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夏目漱石を読むという虚栄 2230

2021-03-17 22:32:26 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

2000 不純な「矛盾な人間」

2200 不自然な「自然」

2230 「良心」

2231 「私の自然を損なったのか」

 

「自然」とは記憶を偽造する癖のことだろう。記憶を偽造してしまうのは、無自覚つまり「自然」だ。そうしたありふれた事実に、Nは気づかなかったようだ。

 

<彼は父と違って、当初からある計画を拵(こしら)えて、自然をその計画通りに強いる古風な人ではなかった。彼は自然を以(もっ)て人間の拵えた凡(すべ)ての計画よりも偉大なものと信じていたからである。だから父が、自分の自然に逆らって、父の計画通りを強いるならば、それは、去られた妻が、離縁状を楯(たて)に夫婦の関係を証拠立てようとすると一般であると考えた。けれども、そんな理窟を、父に向かって述べる気は、まるでなかった。父を理(り)攻(ぜめ)にする事は困難中の困難であった。

(夏目漱石『それから』十三)>

 

「自然」は、『それから』に何度も出てくるが、意味不明。

「自然をその計画通りに強いる」は〈「その計画通り」「を」「自然」「に強いる」〉の誤りだろう。〈「彼は」~「ではなかった」〉とあるが、〈彼は~であった〉という文が出てこない。父に対する反抗心しか語られていないのだ。だから、代助は正体不明。

〈彼の「自然」は彼の考える「自然」と同じ〉という証拠はない。

「だから」は機能していない。「離縁状」の比喩は不可解。

「述べる気」になったとしたら、その方がおかしい。代助に「自分の自然」があるのなら、誰にでも「自分の自然」はある。それらは異なるはずだ。そのことに、『それから』の作者は気づいていない。『道草』あたりから、Nは気づいたらしい。『こころ』における「人間らしい」(下三十一)と「人間らし過ぎる」(下三十一)の対比が転機か。

「父を理攻(りぜめ)に」は笑える。代助のような軽薄才子に誰が「理(り)攻(ぜめ)に」されよう。代助に「理(り)」など、ないのだ。その弱点を隠蔽するのが「自分の自然」という言葉だ。

 

<こんな話をすると自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠(かす)めて通るでしょう。移った私にも、移らない初(はじめ)からそういう好奇心が既に動いていたのです。こうした邪気が予備的に私の自然を損なったのか、又は私がまだ人慣れなかったためか、私は始めて其所の御嬢さんに会った時、へどもどした挨拶をしました。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十一)>

 

先の「自然」は副詞で、後の「自然」は名詞だ。意味は似ているのだろうか。不明。

「そういう」は不可解。「へどもど」するのは、〈静の「好奇心」が自分に働く〉という妄想のせいだ。主体としての自分と客体としての自分の混同。被愛願望を隠蔽するからだ。

〈「邪気」=「好奇心」〉ではない。「邪気」とは、語り手Sが隠蔽している〈妄想〉のことだ。「私の自然」が損なわれていないとき、Sはどんな「挨拶」をしたろう。「へどもど」しないで、「今まで想像も及ばなかった異性の匂(におい)」(下十一)を犬みたいにクンクン嗅ぎまわり、「肉の方面から近づく念」(下十四)に駆られて抱きついて押し倒して……。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2200 不自然な「自然」

2230 「良心」

2232 「良心の命令」

 

「記憶」は、その持ち主の思考を制限するらしい。

 

<私には先刻(さっき)の奥さんの記憶がありました。それから御嬢さんが宅へ(ママ)帰ってからの想像がありました。私はつまりこの二つのもので歩かせられていた樣なものです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十六)>

 

「記憶」は、それに基づく「想像」とともに、ある物語を形成する。そして、それらの主体である自分を〈自分の物語〉に閉じ込めてしまう。

 

<私の歩いた距離はこの三区に跨(また)がって、いびつな円を描いたとも云われるでしょうが、私はこの長い散歩の間殆(ほと)んどKの事を考えなかったのです。今その時の私を回顧して、何故だと自分に聞いて見(ママ)ても一向分りません。ただ不思議に思うだけです。私の心がKを忘れ得る位、一方に緊張していたと見(ママ)ればそれまでですが、私の良心が又それを許すべき筈はなかったのですから。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十六)>

 

「距離」は〈経路〉などが適当。「いびつな円」と「Kの事」の関係が不明。

「何故」は、〈あのときの自分は何を考えていたか〉という問題から逃れるための言葉だ。中年Sは、青年Sの気分を「回顧して」いるのではなく、反復している。「一向分りません」って、「この二つのもので歩かせられていた様なもの」じゃなかったのか? 

「ただ」は不要。「不思議に思うだけ」の「だけ」は変。青年Sには、Kと静母子が「切り離すべからざる人のように」(下三十五)思えていた。このとき、青年Sは〈静母子はKをどうするつもりか〉と考えていたらしい。この物語に、S自身は登場しない。だから、話は「それまで」なのだ。このあたりの趣旨は〈青年Sの「良心」が起動しなかったのは「何故だ」〉というものだろう。この疑問の前提には〈「良心」は「自然」に起動するものだ〉という文があるのだろう。しかし、この前提は怪しい。

 

<もしKと私がたった二人曠野(こうや)の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。然し奥には人がいます。私の自然はすぐ其所(そこ)で食い留められてしまったのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十六)>

 

Sは、〈壁に耳あり「曠野(こうや)」にも耳あり〉と思うのかもしれない。だったら、「良心」つまりDは、常に沈黙を守ることになる。静母子の像は、SのDとしてSに付きまとっていた。だから、彼女たちは「曠野(こうや)」にも出現できたはずだ。

「奥」にいるのは静母子だ。彼女たちに密告しそうな「下女」(下十)も含むか。

「すぐ其所(そこ)」はどこ? 〈「自然」を「食い留め」〉は意味不明。

 

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2200 不自然な「自然」

2230 「良心」

2233 「自然」と混乱

 

「良心」は「自然」に起動するのだろうか。

 

<自己意識において意識されるのは、ただ自己が自己であるという空虚な自己の形式ではなく、自己のかかわる他のさまざまなものの意識であり、この他のさまざまなものへとかかわっているものとしての自己の意識である。しかし、これが自己の存在であり、自己の行為であるということが顕在的に意識されるときに、自己のうちにはこれを自己自身のものとして認めることを是認したり、拒否したりしようとする第二の自己の声がおこってくる。これが良心の声である。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「良心」加藤信朗)>

 

「第二の自己」をDと考える。ただし、Dは〈悪心の「声」〉も発する。

 

<このように、自然(人間の自然も含めて)と人間(の創造性)とを対置することの基盤には、人間は、自然の一部でありながら、同時に(単なる)自然を超えた存在である、という信念がある。だが、人間にこのような特異な位置づけを与えようとする場合、はたして何が「人間の自然(本性)」に属し、何が属さないのか、という問題が生ずる。自然と対置された人間の知的創造性、自由も、人間の自然(本性)に属するのではないか、社会を形成し、さまざまな制度のもとで生活し、文化を創造することも、人間の本性的なあり方ではないのか、という問題である。もしこのような問いに、すべて肯定的に答えるならば、(文化の一部としての)科学・技術を駆使してさまざまの事物に手を加え、いわゆる「自然」を破壊することも、また逆に、そのような「自然破壊」を予測し、それを未然に防ぐ手だてを講ずることも、「人間の自然」に含まれ、ひいては「自然」も含まれることになるであろう。かくして、自然と人間との対比は、きわめて不確かなものとなる。

(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「自然」丹治信春)>

 

日本語の〈自然〉という言葉は、もっと「不確かなもの」だ。

 

<自然ということばは中国に由来することばで、最初に現れるのは《老子》である。自然とは、猛然とか欣然のようにある状態を表すことばであり、存在を示す名詞ではない。自然とは自分に関しても万物についても人為の加わらない状態、おのずからある状態を意味している。自然という漢語が日本に入っても、長い間この意味は変わらなかった。これに対して、江戸時代に蘭学・英学が受容されると、英語のネイチャーnature,蘭語のナトゥールnatuurの訳語として〈自然〉があてられるようになり、その意味が日本語のそれまでの自然の意味に重層し、混乱を生じるようになる。

(『百科事典マイペディア』「自然」)>

 

Sの「自然」が意味不明なのは、日本の近代の言語的「混乱」の反映でもあるようだ。

(2230終)

 


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