答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

金の茶碗

2024年04月18日 | ちょっと考えたこと

 ある事件を報じるテレビニュースに映し出されたその純金製の茶碗を見たとたん、ぼくの脳内に浮かんだのは三代目桂米朝の高座姿。演じているのは『はてなの茶碗』だった。

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清水の茶店で安物の茶碗を見つめ「はてな」とつぶやいただけで帰ったのは、いかにも・・というような上品な身なり姿をした旦那。
「あれは衣棚(ころものたな)の茶道具屋の主人である茶金さんや。ということはこの茶碗、値打ち物にちないない」と隣りで見ていた油売りが、有り金の二両を軍資金にして強引に茶碗を買って持ち帰り、茶金さんに買い取りを迫る。
しかし、「あぁ、それなら傷もないのに漏るから、はてな、と首をかしげてながめていただけや」と聞いて意気消沈。それを目にした茶金さんは、地道に商売にはげめよと諭して三両で茶碗を買い取った。
後日、こんな話がありましたと茶金さんが関白鷹司公に茶碗を見せたところ、同じようにポタポタと漏る。
この不思議な茶碗の話が広まり、ついには帝(みかど)のお目にかかることになり、さらには豪商鴻池善右衛門がそれを千両で買い取る。
物語はそれでは終わらず、今度はその半分の五百両を・・・
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 そんな噺を思い起こしたある事件とはこれのこと。

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 日本橋高島屋(東京都中央区)で開かれた「大黄金展」の会場で販売価格1040万円の純金製茶わんが盗まれた事件で、窃盗容疑で逮捕された男から180万円で茶わんを買い取った業者が、別業者に四百数十万円で転売していたことが捜査関係者への取材で分かった。転売は窃盗事件が起きた11日のうちに実施されていた。(『朝日新聞DIGITAL 』4月17日5:00配信)
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 この事件を報じるテレビ画面に映し出された黄金の茶碗の画像から即座にこの噺を思い浮かべるというのは、たぶんぼくだけではなく、日本全国の落語好きのあいだで同時多発的に起こったことなのではないだろうか。

 「落語とは人間の業の肯定である」
 とは七代目立川談志のことばだが、現実に剥き出しとなった「業」は、ただただセコく世知辛い。とはいえそのセコさが、落語という芸能のたのしさをより一層際立てるのではあるけれど。


ー・ー・ー・ー・ー

 まことに残念なことに、今、YouTubeには三代目桂米朝がこの噺を演じた動画がない(かつては確かにあった)。代わりといっては甚だ失礼だが、五代目古今亭志ん生のそれを貼りつけるので、興味のある方はどうぞ。


 

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選ばれる地域建設企業とは何か ~三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎~

2024年04月15日 | ちょっと考えたこと

 毎年行っている「三方良しの公共事業推進カンファレンス」を、今年は宮崎市で5月16日に開催する。

 題して『選ばれる地域建設企業とは何か』。『誰もが働きやすく、地域に必要とされる企業になるために』という副題がつけられている。メニューは以下のとおりだ。

 まずはじめに、「ふるさと納税日本一」に輝く都城市の池田市長による特別講演。
 それにつづいて事例発表が3つ。最初が九州地方整備局大分河川国道事務所の取り組み、つづいて宮崎大学工学部の取り組み、3つめが地元で人気のスナックSUNの発表で、それらを受けたメニューの最後は、宮崎日日新聞社の編集局長を進行役に建設業若手経営者3人が語り合う座談会だ。

 そんななか、この企画にいっちょかんできたぼくでさえ興味津々なのが、都城市長の講演とスナックSUNの加藤ママによる発表だ。
 なんだ建設業に関係がないではないか、と思うなかれ。
 とはいえ現実にこのふたつは、CPDSの対象として申請を行った際に、そういう趣旨のもとで、それにかかる時間がユニット数から差っ引かれて承認されているし、そのように捉える向きがあるだろうことは想像ができる。そしてそれに対して理解ができないこともない。

 だとしても、そのような受け取り方が適切なのかどうかはまた別の話だ。少なくともぼくは、そのように捉えるのがよいことだとは思わない。「餅は餅屋」だとはいえ、餅屋からのみの情報に頼りきっている餅屋と、まったくの異業種からも広く情報を取得する餅屋のどちらにより多くの学びが起動し、それを自らの商売に活かすことができるかというと、圧倒的に後者の方に分があると考えるからだ。そしてそれは、今という時代の建設業界で生きるものならばなおさらだ。

 だから皆さんに強くオススメしたい。
 「三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎」
 5月16日13時から MRT micc(宮崎市)で。
 定員は先着200名さま。
 もちろん、オンライン生中継もあるので是非。

 






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拗ね者

2024年04月10日 | ちょっと考えたこと

 やはりぼくは変わり者で捻くれ者だと、今日このごろはつくづく思う。
 それが世界的な時事であり、わが国の世相であり、あるいはごくごく卑近な出来事であっても、特別意図するところもないのに、気がつけば多数派の逆を考えていることが多い。
 
 こんなやつにもっとも相応しい生き方は、「世を拗ねる」だろう。それとも180度転がってその逆をいき、世を牽引する存在になるという手もないではない。だが、それにはそれ相応の能力や器量を有していることが必要だ。
 ということは、それ程の能力もなく器でもないぼくに、そもそもその道があるはずもなく、であれば、夜毎昼ごと酒を飲み、飲んでくだまき「世を拗ねる」というのが、それ相応の生き方だったはずのぼくを、なんとかマトモな社会人として踏みとどまらせてくれたのは、なんといっても、妻であり子らであり、つまり家族の存在に他ならない。

 そこにおいて自ら負おうと決め、自らに課した責任が、次第に会社という枠にも範囲を広げ、それがいつしか、誰に頼まれたわけでもないのにもっと広い枠組みに対するものにもなっていった。
 そうなると、「世を拗ねる」どころではない。
 といっても、人の見本になろうとまでは考えもしないが、「正しいジイさん」であるべきだとは思う。
 ところが、そうあろうとすると、これがなぜだか不思議なことに、なおさら多数派の逆目を張ることが多い。
 だとしても、かつて西部邁が唱えたように、「世論の逆がおおむね正しい」と胸を張ることができるなら、なんぼか楽なのだが、基本的にヘタレなぼくにはそれをすることができないのである。


 なんてことをつくづく思う今日このごろ。先日、わが社を訪れていたある人が、ぼくのパソコン画面に目を留め、こう質問してきた。

 「これ、どこの国ですか?」

 ディスプレイの中央には「環日本海・東アジア諸国図」が、でーんと居座っている。

 「日本ですよ」

 そう返したぼくの言葉に彼は、その地図がどこかの外国に見えた理由にすぐさま気づき、ナルホドとうなずいた。
 
 「いや、ものごとをある一面からしか見ることがないようにね。戒めですよ、自分への」

 「まるで地中海のようですよね」

 「ナルホド。たしかにそんなふうにも見えるわね。環日本海・東アジア諸国図というから、むしろそう見てくれた方が正解。けど、今の日本の常識では、地中海沿岸でひとくくりにすることはあっても日本海沿岸でそうすることはほとんどない。こうやって見るとちがった観点から見えるようになる。おもしろいでしょ?」

 なんのことはない。常日頃ぼくは、そう心がけているのである。ならば、その成果があがっているだけのことだ。ぼくの感覚的なものだけではなく、実際にぼくの言説が多数派の逆を行くことが多くなっていたとしても、不思議でもなんでもない。
 だとすればそれは、自分自身の望ましい姿だと表現しても差し支えないではないか。


 それもこれも含めて、やはりぼくは変わり者で捻くれ者だと、今日このごろはつくづく思う。とはいえやはり、そうでございと胸を張りはしないけどね。


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ぜんぜんだいじょーぶ

2024年04月08日 | ちょっと考えたこと

 まず、ぼくの基本的な考えを表明しておく。
 時代の変化とともに言葉は変わる。あえて変える必要はないが、変わったとしても咎めだてをすることはない。
 これが言葉の使い方に対するぼくの基本的態度だし、それはこの場でも再三再四あらわしてきた(つもり)。

 とはいってもそれは、すべてに対してそうであるわけではなく、「ぜんぜんかまわない」とか「ぜんぜんだいじょーぶ」とかの、いわゆる「全然+肯定語」に対しては違和感が拭いきれず、これまでできるだけ使用しないようにしてきた。
 とはいえ、ここで「できるだけ」という曖昧な表現にとどめるのが、ぼくの優柔で煮え切らなさゆえで、周囲がそれを使うのになじんでしまったぼくの脳は、いけないこととは思いながら、ついついそれを口に出してしまったりもする。

 そんなものだから、他人がそれを使う分には、毎度耳にするたびに違和感を感じつつも、よほどのことがなければ否定するまではしない。
 だが、否定派であることに変わりはない。つまり、「全然+肯定語」を「ぜんぜんかまわない」とか「ぜんぜんだいじょーぶ」と言って肯定することはないのである。

 ところが世の中というやつは、ぼくのような浅学非才が預かり知らぬことも多い。今日も今日とてたった今、幼いころより耳になじみ、正しいと思い込んでいるはずのその「全然+否定語」自体が、戦後に定着したものだという見解があること、文化庁国語課国語調査官である武田康宏氏の談で知った(ラジオ関西トピックス『ラジトピ』4月8日8:30配信)。
 事実、夏目漱石と太宰治という日本文学史上に燦然と輝くビッグネームが、前者は「全然同格である」(『趣味の遺伝』、1906年)、後者が「全然新しい」(『鷗』、1940年)というように、その「全然+肯定」を自身の作品で大っぴらに使っているというのだから、驚く他はない。

 氏によれば、「全然+肯定」の表現は「許されやすかった時期」と「許されにくかった時期」が繰り返されてきたという。

 う~ん・・・
 またひとつぼくの常識がひっくり返った。
 とはいえ「ぜんぜんだいじょーぶ」。驚きはするがショックではない。
 どころかむしろ、その論と事実が面白くさえある。
 なんとなれば、言葉の使い方に対するぼくの基本的態度は、「時代の変化とともに言葉は変わる」であるからだ。それにしても・・・・・

 びっくりしたなぁもう (*_*)


コメント (2)
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I never make plans that far ahead.

2024年04月04日 | ちょっと考えたこと

 「まだはたらいてるんですか?たいへんですね」と言われたのは先々月、一回目の胆石発作で入院していたときのことだ。
 ベッドの脇にノートパソコンとモニターを置き、いかにも仕事に勤しんでいるかのようなぼくの姿を見た看護師の言葉である。
 一瞬、意味を計りかねたぼくは、その「まだ」が年齢のことをあらわしていることに気づき、妙齢の看護師に対して思わず苦笑いしながら、こう答えた。

 「そう、たいへんよ」
 
 そして、そうか世間一般では定年退職している齢なのだとあらためて思いが至った。
 もちろん、そう言った看護師になんらの悪気はなく、むしろその素直な物言いには好意すら感じられたのだが、はたしてそれは、ぼくのような年齢の男に対してもつ感覚として正しいのだろうか。すぐに調べてみた。
 
 『令和5年版高齢社会白書』によると、65~69歳の男性の就業者の割合は61.0パーセント。半数以上がはたらいている。それが70~74歳となると、41.8パーセントとなり約2割方落ちるのだが、それにしても、70歳をすぎてなお、半分近くの人がはたらいているというその結果は、少しばかり予想外だった。
 そして、そうか世間一般的にはいわゆる定年退職年齢とされることが多い65歳をすぎても、はたらいている人がたくさんいるのだと気づかされた。
 
 そんなことを思い出したのは今日、あたらしい弁当箱をもたされたからである。昼餉、包をあけると出てきた新品の曲げわっぱ弁当箱を目にし、「まだまだがんばんなさいよ」という妻からのエールが聞こえたような気がして、思わず背筋が伸びた。
 この先いつまではたらくことができるか、ボギーを気取って言ってみると、「そんな先のことはわからないさ」でしかないのだが。

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