いせ九条の会

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ひめゆりの少女たちから思うこと/山崎孝

2007-05-10 | ご投稿
別れは悲しみの場合だけでなく、新たな人生への旅立つ喜びを秘めている場合もあり、人と人との別れのシーンは様々です。その新たな旅立ちで「友よ、再び逢わん」と誓い合うはずなのに、多くの人が永久の別れになってしまったシーンを描き、その後、生き残った人たちの証言を記録した映画に触れた文章が5月10日の「天声人語」にありました。以下、紹介します。

歌われなかったことで、永遠の生命が与えられた歌がある。1945年春、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女の卒業式のために準備された「別れの曲だ▼〈業なりて巣立つよろこび/いや深きなげきぞこもる/いざさらばいとしの友よ/何時の日か再び逢わん〉。式直前、3割の生徒が看護要員として前線に送られる。夜の兵舎での卒業式では、練習を重ねたこの曲ではなく、出征兵士を送る「海ゆかば」が斉唱された。3日後、米兵18万人の本島上陸が始まる▼戦場動員された「ひめゆり学徒」222人は15~19歳だった。戦闘や捕虜を拒んだ自決により123人が死亡した。生存者の証言を収めた映画「ひめゆり」が、近く東京で公開される▼柴田昌平監督は13年をかけて、22人の肉声を集めた。亜熱帯のまぶしい景色の中で、時に淡々と、時に絞り出すように、すさまじい体験談が延々と続く。試写室の闇に、重いため息がこぼれた▼ひめゆり平和祈念資料館に並ぶ遺影に向かい、那峨郁手さん。「ここに来ると、同級生は今も16歳の顔でほほ笑んでいます。孫と同じ年です。私があの世に行く時は、友達が味わえなかった平和な時代のお許を、いっぱいお土産にしたい」▼「別れの曲」は毎年の慰霊祭で歌い継がれているが、証言者のうち3人が映画を待たずに亡くなった。忘れたくて、一度は砕き捨てた記憶かと思う。その破片をカメラの前でつなぎ合わせてくれた元ひめゆりたち。かけがえのない「記憶の束」を両手で抱え、次世代に運び届けたい。(以上)

かつて日本は悪いことをした覚えがないという人たちが多く現在の政権内に入り込んでいます。軍部は中国の占領地で謀略まで行い戦争を拡大させ、戦争の終局には沖縄に米軍が上陸されてしまう状況を招いた。その状況の中で「虜囚の辱めを受けてはならないと」する軍人勅諭の教育を受けた少女たちは、追い詰められて集団自決の道を選ばざるをえなかった。

このような軍部に大きな責任がある史実を直視せず、沖縄戦のほんの居部的な事柄を口実にして、沖縄戦集団自決には軍部の責任がなかったとする文科省の教科書検定が行なれた。

軍部に責任がなかったとする人たちが、アジアの国に大被害を与えた意味合いを持った、国際紛争を武力で解決しない、海外で武力行使をしないとした憲法を変えようとしています。

改憲の立場を取る日本人には、軍部に責任は無い人たちが主導してきた危険性を認識せず、現行憲法の理念でカバーできる問題に関する「新しい権利」を書き込むためとか、本来、法的には無意味な事柄である自衛隊を明記するためにとか、極めてムード的な気持ちで、改憲の潮流に乗る危険性を認識して欲しいと思います。

《かけがえのない「記憶の束」を次世代に届ける》ためには、改憲せず、決然として戦争と決別した日本でなければ、映画のような立場では届けることは出来ません。愛国心教育が国民に浸透した場合は、戦死者を尊崇とする靖国思想が蔓延して、ひめゆりの少女たちは、虚飾が施され、けなげにも滅私奉公した姿の一つとして伝えられる可能性はあります。