神は愛 白髪は美の冠 白髪は輝く冠 

聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

日米合作映画『レオニー』~イサム・ノグチの母の生涯~Voice of Leonie(レオニー) -01- 松井久子

2018年12月06日 | 日記

 

*知人より

日米合作映画『レオニー』~イサム・ノグチの母の生涯~

 

2019年2月1日(金)上映

小金井 宮地楽器大ホール 3F
JR中央線・武蔵小金井駅前

前売り券 1000円
当日券  1500円


予約・お問合せ
TEL 090-3592-6124(Mamademo)
メール・info@essen.co.jp
(株)エッセン・コミュニケーションズ

 

 

 

 


『レオニー』(Leonie)
2010年公開の日本・アメリカ合衆国合作の映画。


キャッチコピーは「お母さん、私はこの子を連れて日本という国に行きます」。

世界的な彫刻家イサム・ノグチを育てた母レオニー・ギルモアの物語。

ドウス昌代による「イサム・ノグチ 宿命の越境者」
に感銘を受けた監督である松井久子が、7年の歳月をかけて完成させた作品。

あらすじ
1901年、名門大学を卒業したレオニー・ギルモアは、詩人か編集者になりたいという夢を捨てきれないままだった。
そんなある日、一人の神秘的な青年詩人・野口米次郎と出会う。
しかし、ヨネとの出会いによって彼女の人生は波乱に満ちたものとなっていく。
レオニーはヨネを愛し妊娠するが、ヨネは一方的に日本へ帰国し、彼女を置き去りにしてしまう。

残されたレオニーは人目を避け、未婚のまま混血の男の子をカリフォルニアで出産。
子供の将来を想うレオニーは、ヨネからの誘いもあり、母の反対を押し切って日本行きを決意する。
明治後期の東京に2人を出迎えたヨネは、息子を「イサム」と名付け、人種差別が激化する困難な時代を生き抜いていく。
そんな中、ヨネに正式な日本人の妻がいることを知り、母の死を知らせる手紙も届き、
異国での生活はますます過酷で孤独なものとなっていた。
レオニーのお腹には新たな命が宿り、女の子を無事に出産したレオニーは「アイリス」
と名付けるが、父親の名は決して明かそうとはしなかった。

日本でも差別を受け、不登校となってしまったイサムの芸術的才能に気付き、成長した息子をレオニーはアメリカへ送り出す。
しかし、時悪く第一次世界大戦が勃発。やがて母子の連絡は途絶えてしまう。
数年後、アメリカへ戻ったレオニーは、2人の子供の成長を見届け、
自分自身のために生きようと、メリーランドの田舎へと向かうのだった……。

~Wikipedia~

 


Voice of Leonie(レオニー) -01- 松井久子 1/3


イサム・ノグチ(Isamu Noguchi) 1994

 

世界的彫刻家イサム・ノグチの生涯を追う。

 

 

レオニー・ギルモア(1873年6月17日 - 1933年12月31日)
アメリカ合衆国ニューヨーク生まれの作家、教師、およびジャーナリスト。
夫は詩人の野口米次郎、息子は彫刻家のイサム・ノグチ、娘はダンサーのアイレス・ギルモア。


1873年6月17日、ニューヨークで、アイルランド移民の父、
アンドリュー・ギルモアと母、アルビアナ・スミス・ギルモアとの間に生まれた。

労働者学校(後のエティカル・カルチャー・スクール)で教育を受け、
1891年にボルティモアのブリンマー高校を卒業し、ブリンマー大学への全額給費生奨学金を獲得し入学。
三年上には日本からの留学生、津田梅子が在校していた 。
ソルボンヌ大学へ1年間留学。
ドウス昌代の『イサム・ノグチ 宿命の越境者』によると、ブリンマー大学の卒業生記録に、
歴史および哲学専攻学生として、レオニー・ギルモアの名前が確かにあった、とある。
エドワード・マークスによると、彼女は4年間の授業料、生活費を保障されていたが、
ソルボンヌ大学へ1年行ったので、ブリンマーへもう1年通うお金がなく、結果的に正式には卒業はしていない、とある。
1894年に、ブリンマー大学で生涯の友人となるキャサリン・バーネルに出会う。

 

 

1933年12月、肺炎のためニューヨークのベルビュー病院に入院し、動脈硬化症を伴う心臓発作のため12月31日に亡くなった。

 

教師と編集者としての仕事に加え、レオニー・ギルモア自身何作か作品を書いている。
いくつかの短い自伝的なエッセイが、『ニューヨーク・タイムズ』や『ナショナル』誌、『クリスチャン・サイエンス・モニター』などに掲載されている。

 ~Wikipedia~