随筆家の岡部伊都子さんが4月29日にお亡くなりになりました。謹んで哀悼の意を表します。
私はNHKの放送で岡部伊都子さんのお話を聞いたことがあり、そのお話がきっかけで、岡部伊都子さんの著書を読んだことがあります。その著書「沖縄の骨」にはNHKの放送で私が聴いた内容が書かれていました。以下はその抜粋です。
……1943年2月、見習い士官となって別れを告げに来られた。(中略)
初めてわが部屋へ通した木村氏は、本の並んでいる部屋を見て「いい部屋だ」と言った。そして南の窓のそばの椅子に向い合わせに坐って、居ずまいを正した。
「自分はこの戦争はまちがいだと思っている。こんな戦争で死ぬのはいやだ。天皇陛下のおん為になんか、死ぬのはいやだ」
はっきり言った。はっきりきこえた。
そして少し声を落して、「君やら国の為になら、喜んで死ぬけれども」と、そう言った。
びっくりした。生まれてはじめてきく言葉。
「天皇陛下のおん為になんか、死ぬのはいやだ」
とは、聞いたことはもちろん、読んだことも考えたこともない。しかも軍人だ。見習い士官だ。
教育は、すべては「天皇陛下のおん為に」だった。「喜んで死ね」「忠君愛国」。
幼い頃から小学校時代、そして結核になって「お役に立たなくて申しわけない」と、「非国民」でしかないうしろめたさに、おびえてもいた。
木村邦夫氏は、心をきめて、「今、この婚約者に自分の本音を言っておこう」と毅然と姿勢を正されたのではなかったか。こういう言葉が、誰かから他に洩らされたら、どんな罪に落されるか、わからない時代である。うっかり誰にも言えない本音だった。
親にも、兄弟にも、友人にも、町の人にも……、私は、他の誰にも言えない本音を、はっきり話してもらったのに、その意味が、肝心の私には、わからなかった。私は兄の戦死を名誉とし、婚約者のいのちがけの言葉が理解できなかった。
「私なら、喜んで死ぬけど」と答えたのだ。(後略)
戦後になり岡部伊都子さんは、日本の伝統美を追求した随筆を書くようになります。そして「婚約者のいのちがけの言葉が理解できなかった」自分に対して痛恨の思いを抱きます。60年安保の時代にも遭遇して、平和に対する発言をするようになりました。
5月1日の朝日新聞に、深い後悔の念を抱き、反戦平和のために自分の経験したことを人々に伝えている元憲兵の西口政一さんのお話が掲載されていました。そのお話です。
20歳で軍隊に入り、中国東北部(旧満州)で、陸軍の警察、憲兵をしていました。ソ連との国境近くでのスパイ摘発が仕事でした。中国の若者をいすに寝かせ、通訳が馬乗りになって風呂の水を鼻とロに注ぐ。うめき声が狭い兵舎に響き渡りましたよ。最初は耳について寝られませんでしたが、先輩の憲兵と逮捕・連行を繰り返しているうちに、1年半で慣れてしまいました。
竹刀で殴ったこともありました。夜寝かさず、疲労と栄養失調で苦しみながらスパイの烙印を押された若者たちは(生物兵器開発のため人体実験をしていた)731部隊に送られました。加害者としての罪を忘れられません。(中略)
最近、戦争を反省することを「自虐」とみる風潮が強くなっています。ええ加減な、戦争を知らん人が、「アジア解放」「自存自衛」ということを美名に隠れて、そういうことを平気でいうことに激しい怒りを感じます。(中略)
【説明】西口政一さんは、戦後、鈴鹿商工会議所に勤務していました。仕事に夢中になり、専務理事などの責任のある立場でもあったので、戦時体験は語りませんでした。語りたくもありませんでした。話そうと思ったのは公職から外れた5年ほど前でした。(説明以上)
経済界の品川さんが憲法について積極的に発言しているのに、背中を押されたんです。戦争は一度始めると、100年後も被害者、加害者の心に傷を残す。戦場に孫や子を行かせてはならん。語り継がねばと思ったのです。(後略)
★コメント お二人は過去を真摯に見つめて、過去の自分を反省し、平和な未来に役立とうと決意しました。
国家も同じです。戦争を行った歴史を反省し未来に向かう鑑となるのは日本国憲法です。
私はNHKの放送で岡部伊都子さんのお話を聞いたことがあり、そのお話がきっかけで、岡部伊都子さんの著書を読んだことがあります。その著書「沖縄の骨」にはNHKの放送で私が聴いた内容が書かれていました。以下はその抜粋です。
……1943年2月、見習い士官となって別れを告げに来られた。(中略)
初めてわが部屋へ通した木村氏は、本の並んでいる部屋を見て「いい部屋だ」と言った。そして南の窓のそばの椅子に向い合わせに坐って、居ずまいを正した。
「自分はこの戦争はまちがいだと思っている。こんな戦争で死ぬのはいやだ。天皇陛下のおん為になんか、死ぬのはいやだ」
はっきり言った。はっきりきこえた。
そして少し声を落して、「君やら国の為になら、喜んで死ぬけれども」と、そう言った。
びっくりした。生まれてはじめてきく言葉。
「天皇陛下のおん為になんか、死ぬのはいやだ」
とは、聞いたことはもちろん、読んだことも考えたこともない。しかも軍人だ。見習い士官だ。
教育は、すべては「天皇陛下のおん為に」だった。「喜んで死ね」「忠君愛国」。
幼い頃から小学校時代、そして結核になって「お役に立たなくて申しわけない」と、「非国民」でしかないうしろめたさに、おびえてもいた。
木村邦夫氏は、心をきめて、「今、この婚約者に自分の本音を言っておこう」と毅然と姿勢を正されたのではなかったか。こういう言葉が、誰かから他に洩らされたら、どんな罪に落されるか、わからない時代である。うっかり誰にも言えない本音だった。
親にも、兄弟にも、友人にも、町の人にも……、私は、他の誰にも言えない本音を、はっきり話してもらったのに、その意味が、肝心の私には、わからなかった。私は兄の戦死を名誉とし、婚約者のいのちがけの言葉が理解できなかった。
「私なら、喜んで死ぬけど」と答えたのだ。(後略)
戦後になり岡部伊都子さんは、日本の伝統美を追求した随筆を書くようになります。そして「婚約者のいのちがけの言葉が理解できなかった」自分に対して痛恨の思いを抱きます。60年安保の時代にも遭遇して、平和に対する発言をするようになりました。
5月1日の朝日新聞に、深い後悔の念を抱き、反戦平和のために自分の経験したことを人々に伝えている元憲兵の西口政一さんのお話が掲載されていました。そのお話です。
20歳で軍隊に入り、中国東北部(旧満州)で、陸軍の警察、憲兵をしていました。ソ連との国境近くでのスパイ摘発が仕事でした。中国の若者をいすに寝かせ、通訳が馬乗りになって風呂の水を鼻とロに注ぐ。うめき声が狭い兵舎に響き渡りましたよ。最初は耳について寝られませんでしたが、先輩の憲兵と逮捕・連行を繰り返しているうちに、1年半で慣れてしまいました。
竹刀で殴ったこともありました。夜寝かさず、疲労と栄養失調で苦しみながらスパイの烙印を押された若者たちは(生物兵器開発のため人体実験をしていた)731部隊に送られました。加害者としての罪を忘れられません。(中略)
最近、戦争を反省することを「自虐」とみる風潮が強くなっています。ええ加減な、戦争を知らん人が、「アジア解放」「自存自衛」ということを美名に隠れて、そういうことを平気でいうことに激しい怒りを感じます。(中略)
【説明】西口政一さんは、戦後、鈴鹿商工会議所に勤務していました。仕事に夢中になり、専務理事などの責任のある立場でもあったので、戦時体験は語りませんでした。語りたくもありませんでした。話そうと思ったのは公職から外れた5年ほど前でした。(説明以上)
経済界の品川さんが憲法について積極的に発言しているのに、背中を押されたんです。戦争は一度始めると、100年後も被害者、加害者の心に傷を残す。戦場に孫や子を行かせてはならん。語り継がねばと思ったのです。(後略)
★コメント お二人は過去を真摯に見つめて、過去の自分を反省し、平和な未来に役立とうと決意しました。
国家も同じです。戦争を行った歴史を反省し未来に向かう鑑となるのは日本国憲法です。