうしようもなく不機嫌な自分を引きずって出勤してしまうという場合がなきにしもあらず。残念なことに、きのうも今日もそうだった。本来、仕事と家庭とは倒立(両立ではないですよ倒立。つまり逆立ち)しているのがまっとうなオジさんの在りようだ(受け売りです、平川克美さんの。しかもちょっとアレンジしている)、と力説していたのはとうの昔。いやはやまったくナニヲカイワンヤ、「あのねおっさんわしゃかなわんよ」だ。そうなると、カーステレオから流れてくるクレージーキャッツの呑気な歌声も、朝のテンションアップという目的を果たすことなどできもせず、どこか虚ろに響いてしまうからちょっと哀しい。

 

移行期的乱世の思考 「誰も経験したことがない時代」をどう生きるか
平川克美
PHP研究所

 

 

そんな不出来なオジさんがデスクに座りPCを開くと、その目に飛び込んできたのが3年前の今日、書いたテクスト。題して『木を見て森を見ず』だ。じつは、本文よりも、そのあとのコメント欄のやり取りがおもしろい。相手をしてくれたのは大阪の深美先生。

これ、今の気分にちょうどいいじゃないか。再掲しよう。

と、思いたち、「もしや?」とブログ内検索をしてみると、2016年11月1日に、コメント欄ごと再掲していた。どうやら同じことを考えていたようだ。いやはや何年たっても堂々めぐりで変わり映えのしないオヤジだ。そんな自分とつき合っていくのにもいいかげん辟易としてきた。とはいえ、それもこれも含めて考えると、そのコメント欄が、当事者ながらおもしろい。いや、当事者としておもしろい。

ということで、再再掲する。

 

・・・・・・・・・・

 

「木を見て森を見ず」。

ディテールにこだわりすぎて全体をとらえられないことの喩えである。いい意味では使われない。

だが、そうでもないと私は思う。

世の中は役割分担だ。

いつも「木を見る」ことで、美しい木や丈夫な木を育てていく役目の人の存在も認めなければならない。特に私たちのような「技術」分野の仕事では、ディテールへのこだわりがなければ良いモノはつくれないからである。

だから理想は「木も見る森も見る」なのだ。

現場監督という仕事の面白くてかつやっかいなところは、その任務が、マネジャーであると同時にエンジニアだということである。広い視野を持って現場をデザイニングし、マネジメントをしていきつつ、細部への配慮を、ゆめ忘れてはならない。

だから理想は「木も見る森も見る」なのだ。

そんな難しい?

そう難しい。

だから面白い。

楽しい、という感情はなかなか生まれないが、やりがいがあり張り合いがあり、達成感がある。

とはいえ、どちらかに重心を置かなければどっちつかずになってしまうのが現実である。

となるとやはり、「森を見る人」たらんと行動してほしい。

「森」のためには、放ったらかしにしていい「木」もあり、伐り倒さなければならない「木」もある。そしてその優先順位や判断は、不変ではなく、その時その場で応変していくべきものである。必要なのは備わった天性ではなく、常日ごろの意識づけと、視点や思考を鍛えること。それもまた、土木屋にとっては、鍛えることによって身につけることができる技術なのだ。

以上、『俯瞰する人』の続稿である。


以下、コメント欄より。


【共感いたします】 (深美です)

「俯瞰」という言葉はわたしも使いますので、なんとなく、共通するイメージをお持ちかなと感じましたが、本日のブログを読ませていただくと、全く共感です。
わたしは、40歳台から現場のミドルリーダーという位置におり、それで終わったのですけど、「現場監督だったんだなぁ」と気づかせていただいたわけです。「木を見て森もみる」という感じだったでしょうか。森に興味関心をもちだすと、すーっと霧が晴れたように森が見えてくるのですね。すると、どうなるかというと、森を見てない管理職とぶつかってしまうのです。森を見せてしまった現場は、その方向に進もうとする、しかし、その新しい方向にトップは「怖れ」をいだく、すると、わたしが矢面に立つ、という感じですね。そこで、必要になったスキルは「許す」ということでした。不思議と、「許す」と一歩進むのです。

 

【う~ん】 (ひの)

「許す」
じつは、近ごろ私の頭のなかを駆け巡っているキーワードがそれなのです。
まず「自分の無能を認めて許せ」(橋本治)から始まり・・・
ですが、他人にも自分にも、なにごとにつけ「許せない」自分を、自分自身で乗り越えることができない・・・
今度呑むときははぜひ、「許す」をテーマに。

 

【なるほど・・】 (深美です)

なるほど・・「無能=力の無さ、及ばぬところ」、「認め」「許す」ってところがキーワードなのですね。何でしょう? 「許せない自分を許す」という境地かもしれないですね。わたし自身、スキルとしては使ってますが、あり様まで高まっているかどうか・・・。何しろ「許す」は、高いレベルのことなのでしょうね。じゃ、次の話題は、「許す」でお願いいたします。

 

【ふむふむ】 (ひの)

そうです。「認めて許す」でセットですね。「認め」ることができたら「許す」のハードルはぐっと低くなります。
しかし、「許せない自分を許す」には気がつきませんでした。言われてみればそういうことなのですね。納得。

 

【ワンセッション完成ですね】 (深美です)

他人が見れば、禅問答か言葉遊びか、と受けとられるかもしれませんが、ワンセッション完成ですね。

 

【たしかに】 (ひの)

経験をふりかえり、そこから得た気づきを言語化して他人さまに伝えるという行為をしない、あるいはその行為をうっとうしがる人にとっては、深美さんと私の問答なぞは「言葉遊び」に過ぎないかもしれませんね。
理屈と屁理屈は、いつもいつでも紙一重です。

 

【その行為をうっとうしがる人】 (深美です)

わたくしの研修の場合、ふりかえりがブログにかえってくるアベレージは6割です。(研修の最後に5分間のふりかえりの時間を保証できた場合) つまりざっくり判断すると、学校の先生の4割は「その行為をうっとうしがる人」なのですね。この率は由々しき事態ではないかと思うのです。学校というものは、必ず子どもたちに自己開示を求めます。しかし、4割の先生方が、それを受けとめず、フィードバックもかえせないとしたら、教育の営みとはいったい何なのだ、ということになりますね。
「その行為をうっとうしがる人」とは、自らの成長の自己放棄をしているのでしょう。でも、その人たちも含めて、組織としての前進を考えるのであれば、それを「許して」フィードバックをかえしつづけなければならないですね。「入れ続けて、少しだけ返済してもらう」という感覚でしょうか。

 

【ヒント】 (ひの)

「入れ続けて、少しだけ返済してもらう」

その「少しだけ」に気づいて、「少しだけ」を「認めて許す」。
ひょっとしたらそれは、自分が行っていることが無為なんではなかろうかと途方に暮れたとき、そこから自分自身を救う方策かもしれません。

 

【それは極意ですね】 (深美です)

「すこしだけ」を評価し、価値を持たせることができるのはポジティブシンキングの極意ですね。ポジティブシンキングとあらわすと、何となく安っぽく感じてしまいますが、重要なことだと感じます。組織や、他との関係性がアサーティブネスに発展して熟成すれば、「なんでも自分が・・」という必要性が薄れてくるので、ツボさえ押さえておけば、自分が手を下さなくても、よい流れになることがあります。どうしようもなかった固定観念の強い人間が、数年後に「受け容れることができる人」に成長したことを思い出しました。

 

【かくありたい】 (ひの)

>どうしようもなかった固定観念の強い人間が、数年後に「受け容れることができる人」に成長した

 

【またまた】 (深美です)

またまたご冗談を・・ひのさんは「なる人」じゃなくて「導く人」でしょ。

 

【そうでしたね】 (ひの)

ときどき「導く人」たる自分を失念してしまうのですよ、いやホント ^^;


・・・・・・・・・・


おもろうて、やがて哀しきオヤジ哉。

お粗末!



子どもと先生がともに育つ人間力向上の授業
深美隆司
図書文化社


 

いじめ・不登校を防止する人間関係プログラム―アクティブラーニングで学校が劇的に変わる!

島根県松江市立第一中学校「こころほっとタイム」研究会

深美隆司

学事出版



  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。


コメント