散日拾遺

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敵と味方

2017-08-14 15:31:34 | 日記

2017年8月14日(月)

(承前)

 この種の番組を見てどう感じ考えるかは人それぞれだが、そもそもそんなもの見たくもないという向きが多いのだとすれば、やっぱり公共放送でしつこく流す意味はあるのだろう。その点だけは某テレビ局を支持応援しておく。受信料徴収の感じの悪さは半世紀前から少しも変わらず、おかげで下宿生活を始めたての当家の未成年児も良い社会勉強をしたようだけれど。(うちはちゃんと払ってますよ、念のため)

 受け止め方を規定する個人的な事情として、母の兄がサイパンで戦死したという事実を既に何度も書いた。父方の祖父は中国戦線で10年も戦わされ、父は父で敗戦時18歳の旧軍属という設定のおかげで相当な苦労を舐めている。戦争は父の家にも母の家にも敵(かたき)であり、そのせいかどうか誰が敵で誰が味方かと言うことを昔からよく考えた。今でも考える。

 いつまでもそんなことにこだわるのは愚かだというなら、喜んで愚者に甘んじよう。重慶でのサッカー日中戦が大荒れに荒れたのは2004年のことだった。こういう反応が良いとは少しも思わないし、中国と中国人に対して望むところは多々あるけれど、「そんな昔のことに、中国人はまだこだわってるのか」という声があったとすれば、これには反対である。彼らは確かに執拗だが、翻ってこちらはあまりにも早く忘れすぎるのだ。

(重慶サッカー事件 http://www.asahi.com/sports/soccer-japan/asia-cup2004/TKY200407310310.html)。

***

 『囲碁××』という雑誌があり、そこに『原爆下の本因坊戦』という記事が載ったことがある。碁打ちは碁を打つのが仕事だから、戦時下でも身体を張って碁を打つ。奇しくも1945年8月6日、広島郊外で第3期本因坊戦の番碁第2局が打たれていた。橋本宇太郎本因坊に岩本薫七段(当時)が挑戦したもので、8時15分には既に碁盤に向かっていたらしい。折からの爆風で一同なぎ倒され傷を負った者もあったが、対局は続行され岩本七段が勝った。その後、敗戦後から翌年にかけて後続局が打たれ、岩本薫和・新本因坊が誕生している。

 興味深い記事ながら、原爆を投下した爆撃機がB25とか何とか間違って記されていた。当該号には詰め碁問題の疑問もあったのであわせて編集部に手紙で問い合わせたところ、すぐに返事が来た。御丁寧に囲碁の解説本まで添えてあったが、文面を一読落胆した。

 「御指摘の通り正しくはB29でした。編集部の全員が戦後生まれということもあって、気がつかず云々・・・」

 どうやら質問した僕のことを戦前・戦中の人間と決め込んでいるらしい。はばかりながら敗戦から干支が一巡りして生まれた立派な戦後っ子、飢餓を知らない最初の世代である。些事のようでさにあらず、この編集者の愚かさはなかなか念の入ったものだ。

 その一、誤りを指摘されたら「御指摘ありがとうございます、勉強が足りませんでした」で十分だ。相手を年寄り扱いするような、つまらぬ言い訳をするものではない。今時サービス業の常識かと思ったが。

 その二、これがここでのポイントだが、編集者は「戦後生まれがB29を知らないのは当然」と思っている。大きな心得違いで、世代の問題ではなく当人の見識と素養の問題に過ぎない。物を知らない人間に限って、世代のせいにしたがるものだ。

 実際、僕の周りの同世代の(つまり戦後生まれの)男子でB29を知らないものなど一人もなかった。それは米軍の圧倒的な強さと、抗うすべのない強暴な空襲の象徴として年長者が常に言及する一種のマジック・ワードで、「びいにじゅうく」という音として戦後生まれの僕らの耳にもすり込まれた。B29とアメリカザリガニは、強すぎるがゆえに憧れすら抱かせる強烈なシンボルで、それが何をしたか知ったときには底知れぬ恐怖と憎しみの対象となった。沖縄・嘉手納基地から北ベトナムへ往復爆撃したB52は、その後継機である。

 戦後も幅があるから年齢が下るにつれ急速に認知度が落ちるのは当然だが、単に爆撃機とせずに「Bなにがし」と記すからには、その機種名が重要との直感あってのことだろう。実際には彼(ら)もどこかで聞いていたはずなのである。それならいい加減な訳知り顔をせず、調べるなり訊くなりするものだ。せめて指摘された後には若さのせいにする(実は若さを誇っている?)のではなく、知識の欠如を恥じるほどの廉恥心を示してほしかった。

 「囲碁雑誌だからB29はカンケイない」とは僕は思わない。それはすべての日本人にカンケイあることだったし、原爆の爆風を受けながら碁を打ち続けた先人の逸話を敢えて書こうというなら、なおのことである。こんなところにも、日本人のお気楽な忘れっぽさが顔を覗かせていないか。サイパン島に観光旅行して海の青さばかりを楽しみ、そこに眠る5万柱の同胞の霊に一瞬の祈りすら捧げようとしなかった、わが友人の愛すべき呑気さに通じるものである。

 その後しばらくして、この雑誌を購読するのはやめにした。

***

 敵とか味方とかいうのは、人のことではなく、心のありようだと仮に考えよう。その場合、「忘れっぽさ」と「無関心」が実は最大の敵ではないかと思われる。執拗に覚えていて決して赦そうとしない頑迷に比べれば、「忘れっぽさ」「無関心」はまだマシとも言えそうだが、さてどうだろうか。どちらがとは言わない、違う形の二つの敵ということか。怒るべき怒りを怒った後、赦しへ向かうのを理想としたい。むろん簡単ではないこと、敵は我が内にある。

 あわせて思うに、重慶を悔いることと、東京はじめ日本中のあらゆる都市とりわけ広島・長崎を襲った暴虐を憎み憤ることは、別のことではなく一事の両面のはずである。しかし実際には、重慶を強調する論者は東京を顧みず、東京を悼む人は重慶を忘れがちなところがある。両者を等しく見据え、怒り(いかり)を祈り(いのり)に昇華できる人があれば、最も頼もしい味方というべきだろう。

 38年後に日本を訪れて心の闇と直面した元パイロット、彼が「爆弾の下に人がいたことに気づいた」時、彼の中には一人の味方が生まれつつあったのだ。敵とか味方とかいうのはそういうことだ。だから敵の中にも味方があり、味方の中にも敵がある。味方を信じて戦うこと、甲子園球児ではないけれど。

Ω


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