いせ九条の会

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国家というフィルターを通すことはなく/山崎孝

2006-02-15 | ご投稿
私は2月13日に「単騎、千里を走る」を観ました。張芸謀(チャン・イーモウ)の監督作品です。私は張芸謀の作品は「紅いコーリャン」「黄色い大地」「秋菊の物語」「あの子を探して」などを観ていて注目 している監督です。これらは中国の歴史的に培われた社会習慣を持ち続ける人の生き様を描いています。

「単騎、千里を走る」のあらすじ

 ( )内は俳優の名前です。素人を起用しているため配役名と俳優名が同じです。かなり長い文章ですが我慢してお読みください。

息子の命が残りわずかだと知った時、男は初めて、息子に近づきたいと思った。疎遠になっていた息子ともう一度やり直したいと強く思った。最後の希望は、この胸の中にあった。

日本 の北東部沿岸の静かな漁村に暮らす高田剛一(高倉健)は、久し振りに新幹線に乗りこみ東京へと向かう。嫁の理恵(寺島しのぶ)から、高田の息子、健一(中井貴一‥声の出演)が病院に入院したという連絡を受けたのだった。末期癌であった。

しかし、理恵から高田が見舞いに来てくれたという知らせを受けた健一は、父との面会を拒む。高田と健一は長年にわたる確執が未だ解けずにいるのだった。打ちひしがれ、そっと病院を抜け出す高田に、理恵はこれを見て欲しいと一本 のビデオテープを手渡す。理恵は、高田がビデオを見てくれれば健一のことをもっと知ってもらえるのでは、と願っていた。ビデオを再生した高田は、息子が千年以上にも遡る、中国の宗教的儀式にまつわる演劇形態の研究をしていたことを知る。

有名な俳優リー・ジャーミン(リー・ジャーミン)の舞踊を見るために、はるばる中国南部、雲南省まで向かった健一だったが、体調を崩していて歌を披露することが出来ず、翌年健一が再び雲南省を訪れた。「三国志」の英雄関羽にまつわる仮面劇「単騎、千里を走る」を披露すると約束していたのだ。だが、病を患う健一はもうその約束を果たす事が出来ない。末期癌であった。

高田は、自らの心の奥底から湧きあがる想いを止めることが出来なかった。いまの自分に出来ること、それは健一の約束を自分が代わりに果たすことだった。高田は理恵に内緒で、息子のやり残した仕事を成し遂げるため、リーの舞踊をビデオ撮影しようと、単身中国の麗江市へ旅立った。

通訳を務めるチユー・リン(チユー・リン)は日本 語がおぼ つかない。チユー・リンの元に案内してきた旅行者の通訳と携帯電話で助けてもらって話をする始末であった。遅々として進まぬ状況に苛立ちを隠しきれない高田。当のリーは人といさかいを起こし傷つけたために刑務所に入っていた。撮影を願い出ると、刑務所の役人は前例が無いとか、上司の許可がおりない、一度例外として外国人に刑務所内の撮影を許したが、反中国の材料に使用されてしまったからだめだといって断られる。高田は諦めきれず自らの心情をさらけ出し無骨な顔に涙を浮かべて訴える姿をビデオに撮影して役人に訴えた。このビデオを上司と共に観た役人は心を動かし撮影の許可を与えた。ところが撮影を始めると、高田の子を思う父親の姿にリーは生き別れになった息子ヤン・ヤン(ヤン・ジエンボ ⊥のことを想い「単騎、千里を走る」を舞うことが出来なかった。リーは息子に一目 会いたいとその場で泣き崩れる。高田はヤン・ヤンを迎えに行くことを決意した。何としてもリー・ジャーミンの舞う「単騎、千里を走る」を撮影するために、高田は中国の奥地へと向かう長旅の中で多くの人に出会うことになる。中国の特異性をあれやこれやと説明してくれる善意の通訳、物事の道理を説く村長、そして父親との再会を拒む少年ヤン・ヤン。人々の純朴な心情に触れ、自らの深い孤独感が徐々に和らいでいくことに気付き始める高田。一方、高田の誠実な想いも人々の心を動かしていく。

旅先で高田が見つけたもの、それは″人の優しさ″だった。遠い昔に失ってしまった家族の意味を、高田は少しずつ取り戻していく。映画のラストはリーの子どもを連れてこれはしなかったが、撮っていた子どものデジタル写真を刑務所のテレビでリーと服役者に見せた。リーも服役者も家族を想い涙を流した。リーは「単騎、千里を走る」見事に舞った。

感想を述べます。

ある人は、向かい合う外国人に対して、人間集団として時には対立関係になる国家と国家というフィルターを通じてその人を見てはならないといいます。

また、逆のような発想で見るときもあります。過去に自国のその国に行なった行為を省みて、人間として持つ贖罪の気持ちに駆られてその国の人と交わることもあります。この例として中国の砂漠化した土地に何年も営々として植林を行なう日本 人や先に紹介した「天の半分を支える会」の人たちがおります。

「単騎、千里を走る」に登場する中国人たちは、過去の日本 の行為は問わず、同じ心を持つ人間として高田に共感をよせてゆきます。チユー・リンはリーの子どもを高田が探す決意をした翌日に高田から受け取っていた通訳代を高田に返し、高田に同行します。高田の心を理解した刑務所の役人も官僚的態度を捨てます。旅行者の通訳も高田が困難に陥った時は何度も夜中にもかかわらず助けています。リーの子どもの面倒を見ている村長始め村人は高田の切ない親心とリーの子どもを捜 す行為に共感を寄せています。私はこの映画を観て改めて、何処の国の人も同じ心根を持っていると思いました。

しかし、日本 の政権党の政治家、一部学者・評論家そしてその言説に同調する人たちは、脅威だとする人間集団、利害が対立する人間集団という国家のフィルター通じて中国を見るように煽っている気配が濃厚です。国民はこれに乗せられてはならないと思います。

私がこの映画を観てもう一つ強く感じたことは、広大で峻険な雲南省や中国のとてつもない広さを見て、どうして過去の日本 はこの国をどのような根拠で支配できると思ったのかということでした。まるで小人が巨人を支配するようなことだと思いました。やはり日本 は中国が広大な国土を利用した柔軟な持久戦に負けたのでした。