いろは坂のような女です。

私の気になることが書いてあったりする♪

宇宙人は見つかるのか

2017-08-31 13:53:49 | 日記

カリフォルニアにある地球外知的生命体探査(SETI)研究所のセス・ショスタックによると、2025年までに宇宙人は見つかるそうです。

今の技術のペースでいけば、時間の問題なのだといいます。

何か合図のようなものをキャッチするのがいつになるのか、それを予測するには2つのポイントがあります。

1つは、送信装置を稼働している文明が宇宙にいくつあるかということです。

これについては当然のことながら活発に論議されていて、文明はゼロというものから数百万というものまでさまざまです。

ショスタックは、生命体の存在に欠かせない要因を数式であらわすドレーク方程式から出された数を支持しています。

でも、ひかえめにしても、およそ1万の進歩した文明が見つかるはずだといいます

もう1つのポイントは、私たちがどれだけはやく空を偵察できるかということです。

ショスタックによると、今はとてもゆっくりですが、2025年までには地球外の文明に出会えるということです。

この宇宙のどこかに生命体がいる……自分が生きている間に発見されたら、どんなにおもしろいでしょうか。

ETの居場所は、そう遠くないに違いありません

ETがわたしたちとコンタクトをとる日が来るというのも、夢物語では終わらないかもしれません。

手配写真

2017-08-22 10:05:39 | 日記

日本で写真が一般に普及する前の江戸時代には、泥棒や強盗などの犯人の公開捜査には、手書きの人相書きを使っていました。

それが明治になり、写真が人相書きにとって代わりました

いわゆる手配写真です。

明治5(1872)年に制定された法律「監獄則」には、「何度も犯罪を繰り返す者や凶悪犯は、その写真を撮っておいて、万が一逃亡したときに、あらためて捕まえるときに役立てる」という雑則がついていました。

手配写真が本格的に実施されるのは明治14年以降ですが、それ以前にこの法律はできていたわけです。

「監獄則」が制定された当時、司法省のトップの座にいたのは、佐賀藩士だった江藤新平。

彼は、この新しい法律を定めるなど、司法制度の整備を協力に推進していました。

しかし江藤は、西郷隆盛、板垣退助らと征韓論を唱え、敗れて辞職し、野に下りました。

翌年、征韓党に推されて首領となり、挙兵、いわゆる佐賀の乱を起こします。

やがて政府軍に鎮圧され、江藤は佐賀を脱出し各地を逃げ回ったものの、捕らえられました。

江藤の捜索が行われていたとき、人相手配写真が各地に配られました。

この写真は、逮捕の大きな手がかりとなりました。

つまり江藤は、自分がつくった法律によって捕まってしまったわけです

なんとも皮肉な話ですね

平将門と藤原純友

2017-08-03 15:49:50 | 日記

平安時代とは、騒乱と陰謀が渦巻く混沌とした時代だったといわれています。

藤原氏の専横政治のもと、935年の「平将門の乱」と939年の「藤原純友の乱」という二つの大きな反乱が同時に起こりました。

時近くして起こった2つの乱ですが、首謀者二人の共謀だったのではないかといわれています。

将門が親族間の紛争を反乱と誤報されたことに対し、申し開きのために上京した時期と、純友が紀淑人の懐柔により京に戻っていた時期が一致していることもありました。

平安後期に成立した歴史物語「大鏡」によると、純友と将門は比叡山で「天下顚覆の密約たる叡の約」を結び、成就した暁には、将門は帝に、純友は関白になると約束したとあります。

その他の古書にも、純友が将門に「西で純友が立ったと聞いたら、東でお前が立て」と説いたとあります。

それから程なくして、将門は反乱を起こし、新王国を建てました。

純友も海賊として南海道で反権力的行為を激化させていきました。

藤原道真の祟りともいわれる宮中清涼殿の落雷事件に加えて、京都周辺では疫病や異常気象が続いていました。

人々の不安が高まる中で起きた二つの反乱が、中央政府を驚愕させ、共謀説にさらに信憑性を与えたのでしょう。

肌にいい都市、よくない都市

2017-07-25 14:17:56 | 日記

雨はいやなものですが、肌には乾燥した空気はよくありません。

素肌を美しく保つためには適度の湿度が大切です

肌によい気候条件としては、湿度が適当な値に保たれて変化が少ないことです。

また、気温は皮膚のマッサージ効果があるため変化が大きいこと、皮膚を老化させる紫外線が少ないことなどが挙げられます。

昔から東北には美人が多いといわれていますね。

札幌、青森、秋田、盛岡、新潟、富山、金沢、福井、長野、京都、鳥取の各都市が前述の条件、すなわち肌によい気候条件を満たしているそうです

反対に、肌によくない気候条件のところは太平洋側、とくに関東、大阪、名古屋の大都市だそうです。

ということは、多くの人が肌によくないところで暮らしているのです。

ところで、アメリカのある地理学によれば、東アジアの気候は600年周期で大きな変動をしているそうです。

すなわち、300年かけて温暖期から寒冷期に向かい、そのあと300年かけて、今度は寒冷期から温暖期に向かっているといいます。

そして温暖期には長い顔で長身の人間が多く、寒冷期には丸顔で短身の人間が多いと指摘しています。

日本のある歴史学者によると、その説は日本人にも当てはまるといいます


考えるとき上を向くのはなぜか

2017-07-07 14:52:52 | 日記

「さっき挨拶した人、見覚えがあるけど誰だっけ?」などと、何か思い出そうとするとき、ふと上を見上げて考えることがあります。

企画を考えたり、難解なパズルの答えを考えるときにも、ふと天井を見上げることがあります。

なかには、上を向いて、じっと目をつぶって考える人もいます。

考えるとき、つい上を向いてしまうのは、神経生理学の専門家によると、雑念が入るのを防ぐためだそうです

視界のなかに何かが存在すると、関心がそちらに向かい、集中して考えられなくなります。

そこで、邪魔なものが視界に入らない上を見上げるというのです。

下を向いても邪魔なものが目に入りにくくなりますが、それだと困っているように見られかねません。

陰気な人という印象も与えやすいです。

そこで、無意識に上を向くという行動をとることになるのです。

そこには、テレビやマンガ、周囲の人たちの態度などから、「考えるときは上を向くもの」という刷り込み効果もあると見られます。

また、上を向くと、首のツボが刺激され、脳への血液の流れがよくなるからという説もあります。

脳が活発に働けば、思い出せなかったものが思い出せたり、いいアイデアが浮かぶ可能性が高くなります

そんな経験を体が覚えていて、自然と上を向く動作を選んでいるともいわれています。

強い競争意識とギョウザの関係

2017-06-12 11:57:50 | 日記
内陸部にあって、そう厳しい気候でもない栃木の人が、穏やかな性格になるのは自然なことで、

NHKの行った全国県民意識調査でも、「変化のない暮らしを望む」という質問に同意する答えが多かったです

しかし、その半面、競争意識も強いようで、それがいま他県人が栃木県について知っている、「県庁所在地宇都宮はギョウザの町」という唯一の強烈な印象を育てたともいえます。

宇都宮のギョウザは、もともとこの町にあった陸軍師団の兵士たちが、戦争中に中国に出兵した折に、ギョウザの味が忘れられないということで作り出したのが始まりとか。

なんと市内にある専門店の数は日本一です

町おこしのために餃子店協会加盟店が一致団結していますが、それぞれが自分の店の味には強いこだわりをもっています。

「ほかの店には負けないぞ」とか、「どこにもない味を作り出してみせる!」といった競争心が、高いレベルで一定の味を保つ努力をつづけさせ、

その結果、多くの店が共存し、ますますギョウザを商う店を増やし続けているのです

この競争心は、もしかしたら県民性というより、宇都宮の市民性といえるのかもしれませんが。

食事中のタブー

2017-06-07 13:30:07 | 日記
日本では食事中のおしゃべりはタブーなんですか

かしこまった場所ではそうかもしれませんが、最近は普通にしゃべりながら食べますが。

お茶懐石は禅寺発祥で、今は信仰と関係なく広まってます。

お茶席は亭主と客がおしゃべりをして楽しいひとときを過ごすもの。

ここから食事中の作法につながっていて、黙っている方がおかしいということになります。

モグモグと口に頬張ってしゃべるのはもちろんタブー

フランスの昔の礼法を書いた本に、「ルイ14世が用意したごちそうを、田舎から来た貴族が頬張りながら王様にしゃべりかけ、非礼だということになり禄を減らされた」と載っています。

今も昔もどの国でも、頬張りながらのおしゃべりはだめだ、ということですね。

こういったことから、食事中には大笑いを誘うような話題は避け、さらにクシャミやあくびもしないように、という作法が生まれました。

『葉隠(はがくれ)』という江戸時代に書かれた書物では、「くしゃみ、あくびなどは、せずと思えば生涯せざるものなり」とされています。

我慢しようと思えばできますよ、ってことですね。

葉隠…葉可久礼・葉隠聞書ともいう。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」が有名。

二宮金次郎

2017-05-24 10:26:12 | 日記
二宮金次郎は、現在の栃木県二宮町である桜町領の復興に尽力した人物

1787年に現在の神奈川県小田原市に生まれ、年少の頃に両親と死別。

杉苗を買って酒匂川の土手に植え、菜種をまいて勉強するときに使う油をとり、捨てられた苗を植えて一俵の米を採り、そうしてひたすら勤勉と倹約に努め、20歳代で生家を再興。

この堅実な業績が認められ小田原藩の家老の財政に着手し成功。

さらに、桜町領の復興に取り組みます。

晩年は今市に移り住み、荒れ地の復興に尽力しました。

年少の頃の苦労とそれに負けない勤勉ぶり倹約ぶりが、人生の手本として栃木県人に尊敬されています

それは、金次郎の気質と栃木県人の性質が似ているからではないでしょうか。

まじめで堅実、律儀…

また、ちょっと世渡り下手なところもそっくり。

金次郎が前向きに生きて成功したことは、栃木県人にとって、自分たちの姿を投影しているのでは、とも考えられます。

実際、人間は誰にでもすぐれたところがあるから、堅実に努力すれば必ず報われるというのが、栃木県人の考え。

正義感や道徳観念が強い性質なんですね



ブログはじめました~!!

2017-05-15 10:09:39 | 日記
ブログ、はじめました~!!

住んでる地域のことなどいろいろと書いていきたいと思います

よろしくお願いします