倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

第7章 長江河口からきた人びと

2012-11-07 10:28:51 | 第4章 長江河口からきた人びと
 私たち日本人は、その風貌から生活習慣・生活様式・精神性に至るまで、東アジア諸国はむろん、長江流域の少数民族との共通点を持ち合わせている。これらの諸民族の文化が長江河口から日本列島にやってきた可能性について、古賀登氏は次のように述べている。

 「長江を下って東シナ海に出れば、偏西風と黒潮に乗ることができる。黒潮の流速は、本州南方で最も速く3~5ノットに達し、この流れに乗れば容易に日本に到達する。舟山列島を春から夏に出た船は、南西風と対馬海流に乗って五島列島につく」。
 (春から夏には「南西風と黒潮に乗る」、秋から冬の間は「寒流と西北風に乗る」という条件が揃えば、長江河口から日本列島にやってくることができたというわけである)。
 「昭和19年3月、ジャンクで日本に帰った山手元枝氏の経験によると、20日夜半、舟山島を櫓で漕ぎ出したジャンクが、舟山島沖合で潮に乗ると同時に帆をあげると、一路、東に向かって走り出し、翌日昼ごろ五島列島を横切り、日暮れに唐津港に投錨したという。わずか20時間ほどで東シナ海を横断できる。秋から冬の間に出た船は、舟山群島沖を南下する寒流と西北風によって黒潮に乗り、九州南端の野間岬とか紀州南端の潮岬などにつく」。 (『四川と長江文明』古賀登・東方書店)
 (山手元枝氏の経験談は現代のジャンクだから帆がついていたのだろう。古代人たちが、これと同じく東シナ海を20時間で渡ったというのではない)。



 たしかに、長江河口の沿岸漁民は今でも「沖に出て黒潮に乗れば簡単に九州に行ける」「漂流すると必ず日本に流される」。という。そのルートでやってくれば、潮流の関係で有明海や五島列島あたりに到着する。現在でも、ごく稀に長江河口の漁民が漂着することがある。遠い昔のこと、長江流域の諸民族のDNA記憶を持った人たちが、長江河口を経て九州にやってきただろうことは、もはや否定できない事実である。

 従来は、地理的・距離的な至近関係にとらわれた「朝鮮半島渡来説」が主役を努めた。朝鮮半島からの渡来も皆無ではないが、渡来開始年代、渡来の絶対数、伝播領域の広さにおいて長江流域とは比較にならない。その主因としては、韓人は本質的には海洋民ではないことや、朝鮮半島から九州への渡海が困難だったことがあげられる。事実、韓人が海を渡って出かけたという記録は、少なくとも3世紀までに成立した公式文献には見当たらない。
 一方、長江河口から九州への渡海は独木舟(丸木舟)の時代から可能だったし、長江河口の漁労民族の造船技術と航海技術は他に比べて進んでいた。戦国時代の呉越両国には、数10人乗りの櫂つき船が登場する。それらが、稲吉角田遺跡出土の土器に描かれているように、弥生時代中期には日本列島にやってきていたのである。

 左の図がそれで、描かれている船の絵は弥生時代中期後半のものである。紀元前後の遺跡から出土したということは、それ以前から存在したことを物語る。このゴンドラ型は明らかに外洋船で、造船技術と操船技術の発達した呉越の影響がうかがえる。羽根飾りをつけた人物が乗っているようだから、何らかの祭祀儀礼の様子だと思いがちだが、この時代の中国でみられた兜に羽根飾りをつけた兵士と私は見ている。この土器には、ほかに動物、高床式建物、高床倉庫なとが描かれている。
 右の図は天理市の東殿塚古墳(4世紀初頭築造)で出土した土器に描かれていた船の絵で、漕ぎ手が両舷合計で14~16人乗る計算になる。


●桂原古墳の線刻画 (熊本県宇城市不知火町大字長崎字白玉)
 古墳時代後期の6世紀末~7世紀初頭に築かれた直径13m・高さ約4mの円墳で、八代海に南面した白玉山の丘陵の頂にある。墳丘の南に単室の横穴式石室がある。羨道の奥にほぼ方形の石室があり、天井は巨石で覆われている。
 石室の奥壁、東壁、西壁、石棚上面、羨道の側壁に線刻文様が残っている。帆に風をはらみ航行する船、櫂や舵を持つ船などが15船隻描かれている。奥壁石棚の上の積石には、黒い同心円状の円文がある。(画像とも熊本県教育委員会の案内図より)
 この古墳は船に関する文様が多く、図のようなオールをいくつも備えた船、風を孕んだ帆と舵を備えた船のほかに、宇宙ロケットを思わせる流線型のカヌーらしきものを描いた平面図、船のそばで跳ねているイルカなどが描かれている。




●新天地を求めてきた人たち 
 ここでもう一度、「わずか20時間ほどで東シナ海を横断できた」という事実を思い返していただきたい。わが国では、稲作は朝鮮半島経由という説も根強いが、そうした悠長な時間経過などを必要とせず、長江河口から沖に出て黒潮に乗ればストレートに九州に到着できたのである。

●今回の考察と検証によれば、縄文時代の火焔土器も遮光器土偶も弥生時代の銅鐸も、長江流域の人びとが時代を隔てて伝えたものとの結論を得るに至っている。新天地を求めての出立となれば、人は必ず五穀を携えるものである。たしかに、生活文化、食文化、そして最も重要な信仰的精神性などなど、日本に息づく共通性の絶対数と影響範囲の広さからみて、縄文倭人・弥生倭人を構成した大多数は長江流域からやってきたと考えるべきだろう。

●早ければ夏殷代から、他民族に押されて長江を下った少数民族がいただろうし、その時点で海を渡った集団もいれば、長江流域を移動・一時定着・また移動といったパターンもあったことだろう。そうして、河口部の呉越地域に定着した南蛮・荊蛮といわれた民族の中で、たび重なる動乱・圧迫から逃れるために海へ乗り出した一族もいたことだろう。

●長江河口部の良渚文化は、1000年間ほど存在したあと洪水によって消滅したといわれている。おそらくは、デルタ地帯に展開した広大な耕作地が跡形もなく消えるほどの大洪水だったのだろう。この洪水を機に新天地を求めて海へ乗り出した人たちもいたことだろう。

●古代の日本列島各地には、「土蜘蛛」と呼ばれた少数社会部族がいた。その多くは河川の流域や山岳部などを根拠地としていた。ヤマト朝廷に恭順を示す者もいれば服わぬ者もいたが、基本的に言語に大きな差異があったとはみられない。私はこの土蜘蛛と呼ばれた社会部族に、現代の長江流域に住む少数民族の生き様を重ねてみている。争いを避け、漢族への同化と服属を拒み、新天地を求めた人たちの選択肢は二つ。「さらに上流の辺境へ向かうか、海を渡るか」である。穀物の種を携えて海を渡った人たちも少なくはなかったろう。それほどに、「似てはいるが少しずつ文化の異なる多彩な民族部族」が日本列島に渡ってきたと思うのである。

●長江流域の人びとが新石器時代から日本列島にやってきて、先住の縄文人と融和して新しい縄文文化の担い手となった。その後、殷、周、秦漢代と、各時代にやってきた人びととは同族である。もともと同族意識の強い民族だから、さほどの抵抗もなく受け入れながら融合したものと思われる。日本列島においては、さほど大きな軋轢もなくのちに統一政権が誕生したのも、そのあたりに起因するのかも知れない。
 次に、長江流域の多民族が渡来したと思われる状況証拠の幾つかをみることにする。


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