佐藤功の釣ったろ釣られたろ日誌

釣り・釣りの思い出・釣り界のこと・ボヤキ.etc

私の経歴と釣り歴・その3

2009-05-15 20:16:36 | 釣り
私が本格的に釣りを始めたのは26歳ぐらいと思います。大阪庄内あるダイエーの中に坂本釣具店があり、そこに北摂フィッシングクラブがありました。

当時の会長は兼松正義氏で、日本海の若狭や四国の牟岐、串本大島と連れていただきました。当時は70数名の会員がいましたが、何を間違ったのかその3年後に会長を引き受けることになり35年ほどして3代目の山下氏にバトンタッチしました。
今年から4代目として藤村氏が会長となり、創設45年目の北摂フィッシングクラブを引っ張っていくことでしょう。

その間、全関西磯釣連盟から離れて昭和59年10月に立ち上げた大阪府釣連盟では、新大阪磯釣クラブの新竹柳太郎氏が会長で、私は副会長として会長の補佐をすることになりました。

当時、私たちは全関西の第6支部として14クラブ400名が所属していましたが、その支部のうち11クラブが退会して大阪府釣連盟を立ち上げました。

私は新竹氏の後を受け2代目の連盟会長を11年間やらせてもらいました。そして今の岡田国明氏にバトンを渡したのです。

平成14年、近畿釣り人の会を12の団体で立ち上げました。その後、平成17年から大阪府釣り団体協議会の会長に推薦されて今日に至っております。

たくさんの釣行で女房に散々苦労させました。仕事も自分の頭の中では人の倍ほどしたときもありましたが、それ以上に各地に釣りに行きました。

近畿各地、四国は牟岐を筆頭に、甲の浦、宿毛、沖ノ島、日本海の隠岐に九州は対馬、宮崎、種子島、屋久島、伊豆の三宅に神津、八丈、式根島など、遙か離れた小笠原、トカラ列島、男女群島に鳥島、海外ではサイパン、テニアン、ニュージランド、ケアンズと、挙げればきりがありません。

お陰さまで多くの釣人と知り合いました。私の場合は魚より人の方を遥かに多く釣ったことでしょう(男も女も?)

私の古希の祝いを大阪のラマダホテルで180人の釣り仲間が集まっていただいて、
本当に感謝感激でした。釣り仲間以外にサンテレビのM取締役を筆頭に、スポーツ新聞5紙の方々、遠く埼玉からエサ関係のM社長に、メーカーの偉い方々、また尾鷲から市会議長(現在の市長)や渡船屋さんが仕事を早い目に切り上げて5時間かけて走って来てくれました。

その節は本当に有難うございました、改めて皆さんに御礼申し上げます。

このように多くの仲間に恵まれて今日に至っています。これはひとえに釣りをやってきたお陰と思っています。

あと何年、釣りの世界にいられるか分かりませんが、これから私がやりたいのは子供とシニアの釣り教室を皆さんの協力で立ち上げたく思っています。

家の中でテレビとにらめっこしてテレビゲームばかりしてないで太陽の下で遊ぶ楽しさを教えてあげたいものです。

現在、大阪府釣り団体協議会で作成した案を、日本釣振興会の皆さんにもお願いし、共催の企画を今年の総会に提案いたしました。何とか立ち上げることができましたら皆さんの協力をお願いする次第です。

ここのところ、忙しくてブログが時々書けてません。いつまで続くか分かりませんが、がんばろうと思います。明日は仲間と定例の中国語の勉強会です。お昼に舞洲の巡回に行きます。
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