函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

軍師官兵衛、衆道関係だったのかも??

2014-11-18 | Weblog

おねVS淀、家康VS三成、三成にとって豊臣家に忠誠心の強い前田利家を

味方につけ何とか均衡を保っているうちは良かったのですが、利家が亡くな

ると一触即発状態

雌雄を決するしか道は無さそうです

 

「太平の世が続くのなら誰でも良い、もっとも相応しい人が天下人となれば良

い」と官兵衛を見つめ諭すように話すおね

まるで官兵衛に天下を取って欲しいと言っているようなもの

おそらく実際のおねも同じ様な思いだったのではないのでしょうか??

秀吉と共に作り上げた豊臣家、淀や三成をはじめとする官僚達に牛耳られ自

分の居る場所も無かった筈です

自分達の代で豊臣家が滅んでも仕方ないと思っても不思議ありません

 

世の中を動かしていたのは間違いなく武力を背景にした武士です

その頂点にいたのは誰の目から見ても徳川家康だった筈。

もし、秀吉が官兵衛に50万石くらいでも与えていれば関ヶ原の戦いは黒田VS

徳川の戦いになっていた可能性が大きいと僕は思っています

加藤・福島をはじめとする豊臣恩顧の大名達が徳川方につく可能性はかなり低

く官兵衛の圧勝となった筈です

勿論、家康も官兵衛相手だと迂闊に戦いを仕掛けない可能性が高そうです。

そう考えると、家康の代で徳川家が天下を握ることは出来なかったでしょうね

官兵衛が勝てば大老筆頭として君臨し少なくとも秀頼の代で豊臣家が滅亡する

事はなかったかも知れません

それこそ浪速の事は夢のまた夢ですね 

 

「三成にも徳川にもつかぬ」と宣言する如水、回りくどい言い方ですが、天下を狙

うと家臣達に宣言

いよいよ12万石の小大名・黒田如水の天下取りの始まりです

結果的に実現しない夢ですが、どういう描き方をするのかワクワクしている僕なの

です

 

ところで

戦国時代までは男子と男子が関係を持つ事は別に不思議な事ではありません

現代でいうホモとかゲイですが、当時は衆道とか若衆道と言われていました。

織田信長と前田利家にも衆道関係にあったという説が??

利家は小顔で身長は180センチ以上、当時としてはかなり目立った存在だったと言

われていますが、そんな利家を面食いの信長が見過ごす筈がありません

寵童として早くから信長に仕えたのはそんな理由からだったのかも知れませんね

もう一組

大谷吉継と石田三成にも衆道関係の噂が

秀吉が「吉継に100万の軍勢を指揮させてみたい」と言ったくらい武人としての才能

に満ち溢れていた吉継と官僚としての才を発揮した三成のカップル。

吉継が家康打倒の決意を三成から聞いた時、「家康には勝てぬ」即座に忠告したと

言われていますね

三度説得したと言われていますが、三成の決意の固さに翻意するのを諦め三成に

味方する事になったと言われています。

果たして、それだけの理由でしょうか?

武人として負けると分かっている戦をするほど虚しい事はありません

間違いなく負けると確信していた吉継ですが、衆道相手の三成を見捨てる事が出来

なかったのではないでしょうか??

愛の力は強いのです

あくまでもそういう説もあると言う事で…

歴史を動かしていたのは意外や意外、男と男の友情ではなく狂おしい程の愛情だっ

たのかも知れませんね

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする