久しぶりに太鼓の話しを書いてみる。
子どもと太鼓、である。
子どもに太鼓を教えていると、
教えるこちらがびっくりするような目ざましい成長や変化を遂げてしまう場面に遭遇してしまうことがある。
技術的にではない。
人間的にである。
もちろん、和太鼓を叩くという行為だけでそのようなことが起こるはずもなく、
家庭や学校でのさまざまなことやモノと化学反応を起こした結果が、
ある一線をひょいと越えさせてくれるのだろうが、
和太鼓という、原始的きわまりない楽器を介してしか彼彼女らとのつきあいがないこちとらは、
「そうなったのは太鼓のおかげなのだ」などという不遜な思いを持ちがちである。
勘違いもはなはだしいのは承知しているが、ついつい・・・・・・、なのである。
そしてその成功体験がどういう影響を脳内に残すかというと、
そうではない子どもを、「認める」ことができなくなるのである。
伸長の遅さや反応の悪さなどを、「認める」ことができなくなるのである。
「あの子たちはああだったのに・・・・・・」
それは、和太鼓によって子どもは変化(成長)する、という思い込みであり、
おのれが「何者か」(=何らかの成果を生み出すことができる人間)だ、という錯覚である。
いくつかの成功体験は、「偶然が重なって、あるいは結果としてそうなった幸福な例」に過ぎないぐらいに思っていればちょうどいい。
それはそれで得がたい経験だし、幸せな体験には違いないが、そこを標準としてしまうとあとが辛くなる。
自分自身はそれでいいかもしれないが、教えられるほうはたまったもんではない。
以上、久しぶりに太鼓の話しを書いてみた。
太鼓(だけ)の話しだったのだろうか。
いやたぶん、「だけ」ではないなと、苦笑い。
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