散日拾遺

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夏が来れば思い出す

2017-08-13 07:29:56 | 日記

2017年8月13日(日)

 8月9日(水)午前11時2分の鐘、今年は移動中の車の中で聞く。500km行程ほぼ中間地点の浜松までは3時間ほど、そこから関西のゴールまで5時間半を要した。着いた先では室内に蟻の行列ができている。幸いヒアリではないようだ。翌日、別件のついでに聞きあわせたところ、今年は蜂・蟻が至るところで大発生し、業者はてんてこまいだそうである。今年だけのことか、猛暑・豪雨などと連動した気候全般の長期的な変化によるものか。ベイト剤というものを使って駆除するのだと教わり、教授料を献納した。

 帰省ラッシュのピークを避け12日(土)に移動、これは330kmほどである。しまなみ海道は太陽を背に受けて今治側から北上するのが良いと信じていたが、そうばかりでもない。生口島の標高の高いところで南側の眺望が開け、運転席から横目で垣間見て歓声が漏れた。毎度一つ覚えで恐縮ながら、芸予諸島の地形そのものが天下の奇観である。海の中に島々が浮くか、島山の間を無数の水道が貫くか、陸の濃緑と海の紺碧が競う境を砂浜の白が縁どり、毎年通って飽きるということがない。

 夏が来れば思い出す、故郷の原風景である。

(PC環境の制約で助手席からの写真掲載できず。後日を期待されたし。)

***

 無事に着いた夜、NHKスペシャルが「本土空襲全記録」を放映した。この番組があることは知っており、できれば見たくなかったが、両親が食堂のテレビに吸いつけられたようになっている。肩越しに覗くようにして、結局八割方見てしまった。これまた、夏が来れば思い出さずにすまないことである。

 見たくないのは内容が分かっていたからだ。未公開の貴重な資料発見と銘打つものの、やはり概ね既知のこと。しかし番組構成は上の出来と思われる。当初、軍需施設のピンポイント爆撃を計画したものが、日本上空の気流の不安定もあって成果上がらず、指揮官が更迭され新たに登場したのが悪逆非道のカーチス・ルメイ。この御仁については、当ブログで二年ほど前に詳しく紹介した(2015年9月26日『半藤氏のオピニオン / カーチス・ルメイ叙勲のこと』)。ドイツ戦線での赫々たる実績を踏まえルメイは無差別爆撃へと方針転換、その最初の戦果が1945年3月10日の東京空襲10万人殺戮である。その余は詳説に及ばず、実施に先立ち「ジャップが住む木と紙でできた小屋」を再現して燃焼実験を繰り返し、殺傷効果を高め消火を困難にする粘稠な油を採用するなど、準備作業の冷徹な合理性は見事なばかり。

 ルメイ個人に迷いはないが、当初は米軍の中にも躊躇があった。その空気を変えるにあたり、重慶が重要な役割を果たしたことを番組は指摘する。1939年から1941年にかけ、国民党政府の当時の首都であり内陸の要害である重慶を日本軍は繰り返し爆撃した。当初は戦略・政治施設の捕捉撃滅を目的としたが、効果上がらず途中から無差別爆撃へと拡大したことも全く同じ。ただし番組が「人類史上最初の無差別爆撃」と告げた(ように聞こえた)のには疑義あり、1937年4月のドイツ軍によるゲルニカ空襲にその栄誉(!)が帰せられるものかと思う。いずれにせよ重慶で日本軍のしたことが、日本で米軍がすることの正当化に用いられた。今回知って驚いたのは、極東軍事裁判において「重慶爆撃は連合国による日本爆撃と相殺され起訴されておらず、無差別爆撃を唱え百一号作戦と百二号作戦を推し進めた井上成美海軍大将なども戦犯指定はされていない」との記載である(https://ja.wikipedia.org/wiki/重慶爆撃)。大量虐殺の罪過の相殺!悪魔の愉快そうな笑い声が聞こえてくる。

 人の良心は戦争のさなかにも、か細く働き続ける。しかし憎しみの連鎖がいったん細い堰を切ってしまえば、あとは止まる瀬もなく流される他はない。数ヶ月後には米軍は「日本に民間人はいない、老若男女すべてが戦争遂行に関わっている」と公言した。空きっ腹を抱えて竹槍訓練を行う婦女子のことだろうか。どだい全体戦争はそういうものである。そして胸の悪くなるようなルメイの発言録の中で、以下の記載ばかりは真に全く正しいのである。アメリカ人は義戦 just war を信奉する集団で、対独・対日戦争は聖の聖なるものと信じられているから、ルメイの言葉は実は彼らが最も聞きたくないもののはずだった。曰く、

  「軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考える。だが、戦争はそもそも全て道徳に反するものなのだ。」

 番組に戻ろう。「島」の戦いと本土空襲が連動していることの指摘も、的確至極な着眼である。1944年6月にサイパンが落ちてB29による本土空襲が可能になった。B29はヨーロッパ戦線で空の要塞と恐れられたB17の航続距離を延伸した進化版で、サイパンから東京まで2,400kmの距離を超えて往復飛行することができた。これが大都市空襲の背景。

 さらに硫黄島が1945年3月に陥落。日本本土まで1,200kmと急接近し、より小型の戦闘機や爆撃機の往復が可能になった。戦闘機の援護があればB29は低高度で進入でき、爆撃の精度も格段にあがる。こうして中小都市空襲の条件が整った。かてて加えて硫黄島では日本軍の反撃が巧妙かつ熾烈をきわめ、真珠湾以来はじめて勝った米軍の死傷者が全滅した日本軍のそれを上回った。これに対する米国人の報復心はすさまじく、もはや中小都市の無差別爆撃に良心の痛みを口にするものもなくなった。すべて悪魔の冷徹な筋書き通りである。

***

 よくできた番組だが、ひとつ残念なこと。件のルメイに対して、日本国政府が勲一等旭日大綬章という最高の栄誉を与えた事実を紹介してほしかった。さすがに、日本全土を空襲で丸焼きにしたことに対してではない。戦後「航空自衛隊の設立に貢献した」ことが叙勲の理由である。詳細は上述の当ブログ記事に譲るが、自国民の殺戮に責任ある立場で寄与した人物にかくも大きな栄誉を与える政府という不可思議な代物が、地球上に他にあるかどうか僕は知らない。

 いっぽう、ひとつ感心したこと。B29の搭乗員の一人を見つけ出し、95歳の彼にかなり突っ込んだインタビューをしている。戦後38年経ってと言っただろうか、彼が日本を訪れた。道行く幼い子どもがピースサインをして見せたとき、心の中で何かが崩れた。

 「自分が爆弾を投下したところには人間がいたのだということに、このとき初めて自分は気づいた。」

 「そこに人がいるなどと思うな」というのがルメイの鉄則、その呪縛から彼は解かれたのである。見上げる空からB29が、自分めがけて爆弾を投下するような気がした。名状しがたい悲痛な感情が彼の中にこみあげてきた・・・

(続く)

Ω

 


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