答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

『忘れられた日本人』(宮本常一)を読む

2016年04月14日 | 読む(たまに)観る

 

忘れられた日本人 (岩波文庫)
宮本常一
岩波書店

 

 これらの文章ははじめ、伝承者としての老人の姿を描いて見たいと思って書きはじめたのであるが、途中から、いま老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きて来たかと描いて見ようと思うようになった(P.305)。

 

昭和35年刊行というから、ここに登場する老人たちのような日本人は、1960年時点ですでに「忘れられた日本人」なのだろう。当時すでにそうなのだとすれば、今となっては歴史の彼方に消えてしまい、その名残りすらないのだろうが、1957年生まれのわたしには何とはなしに感覚的に「わかる」(ような気がする)ものもある。

ここに収録されている聞き書きの一編一遍をして、「古き良き日本」とひとくくりで表現してしまえるほど単純な書物ではない。殺人や物盗りも出てくるし、凄絶な貧しさや現代の規範からすると奔放過ぎる性なども紹介されており、無学で猥雑でたくましい古い日本人たちがそこに描かれている。タイトルから受ける印象のように、けっして清々しい懐古談ばかりではない。

たとえば、『土佐源氏』という土佐梼原村の橋の下に住む乞食老人の話、対馬のとある漁村の開拓者からの聞き書き『梶田富五郎翁』などは、一級の文学を読んでいるような気分にさせてくれもする。

というようになかなかにバラエティーに富んだ、著者の言を借りれば「無名にひとしい人たちへの紙碑」だ。

そんななかでわたしが最も印象に残った話が、著者の祖父宮本市五郎のことを書いた『私の祖父』。

「周囲の人から見ればきわめて平凡な人であった。だからもう大方の人に忘れられている。」というその人となりと、それを淡々と表す筆致に感銘を覚えた。一部を引用する

 


 市五郎はいつも朝四時にはおきた。それから山へいって一仕事してかえって来て朝飯をたべる。朝飯といってもお粥である。それから田畑の仕事に出かける。昼間ではみっちり働いて、昼食がすむと、夏ならば三時まで昼寝をし、コビルマをたべてまた田畑に出かける。そしてくらくなるまで働く。雨の日は藁仕事をし、夜もまたしばらくは夜なべをした。祭の日も午前中は働いた。その上時間があれば日雇稼に出た。明治の初には一日働いて八銭しかもうからなかったという。

 仕事をおえると神様、仏様を拝んでねた。とにかくよくつづくものだと思われるほど働いたのである。

 しかしそういう生活に不平も不満も持たず疑問も持たず、一日一日を無事に過ごされることを感謝していた。市五郎のたのしみは仕事をしているときに歌をうたうことであった。(P.197~198)

 

 「納得のいかぬことをしてはならぬ」というのが祖父の信条で、蚕をこうて金をもうけることは大切だが、そのために、米麦をつくる場所をせまくすることには賛成できなかった。だから自分は古いことをまもったが人には強いたわけではない。自分だけは自分の納得のいく生き方を生涯通したかったのである。(P.207)

 

 祖父が死んだあくる日、近所の老人が祖父名義の貯金通帳をもって来た。それは自分の葬式の費用にするためのものであった。この通帳をあずかっていた老人は、その昔私の家をやいた少年であった。青年のころには少し気が変になっていたのを祖父はよくめんどうを見てやった。青年はそれから四国巡礼に出て長い間かえらなかった。もどってくるとすっかり元気になっていた。そして小商売をはじめた。正直で親切で貧乏人にはよい味方であった。祖父にとっては自分の家へ不幸をもたらした人だったけれど信頼してずっと年下なのにかかわらず何事も相談していたようである。

 祖父が死んでから盆踊りがみだれはじめた。あたらしいものにきりかえようとしたこともあったがうまくいかなかった。その豊富な昔話も私は十分にうけつがなかった。世間話はあまり持たぬ人だったが、その生涯がそのまま民話といっていいような人であった。(P.213)



わたしのような半ちくとは似ても似つかぬ宮本市五郎の生き方に思いを馳せ、

たぶんまた読み返すことがあるだろうな、と独りごちながら 、本を閉じる。

 

 

 

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