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● 聖書とは何か。実際に書いたのは誰であるのか。
● 聖書の原語は何か。 (ヘブライ語?アラム語?コイネーギリシア語?)
注意: 聖書はどの預言者の時代にも英語であったことはなかった(ムハンマドの時も)。なぜなら英語は西暦1066年までは存在しなかったのであるから。
● 聖書は地球上のどこかに原型で残っているか。(残っていない)
● カトリックの聖書はプロテスタントの聖書より7書多いのはなぜか。
● その二つの聖書には同じ書でも異なる版があるのはなぜか。
● 一番始めの文から一番最後の文までこんなにも間違いが多いのはなぜか。
● 「生まれ変わったクリスチャン」 はなぜ聖書からのものではない概念を教えているのか。
● どの言語のどの版の聖書にも、 「三位一体」 の文字はない。
● キリスト教のもっとも古い形では「生まれ変わり」の信条は支持されていない。
● 英語版の聖書ではイエスは「磔」に不満を持っている。(「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。[マルコによる福音書 / 15章 34節] ) (訳者注:日本語訳は日本語口語訳聖書より)
● ヨハネによる福音書 / 3章 16節にあるように、イエスは 「ひとり子」でありえるのか。詩篇 / 2篇 7節ではダビデが「おまえはわたしの子だ 」 と言われているのに。
● 「正しい」神、「公平な」神、「愛に満ちた」神が、イエスの呼びかけに従った人の罪のためにイエスを罰するであろうか。
● イエスが現れる前に亡くなった人はどうなるのか。
● このメッセージを聞いたことがない人はどうなるのか。
● クリスチャンではない親を持つ無垢の子どもが亡くなったらどうなのか。
● 神はアダムを土から創られたのではなかったか。イエスを創るのにマリアを必要としたのはなぜか。
● 神についてはどうか
○ 神が自分自身を創造することなどあるか。
○ 神は人間となりえるか。
○ 人間が神となりえるか。
○ 神に息子がいることがありえるか。
● 聖書によると、「セツはアダムの息子、アダムは神の息子。」 [ルカによる福音書 / 3章 38節]
(訳者注:日本語版では 「セツ、アダム、そして神にいたる。」)
● 神はイエスを殺さずに私たちを赦すことが出来ないのか。
● そしてイエスについては?
○ イエスは十字架を運びさえしなかった。通りがかりのシモンというクレネ人が負わされた。[マルコによる福音書 / 15章 21節]
○ 聖書中でイエスは --3日ではなく-- 6時間以上 (午前9時から午後3時) 十字架上にいなかった。 [マルコによる福音書 / 15章 25節、33節]
○ 聖書中でイエスは墓の中に3日3晩もいなかった。金曜夜から日曜日の日の出前は3日3晩ではない。
○ イエスは自分が神であると言わなかったし、神と等しいとさえも言っていない。
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大きな十字架を担いでいた友人はこの質問全部に答えようとしましたが、疲れて仕舞いにはやけっぱちになり、ある日 旧約の創世記にあるアブラハムの話を読むようにと言ってきました。特に神のために息子を犠牲にする箇所を。友人は、それが神への犠牲と服従の全概念を説明してくれるものと思ったようでした。
私はそれを読みました。
しかし、それで納得するどころか、私はまったく別のメッセージをそこに見出しました。悪を働いたものが苦しまなくてすむように善い者を罰することの意義は見られませんでした。
アブラハムは全能なる神のために進んで祭壇で息子を犠牲にしようとしました。それが神が自分に求めていることならば、と思って。しかし神は、アブラハムが犯した罪のために、罪のない男の子の命を本当に取ろうと思ったのではありませんでした。そんなことはここで話にもなっていません。息子の代わりに雄羊を捧げたところで、それも十字架のイエスの話に合いません。
少し考えてみてください。
アブラハムは、忠誠を試みられ、息子を犠牲に捧げるようにと神に命ぜられました。アブラハムは神に対して息子を差し出すことを惜しまなかったので、神の使いは息子の代わりに雄羊を差し出すように命じた。神はアブラハムの完全な服従に満足され、結果として彼と子孫を祝福された。
[創世記 / 22章 9-18節]
今度は新約の救済の話を考えてみてください。イエスは神に、どうかその厳しい試練に遭わせないでください、とお願いしました。
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。
[ルカによる福音書 / 22章 42節]
続く節での天からの御使いも 「イエスを力づけるために」 現れていることに注目してください。
アブラハムの時の御使いは息子の代わりになる犠牲として雄羊を差し出すために現れました。
次の節 [22:44] では、イエスは苦しみもだえています。 ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。
それから私はマルコによる福音書におけるその話の記述を見ました。[14章32-39節]
イエスはゲッセマネの園に行く。魂は「悲しみのあまり死ぬほど」である。 そして、「少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけた。」 つまり、その出来事が起こる時が来たら、どうにかしてそれから逃れることができるように、という意味です。これはアブラハムの示した服従の姿勢ではありません。
次に36節を見るとイエスがこのように言っています。 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。 それから、イエスは弟子たちのところへ行くと彼らを起して、戻って 「同じ言葉で祈られた。」
ここでのことは全て、アブラハムと息子について述べられている創世記の概念とはまったく異なるものです。
私は 「その種の語」 を深く考察し、問うようになりました。すると奇妙な事がたくさん起こり始めました。非常に奇妙なことに。
私の生活に何かが起こり始めたのです。私が長年の間負っていた考えや信念の多くを変えるようなことが。解決策や答えは非常に不思議な形で現れてきました。
まず始めに、父がエジプト出身の男性とビジネスをするようになり、私を彼に紹介しました。その後、父は私がその男性をキリスト教に改宗させようとしていることに直ちに気付き、失礼な態度にならないように、と私に言いました。そのエジプト人は、もし私の宗教が彼の宗教よりも良いならば、私の宗教に来る用意があると言いました。しかし条件がありました。証拠が欲しいというのです。私は、宗教は証拠の問題ではない、信仰の問題だ、と言いました。すると彼は私に実に考えさせることを言ったのです。彼の宗教には信仰も証拠もあると。おかしなことだ、と思いました。神や宗教についての証拠などが有り得るのだろうか。
そして次に、私はカトリックの神父に会うことになるのです。その神父は教会の真の歴史や、大聖堂とバチカンで実際に何が起こっていたのかについて教えてくれ、私たちみなの目を開かせてくれました。お名前をピーター ジェーコブスという神父です。彼が中央アフリカ、南アフリカ、メキシコ、アメリカで体験したことは私たちに多くの新しい知識を与えてくれることとなりました。
でも何よりも彼の聖書と巻物についての深い理解でした。キリスト教や、カトリックという組織化された宗教についての興味深いことや驚くべきことを私たちの団欒にたくさんもたらして楽しませてくれました。
神父とエジプト出身のムスリムの二人がテキサス州ダラス近郊の我が家に一緒に住むことになりました。そして事態は本当に奇妙になっていったのです。
この話の詳細について分かち合いたいと思います。どうして多くの牧師や神父がイスラームに帰っているのか。私たちのウェブサイトを訪れてこの話の全容を知ってください。
2008年10月24日訳