倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

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第13章 中原王朝に倣った倭国支配層の儀礼

2012-11-07 10:26:27 | 第13章 中原王朝に倣った倭国支配層の儀礼
 信仰的精神性と幾何学文様、熱帯ジャポニカと土器文化、海流がつくる渡海ルート、銅鐸祭祀の起源、文身に象徴される習俗、横穴墓や封土の墳丘墓から、舟形木棺、人骨のDNA分析結果などなど、すべてが長江流域文化に集約するのをみてきた。ところが、倭国王家から天皇家へと脈絡する支配層の祭政手法(信仰的儀礼)は、これまでに見てきた「伏義・女媧信仰」とは明らかに異なる。これはまた、どうしたというのだろうか。

 中国の天子は、天に選ばれて天下を治める存在である。ここでいう天とは天帝で、北斗の星を指す。天子は、これを至上の神とする。天子を象徴する龍信仰は、遼河上流域に誕生した遼河文明が源流とされる。この文明は太陽神も崇めているが、日本とは違って男性神である。また、鳥信仰もあったようだが、鷲などの猛禽である。三本足カラスの信仰は三星堆文化にも見られるもので、朝には東から太陽を迎え、夕には西へ太陽を送って行く。このカラスは太陽信仰とセットになったものである。
 一方の長江流域では、鳥は稲を運んできたとも伝えられるし、水鳥だったりニワトリだったりする。(鳥が空を飛ぶ原理を知らない原始時代において、翔くだけで空を飛ぶ鳥に不思議な力を感じたことは容易に推察できる)。むろん、長江流域では基本的に龍信仰ではなく蛇信仰である。このように、中国ではさまざまな民族の文明と信仰が複合しているので、一元的には語れないものがある。

 わが国の天皇を頂点とした支配層の信仰的精神性にも、やはり同様の複雑なものがある。これまで、縄文期から継続して日本列島に伝来した人・もの・文化の圧倒的大多数が長江河口からの渡来であることを見てきた。その一方で、倭国から日本国へと脈絡する支配層は、国家づくりから祭祀儀礼に至るまでを中原王朝に倣ってきた。とくに、古代における祭祀儀礼は国家経営そのものである。したがって、「蛮夷を治めた」という楚王家・呉王家・越王家がそうだったように、倭国の国家経営の根幹をなす祭祀儀礼は、中原王朝の儀礼をそのままとり入れてきたのである。
 それはたぶん、古代における国家体制や国家経営手法としては、中原王朝の体制は完成されたものであったし、王朝としての威厳や格式を構築し体裁を整えるためにも、これにに倣うのが最も合理的だったのだろう。その中国においては、古来の信仰儀礼とさまざまな民族の信仰儀礼とがあって、さらに、後漢末期の中国で盛んになった天師道(初期道教)の要素が複合する。これらがそのまま日本列島にやってくるわけである。
 そこでまずは、倭国支配層が歴代にわたって中原王朝の文化・文物、制度、儀礼に倣ってきた事実を具体的に確認する。

●北斗七星、3本足カラス、ヒキガエル、四神
 中国天子の正装は、袞(こん)という礼服に冕(べん)という玉すだれのついた冠をかぶり、二重底の沓をはく。冕旒(べんりゅう=玉すだれの数)は、天子は12旒、諸侯は9旒、大夫が7旒~5旒と決まっている。そもそもは、始皇帝が皇帝と臣下に関する正装儀礼をまとめて、これが漢の時代に完成したものだといわれている。こうした礼服を総称して袞竜衣(こんりようい)、袞冕(こんべん)の服という。


 ※孝明天皇の袞竜衣(Wikimedia PD)


 ※左は劉備、右は孫権の肖像画(Wikimedia PD)
両肩の丸紋の柄ははっきりとは見えないが、三足烏とヒキガエルがあしらってあると思われる。

 日本の天皇家でも正装には袞冕の服が使用されてきた。
 聖武天皇の肖像画をみると、赤地の服の両袖に竜の刺繍をつけた袞竜衣を身につけ、頭には冕を被っている。(なぜか10旒だが、失礼ながら画家の考証不足なのかも知れない)。
 袞竜衣の左肩には日輪の中に3本足のカラス、右肩には月輪の中にウサギとヒキガエル。両袖には龍が金糸で配されている。(前足の片方だけが4本爪で他の足は3本爪)。
 称徳天皇や孝明天皇の袞竜衣も残っている。さらには、 明治天皇の即位礼に使用された袞竜衣もまったく同じで、3本足のカラス、ヒキガエル、龍、北斗の星と四神が描かれている。明治天皇の即位式図屏風にも、日輪の中に3本足のカラスを描いた日像幢(のぼり)と、月輪の中にカエルを描いた月像幢が見える。由緒ある神社にも、祭礼の際にはこの日像幢と月像幢が飾られる。


●『日本書紀』の記録
 先にも述べた通り、天皇の即位にあたって法統(皇位継承・王権神授)の証しとしての印璽や璽を授受したり、天皇が将軍を任命する時に印綬や鉞(えつ=まさかり)を授けたりしている。位階に応じた印綬を授けるのも、軍事指揮権に併せて鉞を授けるのも中国のシステム制度そのものである。鉞については、『日本書紀』継体天皇紀に象徴的な記録がある。
 
 継体天皇が、謀反を起こした筑紫の君磐井の討伐を物部麁鹿火(もののべのあらかい)に命じるとき、鉞(えつ=まさかり)を手にとって麁鹿火に授けていった。
「 長門以東は朕が制す。筑紫以西は汝が制し、賞罰も専行して煩頻に奏すなかれ」。
 (長門より東は私が制する。筑紫より西はお前が制し、賞罰も独断で行ない、私にいちいち諮問しなくてもよい)。
 古代国家において鉞がもつ意味と機能を細かく紹介する。
①賞罰の「賞」 とは、軍功者の報奨・昇進。
 この一文によれば、天皇の許可なくこれを独断で行なう専断権を授けたことを意味する。
②賞罰の「罰」とは、命令に従わない者・軍規違反者を処罰すること。
 その権限の印しが鉞(まさかり)である。鉞を授けたことは部下の生殺与奪の権限と、全軍に対する絶対的命令権を授けたことを意味する。一旦戦うことを命じられた者が生き残る道は、戦って勝つしかないわけである。
③「長門以東は朕が制す、筑紫以西は汝が制し」は、戦地となる筑紫以西に関する全権を委譲すること。
 「制する」は「統制する」という意味で、統治するという意味ではない。
④「煩頻に奏すなかれ」は、「私に相談したり許可を得ることなく独断でやってよい」という意味。
 戦場にあっては、「将軍は天子の命令をも退ける」というほどの極限状況にある。九州の戦地から大和にいる天皇のところへ、いちいち指示や許可を仰ぐ暇などないわけで、これは至極当然の措置である。
 この一連の文言の意図するところは、物部麁鹿火に心おきなく軍務(磐井の討伐)を遂行させるための方策である。こうした権限の授与も中国の軍事システムに倣ったものである。


※殷代の銅鉞 (写真提供:中国古美術 太田)

 鉞の授受のほかにも、新嘗祭用の稲を天皇自ら手植えする籍田(せきでん)の儀を行なう。土の下から出る馬型埴輪は、申し合わせたかのように中国式の鞍と鐙(あぶみ)をつけている。(騎馬民族は裸馬に鐙なしで乗った)。むろん、武器を代表する刀も中国渡りの直刀ばかりである。
 このように、日本列島に国家というものが誕生して以来、古代王家・王国の人びとは一貫して、中原の中央集権国家体勢とその文物文化・精神文化に倣ってきたのである。ある人の言によれば、「単なる模倣ではなく本物がきている」という。いまだに、渡来人による倭国征服政権説を標榜する向きもあるようだが、仮にも、弥生以降の倭国政権が渡来人によるものだとすれば、その渡来人とは、間違いなく中国大陸南方からの渡来人だと断言できる。



●『三国志』東夷伝の予言
 実は、3世紀前半に倭国と倭人に関する目撃証言を書いた『三国志』東夷伝が、驚くべき予言を書き残している。
 「(魏の高句麗追討軍)は、烏丸、骨都を超えて沃沮を通り、(日本海沿岸の)粛慎の地に踏み込んで陸の尽きるところを極め、はじめて東方の大海(日本海)を臨む地に到った。その地の古老の話によれば、「さらに東方の太陽が昇る付近に、顔つきの異なる人種がいる」という。かくして、そのあたりを訪れて観察して回るところとなり、それぞれの国名や法(きま)りごと、階級制度、習俗などが詳細に記録されることになった」。
 「これらは夷狄(いてき)の邦(くに)といえど、俎豆(そとう)の象(かたち)が存在する。中国に礼が失われたとき、四夷にそれを求めることもあるをなお信ず。それゆえ、これらの国々の特徴や相違点などを順を追って列挙し、従来の史書に欠けていた部分を補おうとするものである」。(ちくま学芸文庫『正史三国志』)

 ここでいう「俎豆の象」とは、天子が天地神をまつる祭祀儀礼様式を指す。このことは実に、3世紀に訪れた中国人たちが見た倭国は、中国天子に準じた天地神を祀る神事儀礼様式と、これに基づく統治体制で経営されていたことを告げている。古代における祭祀は政治でもある。倭国支配層は、国家経営の手法上、中国天子の天地神を祀る儀礼様式と、これに付随する事物を信仰対象としてきたのである。
 大和における中央集権的統一国家体制も、ある時期に突然生まれたわけではない。右上がり傾斜の緩やかな時代の成熟過程の中にあって、3世紀にはその雛形(中央集権的統一国家体制の基盤)がすでに見えているのである。実に驚くべき証言である。

 遥か5000年ほど前に中国において生まれた、聖人君子(聖天子)を頂点とした制度の理想的原型と祭祀儀礼とを、21世紀の現在まで残しているのは世界中を探してもわが日本しかない。まさに、「中国に礼が失われたとき四夷にそれを求めることがあるかも知れない」といった東夷伝序文の予言通りとなっている。
 中国・中原といえど、九黎族(三苗族)といわれた稲作民族の複合集団による支配にはじまり、漢族を中心とした多民族複合集団の支配へと代わった。その後も色々な民族が入れ替わり立ち代わり中原の支配者となったが、中国という国は常に多民族複合集団によって構成されてきたのである。
 縄文期から弥生期へと続く倭国の民衆もまた多様な民族の集合体である。その民衆は、呉王や越王につき従った南蛮や荊蛮の民同様に、自分たちのリーダーにつき従ってきた。これをとりまとめてできた国家が倭国・日本国である。私は、古代の日本列島においては大陸における多民族構成の縮図を形づくっていたと考えているが、さらにストレートにいえば、あらゆる面で相似形をなしてきたとさえいえる。


●支配層に残った民族的習俗 
 長江流域と日本列島との関係については、アマチュアから専門家に至るまで、これまでにもさまざまな角度から指摘されてきた。確かに、私たち日本人と長江流域少数民族との生活習慣や文化の共通点は少なくない。
 ここであらためて述べるまでもないが、高床式住居と倉庫、その屋根には千木。建物の破風に火難よけの懸魚(けんぎょ)を下げる。鳥居がある。男子は「まげ」を結う。棚田をつくる。田下駄を使う。餠をつくる、揚げ餅をつくる、蕎麦をつくる、納豆をつくる、麹で酒を造る、鵜飼いを行なう。味噌・醤油をつくる、豆腐をつくる。漆を使う……。これらのすべてが長江流域に起源するとは限らないが、挙げればきりがないほどである。


●決定的な習俗
 長江流域少数民族との共通点でいえば、歯を黒く染める習俗がある。これは百越と呼ばれた人たちや、南蛮・荊蛮と呼ばれた人たちに共通の習俗だった。むろん、苗族のほかにも歯を黒く染める少数民族が現在も存在する。現代でもお歯黒が見られる少数民族は、ミャオ族、ラフ族、ヤオ族、ハニ族、リス族などである。
 この習俗が、日本にも古くから存在した。「お歯黒」といわれるものだが、これは別格の習俗といえる。というのも、いわゆる庶民だけの文化習俗ではなく、皇族・貴族から朝廷人の習俗だったからである。(一説によると聖徳太子もお歯黒をしてたといわれる)。 また、応神天皇が詠んだ女性のお歯黒の美しさを称える歌を『古事記』が載せている。
 古代倭国支配層は、中国天子の天地神を祀る儀礼様式とこれに付随する作法や文物を取り入れてきたが、どうしても捨てきれない習俗もあったようである。ということは、支配層の人にとって「慣れ親しんで久しい習俗」、すなわち民族的習俗とみるのが妥当なところだろう。
 ※一説によると、ある天皇の歯が虫歯で黒かったために、天皇に余計な気を使わせないよう、皇族・貴族や側近の者たちがみな歯を黒くしたのが始まりとされる。だが、そうした一時的な現象が江戸末期(明治初期)まで連綿と続くとは考えられないから、ただのつくり話だろう。
お歯黒には虫歯を防ぐ効果があったとされることから、長江流域で発祥して民族的習俗となったものが、そのまま民族移動とともに日本列島にもたらされたものと思われる。

 現在のところ、黥面や渦巻き文様を施した縄文土偶は数多く発見されている。だが、お歯黒の形跡が確認できるのは古墳時代の人骨と埴輪といわれる。果たして今後、弥生時代のお歯黒の証拠が出るか否か。もしも出なければ、日本列島に突如として古墳時代をもたらしたのは、長江河口域からやってきた「文字をもたず・黥面文身とお歯黒を習俗とする民族」だったとの論理に帰結する。ここで冗談をいわせていただけば、「騎馬民族制服王朝説」ならぬ、「黒歯民族王朝樹立説」になり兼ねない。 


※お歯黒をした雛人形「親王飾り」(写真提供:株式会社十二段屋)

 お歯黒に関する検証課題はもう1点ある。
 『三国志』倭人伝は、倭人の文身の習俗などに触れているが、倭人が歯を黒く染めているとは書いていない。そうして、女王国の東南の彼方に裸国と黒歯国があると書いている。果たして、3世紀に中国人がやってきたとき倭人は白い歯をしていたのだろうか。
私はそうではなかろうと思っている。
 というのも、先に触れたように倭人伝は倭人の文身のルーツを呉にあるとはしたくなかったらしく、意図的に越だけについて触れていた。そこへ「倭人はお歯黒をしている」と書けば、「歯を黒く染めるのは大呉の習俗である」というわけで、中国の知識人には分かってしまう。そうしたことから、倭人のお歯黒について書くのを控えたのではないかと推測している。(このあたりは資料に乏しい推測になるので断定するのは控える)。

 「倭人の古い伝承によると、自分たちは太伯の末裔だという」。 
 これは、第6章で紹介した『魏略』の一文である。呉の太伯の逸話は殷末期のできごとで、『史記』が特筆するほどに有名な実話なである。中国を訪れた倭人の使者たちは、その呉の太伯の末裔だと伝えたようである。
 ここでよくよくお考えいただきたい。遥か1800年も前に、文字を持たないはずの倭人が『史記』を読んでこの逸話を知った可能性は皆無だろう。かといって、倭人の中に本当に太伯の子孫がいたとも考えにくい。それでは、なぜ倭人は「太伯の末裔」だと自称したのだろうか。おそらく呉地域では、(周王朝を興した武王の大叔父にあたり)呉の開祖たる太伯を民族の誇りとし、あるいはアイデンティティとしており、これが殷末以来長く伝承されてきたのだろう。そうした伝承を持った人たちが日本列島にやってきて、支配層を含む倭人の主流を構成していたことを物語るものと私はみている。 


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