夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5100 「母」と「あの女」
5150 「偉大なる暗闇」
5151 「のっぺらぼう」
三四郎は都市と地方の文化的格差を目の当たりにし、「自信」を失った。「自信」が回復しないのは、広田や与次郎のせいだ。彼らのような知的俗物と馴れ合うからだ。「自信」がないからやめられない。やめられないから「自信」を得られない。悪循環。
知的俗物は、他人の著書に落書きをする。
<「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方より伯林に集まれる学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心を以て集まれるにあらず。唯哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上求道(ぐどう)の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底(ふおんてい)の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現に外ならず。この故に彼等はヘーゲルを聞いて、彼等の未来を決定(けつじょう)し得たり。自己の運命を改造し得たり。のっぺらぼうに講義を聴いて、のっぺらぼうに卒業し去る公等日本の大学生と同じ事と思うは、天下の己惚(うぬぼれ)なり。公等はタイプ、(ママ)ライターに過ぎず、しかも慾(よく)張(ば)ったるタイプ、(ママ)ライターなり。公等のなす所、思う所、云う所、遂に切実なる社会の活気運に関せず。死に至るまでのっぺらぼうなるかな。死に至るまでのっぺらぼうなるかな」
(夏目漱石『三四郎』三)>
「ヘーゲル」が〈デカルト〉でも〈カント〉でも〈小便早よ出る〉でも同じことで、所詮、『デカンショ節』だ。「伯林」に留学して、学生たちからアンケートでもとったか。
「無上普遍の真」は意味不明。「伝うると聞いて」のこのこやって来るのは、おっちょこちょいだな。「不穏底(ふおんてい)」は意味不明。
「清浄心」の話が「社会」の話に替わっている。八つ当たりでしかないからだ。「活気運」は意味不明。
「のっぺらぼう」が目鼻を盛っても「死に至るまでのっぺらぼう」だろう。
<論文は現今の文学者の攻撃に始まって、広田先生の讃辞に終っている。ことに大学文科の西洋人を手痛く罵倒(ばとう)している。早く適当の日本人を招聘(しょうへい)して、大学相当の講義を開かなくっては、学問の最高府たる大学も昔の寺小屋同然の有様になって、煉瓦(れんが)石(せき)のミイラと撰(えら)ぶ所がない様になる。尤(もっと)も人がなければ仕方がないが、ここに広田先生がある。
(夏目漱石『三四郎』六)>
「論文」は与次郎の書いた「偉大なる暗闇」のこと。
「広田先生の讃辞」は〈「広田先生」へ「の讃辞」〉の間違い。
「文学者」は〈文学研究者〉のことだろうが、広田は文学研究者ではない。ただの教師だ。
「ことに」以下は、前の「始まって」に続けるべきだ。
「手痛く」は〈手厳しく〉が適当。「多く、相手から受ける損害や非難などにいう」(『広辞苑』「手痛い」)からだ。『日本国語大辞典』は「手痛い」の項で『三四郎』のこの部分から引用しているが、不適当だろう。
5000 一も二もない『三四郎』
5100 「母」と「あの女」
5150 「偉大なる暗闇」
5152 教養主義
広田の周囲に集まる青年たちは、極めて怪しい。
<主なメンバーとして、作家に森田草平(もりたそうへい)・鈴木三重吉(すずきみえきち)・中勘助(なかかんすけ)・芥川龍之介・野上弥生子(のがみやえこ)、学者に寺田寅彦(てらだとらひこ)・阿部次郎・和辻哲郎(わつじてつろう)らがいた。漱石から人間的・文学的に影響を受けた彼ら文学者グループを、“漱石山脈”と呼ぶ。
(『近現代文学事典』「木曜会」)>
野上弥生子は「《青鞜》にも作品を寄稿した」(『マイペディア』「野上弥生子」)という。
<しかし社会学的には、同世代の年少者から成る闘争的な集団を指す。第1次集団として強い結束を保ち、集団内にだけ通用する掟や隠語を持つ。元来は遊戯的な性格を持ち、社会化訓練の場としても機能する。しかし他の集団と接触し、対立や闘争することで暴力的な性格を帯び、反社会的な行為にいたる、とされる。
(『百科事典マイペディア』「ギャング」)>
与次郎は、「広田の賛辞」を表明するだけで十分だったはずだ。
<この個人主義はここに再び、先の人間学主義の必要を感じて来るのであって、この人間と人間との結合様式として人間学的なものが採用されるのである。人間と人間との云わば「パトス」的な結合がそこに取り上げられる。こうやって、この自由主義者によれば、人間は或る一定の人間達だけと、一定の結合関係に這入るのである。それはどういうことかというと、人間学的趣味判断の上から、好きな人間同志(ママ)が、一つの社会結合をするのである。処で吾々はこうした社会結合を、セクトと呼ばねばならぬだろう。
(戸坂潤『日本イデオロギー論』15「「文学的自由主義者」の特質」)>
木曜会はセクトとして大正教養主義の主流をなした。その流れは戦後も、そして、二十一世紀も続いているのだろう。
<戦後の雑誌『心』は、その代表的メディアであった。その特徴は、藤田省三によれば反俗的エリート意識、西欧や日本の文化的伝統の尊重、個人を前提にした共同体の保持(人と人の和)、社会科学や法則的認識の軽視などにあった。また政治的には軍隊嫌いゆえの一定の反軍的傾向と、制度ではない天皇個人への愛着があり、これが戦後の文化的象徴天皇制を支える根拠となった。
(『日本歴史大事典』「大正教養主義」安田常雄)>
軽薄才子は、セクト、ギャング、山脈その他を形成する。
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5153 セクトごっこ
官僚のセクハラ疑惑に関して、元官僚の女性が〈男子校〉という言葉を使って説明していた。〈旧制高校〉と言いたいのを我慢したか。
<ひょっとすると、日本の近代精神史を解明するひとつの鍵(かぎ)は、明治末年から昭和の前半までつづいた、あの「友情」という特殊な観念の君臨だったかもしれない。それは、漱石の『こころ』の「先生」と友人「K」を支配し、無数の旧制高等学校の生徒たちの感情を呪縛(じゅばく)し、反俗と無頼を誇る文士たちの精神を支えてきた。多くの場合、友情は家族愛や男女の絆よりも強く、しかし、そうした濃密な感情に似て、公的世界の人間関係に対立する、純粋に私的な紐帯(ちゅうたい)を作りあげた。青年たちは、この紐帯のなかで最初の趣味を試され、人生についての見方を学び、いわば、人生観と世界観の原点を教えられるのであった。
この友情の集団には、師匠でなければ、たいてい兄貴分の教祖的な青年がいて、集団内部だけの秘教的な雰囲気のなかで、独特の尊敬と畏怖(いふ)を集めていた。彼は、友人たちの趣味と教養に裁断的な批評をくだし、その誠実さと忠誠心を試しては、心の最後の殻をも剥(は)ぎとることを要求した。ときには酒席の無礼講の狂態のなかで、ときには読書会や、同人誌の作品合評の席で、この感情生活をめぐる私的制裁は、あたかも青春の通過儀礼のように行なわれるのであった。
(山崎正和『森鴎外 人と作品 ―不党と社交』*)>
SとKは、セクトを形成していない。彼らは外敵を特定することができず、セクトごっこをやって気取っていた。外敵がいないとき、敵は内部に想定される。内ゲバ。Nは、実生活で木曜会を拡大しながら、小説の中では「男同志」(下二十五)の関係を徐々に壊していく。
<津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙(そば)だてた。すると一旦(いったん)緒(いと)口(ぐち)の開(あ)いた想像の光景(シーン)は其所(そこ)で留まらなかった。彼を拉(らっ)してずんずん先へ進んだ。彼は突然玄関へ(ママ)馬車を横付にする、そうして怒鳴り込むような大きな声を出して彼の室(へや)へ(ママ)入ってくる小林の姿を眼前に髣髴(ほうふつ)した。
(夏目漱石『明暗』百八十一)>
「陰晴定め」あれば、どうなのか。「天気を相手にして戦う」は意味不明。「この友達」は小林。「峙(そば)だてた」は〈聳やかした〉と解釈する。語り手は誰に「いう」のか。SにとってのKは、津田にとっての小林と同様、「敵」だったろう。三四郎にとって、与次郎は「敵」だったはずだ。「五分刈り」にとっての「山嵐」も同様。苦沙弥にとっての寒月も。
「開(あ)いた」は〈見つかった〉と解釈する。
「拉(らっ)して」の主語は、形式的には「想像の光景(シーン)」だが、意味的には「想像」か。
〈「突然」~「横付にする」〉は変だが、「想像」だから、まあ、いいか。
「怒鳴り込む」は〈怒鳴る〉が適当。
*森鴎外『阿部一族・舞姫』(新潮文庫)所収。
(5150終)
(5100終)