いせ九条の会

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テロとの戦いに「加われるのは、ともに血を流す覚悟をした国だけだ」/山崎孝

2008-02-24 | ご投稿
海上自衛隊による給油活動を再開したことについて、元海上幕僚長・古庄 幸一氏が2月24日付朝日新聞で次のように語っています。

中断から4カ月足らずで「テロとの戦い」に復帰し、海上自衛隊による給油活動を再開できてよかった。1月に新たな根拠法となる補給支援特別措置法が成立した後、多くの国から歓迎の言葉が寄せられ、日本の決断は国際的にも高く評価されている。参院の与野党逆転という政治状況にもかかわらず、早期の再開にこぎつけられたのは、多くの議員が、日本が担うべき役割や国益を重く受け止めたからであろう。

私は国益とは、「情報の共有」と「危機管理」であると考える。

対テロ戦に加わる各国は米フロリダ州タンパの米中央軍司令部に連絡幹部を派遣し、活動地域の脅威情報やテロ組織の情報を交換している。加われるのは、ともに血を流す覚悟をした国だけだ。日本が中東との貿易路にあたる海域の安全情報にアクセスできることが、どれほど重要な意味を持つかは自明だろう。

昨年10月には東アフリカのソマリア沖で、日本企業が所有するケミカルタンカーが海賊に乗っ取られた。近くにいた米海軍の艦艇が後を追ってくれたが、日本が対テロ戦やイラクでの活動から脱落したら、各国は日本を仲間として遇し、積極的に危機に対処してくれるだろうか。

私は03年1月に海上幕僚長になり、最初の海外出張で給油活動に携わる海自の艦艇を訪ねた。部下の隊員たちに直接、「活動は米英の支援ではなく、日本の国益のためだ」と伝えたかったからだ。活動に反対する人は、明確な成果が出ていないというが、他国から信頼されて得られる国益こそが、最大の成果だ。

しかし、今回の給油再開を手放しで喜ぶ気にはなれない。わが国や自衛隊の実力を考えれば、各国海軍と同じように、前線でのテロ阻止活動そのものに参加すべきではないか、との思いがあるからだ。日本はすでに91年、湾岸戦争後のペルシャ湾に掃海艇を派遣し、前線での活動を経験している。集団的自衛権の問題や武器使用基準といったハードルはあるが、政治が決断すれば超えられるはずだ。

本来ならば、給油の中断をチャンスととらえ、国会でこうした議論を深めてほしいと各国の信頼高め国益に寄与願っていた。ところが、米軍に提供した給油量の取り違えやイラク戦への転用疑惑などで、審議の混乱を招いてしまった。私は承知していなかったのだが、どちらも海幕長に在任中のことであり、監督責任を感じている。

燃料の転用問題では新たに、相手国との交換公文に目的外使用を防ぐ文言を加え、給油柏手の行動予定を聞き取って記録に残すといった防止策が講じられた。互いの信頼を基礎とする外交関係では、相当に踏み込んだ対策だ。不十分との批判もあるが、それでは同盟や友好関係が成り立たなくなってしまう。補給支援持措法は来年1月に期限が切れる。昨年の混乱を繰り返すまいと、与党内では自衛隊の海外派遣を随時可能にする一般法を制定しようという機運が高まっている。

せっかく議論するのなら給油に限らず、海洋テロや海賊の阻止、大量破壊兵器の拡散防止など、多様化する活動を視野に入れ、少なくとも有事でなく平時の共同訓練や地域の安全確保に向けた活動では、他国と同じ行動が取れるように、法律や環境面の整備を進めてほしい。(聞き手・林恒樹)

古庄幸一氏は《日本企業が所有するケミカルタンカーが海賊に乗っ取られた。近くにいた米海軍の艦艇が後を追ってくれたが、日本が対テロ戦やイラクでの活動から脱落したら、各国は日本を仲間として遇し、積極的に危機に対処してくれるだろうか。》と述べていますが、海賊事件は海難事件と同じ性格を持ち、各国が救助・援助しあうのが原則です。ですから、アジア通貨危機を背景にして海賊行為が頻発した時に、日本はマラッカ海峡に面する国に性能のよい巡視艇を供与しています。

古庄幸一氏は《国益とは、「情報の共有」と「危機管理」》と述べています。しかし、新テロ対策特別措置法に基づく海上自衛隊のインド洋での給油活動について、日本政府が要求した使途の検証の明文化を米政府が拒み、給油に関する取り決め文書である日米の交換公文に盛り込まれていません。米側は「作戦行動に影響を及ぼし、現場の負担になる。決して受け入れられない」という態度です、燃料の使途限定が有名無実になるとの懸念があります。一番の供与国であり、一つの艦船団がイラクやアフガンの複数の軍事作戦を行なっている米軍とは完全な形の情報の共有化は図られていません。

古庄幸一氏は《集団的自衛権の問題や武器使用基準といったハードルはあるが、政治が決断すれば超えられるはずだ。》と述べています。これは憲法という最高法規を規範にして守り国家を経営する立場を放棄してもよいとも受け取れます。