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夏目漱石を読むという虚栄 5540

2021-12-26 11:33:55 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5500 「偉大なる心の自由」

5540 個人の主義

5541 「自我とか自覚とか」

 

Nは、自由が放埓に堕落しないための方法を熟知しているつもりでいたようだ。

 

<近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのが沢山あります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事をいいながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念を有つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければ済まん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。

(夏目漱石『私の個人主義』)>

 

「自我」には「自分自身の興味や資質などにのみかかわり合い(自己中心的)、もっぱら自分自身の安寧をはかろうとする(利己的)過程などが含まれる」(『ブリタニカ』「自我」)とされる。この場合、「真なる自己認識をもとにして、自己のおかれた状況のなかで適切な態度決定をすることが自覚の本義である」(『ブリタニカ』「自意識」)とすると、「自覚」と「自我」を並べるのは無意味だろう。したがって、「自我とか自覚とか唱えて」いるのが誰であろうと、その人は混乱していることになる。では、「自我」を「唱えて」いる人と「自覚」を「唱えて」いる人は別人なのだろうか。その場合、「自我」は「自己中心的」で「利己的」だから、「自我」を「いくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使う」のは間違っていない。間違っているのであれば、Nはこの「自我」を「自覚」と同様にプラスの価値で用いていることになる。この場合、「唱えて」いる人は同一人物でいい。また、「自我とか自覚とか」は、後に出てくる「自由」しかもプラスの価値のそれの類語と解釈できる。「その中」の「そ」の指すものは不明だが、「その中には」とある以上、Nは〈「いくら自分の勝手な真似をしても構わない」という考えは基本的に正しい〉と考えていることになる。すると、「符徴」にこめたはずの皮肉が利かなくなる。あるいは、皮肉でもないか。

「彼ら」は〈「符徴に使う」人々〉と解釈する。「自分の自我」は〈「自分」の自由〉と読む。「自分の自我をあくまで尊重するような事」〉は正しいのだろう。だったら、「他人の自我」を尊重しないような「事」〉も正しいはすだ。この「ながら」は〈同時〉という意味合いになる。しかし、逆接的に用いられているらしい。逆接的に用いるのであれば、「自分の」を削って、〈万人の「自我をあくまで尊重するような事をいいながら、」実際には「自分の自我」だけを尊重し、「他人の自我に至っては」〉などとやらねばならない。「彼ら」が「自分の自我をあくまで尊重する」から「他人の自我に至っては毫も認めていない」のなら、筋は通る。「彼ら」は、「怪しいの」ではない。「怪しいの」はN自身だ。「認めていないのです」は駄々っ子みたい。〈「認めていない」から駄目な「のです」〉などとすべきだ。

「いやしくも」は意味不明。「公平の眼」は意味不明。なぜ、「公平の眼や正義の観念を有つ」ことになっているのだろう。「信じて」いるのなら、夏目宗だろう。

「相当の理由」と判断する自由を行使する「我々」こそ「怪しいの」だろう。

 

 

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5500 「偉大なる心の自由」

5540 個人の主義

5542 入我我入

 

『私の個人主義』は〈私個人の主義〉でしかない。いや、「主義」ですらない。

 

<①〔仏〕密教で、如来の身口意(しんくい)の三密が我に入り、我の身口意の三業が如来に入り、一切諸仏の功徳をわが身に具足すること。

②(汝が我か、我が汝かの意から)どちらとも解されること。不得要領または無茶苦茶の意に用いる

(『広辞苑』「入我我入」)>

 

Nは、私には意味不明の①の「不得要領または無茶苦茶」と俗語の②の「具足すること」と混同していたのではないか。つまり、①と②の混交だ。

 

<彼はこの講演で、イギリス留学中に「自己本位」の思想に達したと語り、個性の発展を図る個人主義を説くが、しかし、「自己の個性の発展を仕遂(しと)げようと思うならば、同時に他人の個性をも尊重しなければならない」とする。個人主義は「道義上の個人主義」でなければならず、「もし人格のないものが無暗(むやみ)に個性を発展しようとすると、他人を妨害する」結果になる。彼はまた「常住坐臥(ざが)国家の事以外を考えてはならない」といった偏狭な国家主義を批判するが、前述の個人主義が真の国家主義と矛盾しないことも主張する。なぜなら、国家存亡の際に、「人格の修養の積んだ人は、個人の自由を束縛しても国家の為(ため)に尽すようになるのは天然自然」だからである。漱石のこうした考えに、ヨーロッパの個人主義の反映をはっきりみることができよう。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「個人主義」宇都宮芳明)>

 

この項に出てくる人名は、プロタゴラス、バークリー、シュティルナー、エピクロス、カント、そして、Nだ。たった一個の講演記録によって、Nはこうした世界的有名人と肩を並べることになった。しかも、『私の個人主義』に関する記述が二割ほどを占める。

「この講演」は『私の個人主義』だ。「自己本位」は意味不明。夏目語だろう。

「道義」にもいろいろあろう。ちなみに、『野分』の「道義」も意味不明。「人格」も意味不明。「人格」の有無や高低などを、誰がどうやって判定するのか。

「常住坐臥(ざが)」同じことばかり考えているのは、「偏狭」ではなくて、偏狂だろう。「真の国家主義」は意味不明。だから、「矛盾しないこと」になるわけだ。

どんな場合が「国家存亡の際」か、Nが判定するのか。誰を「人格の修養を積んだ人」か、Nが判定するのか。「人格の修養の積んだ人」以外の、たとえば徴兵忌避者や犯罪者などは「国家の為(ため)に尽す」義務を免除されるのだろう。「天然自然」は愚かしい。ちなみに、一八九二年、Nは「徴兵を免れるため分家し」(新潮文庫『こころ』「年譜」)ている。日清戦争の二年前だから、〈今はまだ「国家存亡の際」ではない〉と、青年Nは判断したのだろう。賢い。

N式個人主義は「ヨーロッパの個人主義」よりも優れているのか。

 

 

 

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5500 「偉大なる心の自由」

5540 個人の主義

5543 空想的個人主義

 

N式でない普通の個人主義は、次のようなものだ。

 

<個人の自由と人格的尊厳を立脚点とし、社会や集団も個人の集合と考え、それらの利益に優先させて個人の意義を認める態度。

(『広辞苑』「個人主義」)>

 

「社会や集団」と対立しないのなら、空想的個人主義だろう。いや、主義ですらない。

 

<一体何々主義という事は私のあまり好まない所で、人間がそう一つ主義に片付けられるものではあるまいとは思いますが、説明のためですから、ここには已(やむ)を得ず、主義という文字の下に色々の事を申し上げます。ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないようにいい振らしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙(じゅうりん)しなければ国家が亡びるような事を唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿気たはずは決してありようがないのです。事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります。

個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。

(夏目漱石『私の個人主義』)>

 

〈「何々」~「という文字の下に色々の事を申し上げ」る〉のがNのスタイルだ。

貧乏人は「国家主義」を利用せねばならない。なぜなら、不当な暴力から貧乏人を守ってくれるのは国家だけだからだ。Nは「説明のため」国家主義者になりすまさなければならなかった。「馬鹿気た」ことを言っているのはNなのだ。

「寒暖計」の比喩は不適切。

 意味不明のN式個人主義から日本国民が尊重すべき「日本国憲法」的個人主義までをひっくるめた個人主義を特別扱いし、プラスの評価を与える。そして、マイナスの評価を与えられる個人主義を〈利己主義〉と呼ぶ。そうすれば、話は簡単になりそうだが、どうだろう。

 

<彼は自分ひとりのこと、――世の鑑(かがみ)にもたとうべき自分のことしか、考えなかった。そして他人が、彼のことを同じように心から考えてくれない場合には、本当に腹を立てた! 

と同時に彼は、自分をエゴイストとは思わず、――何よりもエゴイストを非難し、エゴイズムを攻撃した!――むりもない! 他人のエゴイズムは自分のエゴイズムの邪魔になるのだ。

(ツルゲーネフ『散文詩』「エゴイスト」)>

 

「自分のエゴイズム」を攻撃する〈もう一人の自分〉も「エゴイスト」だろう。

(5540終)

 

 


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