一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

ドイツ・ロマン派の「諦念」

2007-10-31 04:41:45 | Essay
ドイツ・ロマン主義の神髄とも言えるのが、F. シューベルトや P. チャイコフスキーによって歌曲化された、J. W. ゲーテの次の詩でしょう。
 憧れを知る者のみが

 憧れを知る者のみが、
 わが悲しみを知る。
 ひとり、ただひとり、
 なべての喜びを絶たれ、
 ひたすらみ空に、
 遠きかなたに見いる。
 われを愛し、われを知る者は、
 遠くにあり。
 眼くらみ、
 胸うちは燃ゆ。
 憧れを知る者のみが、
 わが悲しみを知る。

この自己陶酔じみたものが、ドイツ・ロマン主義には、どうしても付きまとうのね。
音楽で言えば、R. シューマンなどは、「生涯一青春」とでもいうような楽曲を作っていた(晩年に近い頃の作品、ピアノ曲集『森の情景』「予言の鳥」などを参照)。

ところが、同じドイツ・ロマン派に入れられる J. ブラームスは、ちょっと違った面を見せて/聴かせてくれます。
というのは、歳を取るにつれ、「苦み」が増してくる。いつまでも、青春の甘さに酔ってはいられなくなる。

これはブラームスが60代まで生きていたこととも関係があるのでしょう。
ちなみに、シューマンは40代で亡くなっています。

したがって「苦み」も増す。
小生の私見では、その正体は「諦念」なんじゃないか、と思われます。
可能性が徐々に失われる/狭められる。
自分に出来ることと、出来ないこととがハッキリ分ってしまう。
「あこがれ」という可能性が広がった世界から、「あきらめ」という可能性の狭い世界に。そこに安住しようとは思うわけではないが、住まざるをえないことに気づいてしまう。

ブラームスが晩年に達したのは、そのような世界だったのではないでしょうか。
aquira さんは、如何お思いになりますか。

バッハの息子たち―C.P.E.B + J.C.B + W.F.B. + J.C.F.B.= ?

2007-10-30 01:38:22 | CD Review

BACH SONS
CARL PHILIPP EMANUEL BACH
JOHANN CHRISTIAN BACH
WILHELM FRIEDEMANN BACH
JOHANN CHRISTOPH FREIDRICH BACH
(BRILLIANT CLASSICS 99785)


子沢山の大バッハの息子たちの多くが、音楽家となっています。
ですから、このCDセットのような企画も当然生まれてくるわけで、この他にも何種類かのCDが入手できます。

その中で、この BRILLIANT CLASSICS のセットは7枚組。
C. P. E. バッハが3枚、J. C. バッハが2枚、W. F. バッハと J. C. F. が各1枚という構成です(それにしても順列組合わせのような名づけ方!)。

小生も、聴いたことのない曲がほとんどで、そういう意味からも、なかなか興味深いセットでしょう。
それにお値段も、国内盤の高い CD1枚と、ほとんど変りがないのです(何で国内盤は、あんなに高いのでしょ?)。

さて、楽曲の方ですが、個人的には、C. P. E. バッハが最も面白く聴けました。
元々、C. P. E. B. は好きな部類の作曲家だったので、初めて聴くような気はしません(以前にも、『チェンバロとピアノの二重協奏曲』『ソナタ ホ短調とロンド ト長調』をご紹介しています)。

前には「素朴な音楽」として捉えていましたが、なかなかどうして、そう単純なものじゃあない。
歴史的/様式的には「大バッハのバロック時代とハイドン、モーツァルトなどの古典派時代とを結ぶ音楽」ではあるのですが、それなりの独自性を持っています。

岡田暁生『西洋音楽史』(中公新書)によれば、バッハの息子たちの世代は、前古典派の時代に属し、
「エマニュエル・バッハはベルリンで活躍し、とりわけ鍵盤曲における激越な主観表出で知られた。鍵盤楽器の名手だった彼の音楽は、いわばフランツ・リストの18世紀版のようなところがある。(中略)彼は瞬間的な気分の揺れを直接鍵盤に叩きつけるような音楽を書いた。」
となります。
しかし、このような感情表出は、必ずしも鍵盤楽器の曲だけではなく、このCDでは、チェロ協奏曲にも端的に現れているのではないでしょうか(イ短調、変ロ長調、イ長調と、すべてのチェロ協奏曲が収録されているが、特にイ短調のそれに最も強く現れている)。

「前古典派の曲なんて……」
とお思いの方には、一度耳にされることをお勧めします。

何とも懐かしい雰囲気! バックス『オーボエ五重奏曲』

2007-10-29 02:12:42 | CD Review

BAX・BLISS
BRITTEN
Music for
OBOE & STRINGS
Pamela Woods, Oboe
Audubon Quartet
(TELARK CD-80205)


前回、ゲテモノを取り上げましたので、今回はお口直し。
A. バックスの『オーボエ五重奏曲』です。

この楽曲は、以前に「一風斎のもっと音楽を!」で一度、ご紹介しています(「室内楽の楽しみ(30)」を参照。演奏はナッシュ・アンサンブルのメンバー。hyperion盤のバックス・アルバム)。
今回、取り上げるのは、アメリカのオーボエ奏者パメラ・ウッズとオードゥボン四重奏団の演奏した、イギリス「3B」のアルバムです。

バックスのほかに、A. ブリス、B. ブリテンのオーボエ室内楽が含まれていますが、ブリスの作品は完全にバックスのそれを踏まえたもの。
ブリテンの作品は、いかにもブリテン初期の作品らしく才気にあふれた出来です。

したがって、ゆったりとした気分で聴くのに最も向いているのは、このバックス作品ということになるのでは。

まず、オーボエという木管楽器が、いかにも「鄙びている」。ことばが悪ければ「田園情緒が横溢している」(東洋的な旋律はありますが、日本の田舎ではなく、アイルランド辺りの田園地帯)。

第二に、前述したように、何か懐かしい旋律感があること。
これは前に書いた文章を流用すると、
「一度でもイギリス音楽を聴いたことのある人ならお分かりと思いますが、どことなく懐かしい気持にさせてくれる。それは、さっき言った、イギリスの民謡などを元にした、学校唱歌や教会音楽などをどこかで耳にしているからでしょう。
どうも、小生は、その懐かしさに惹かれるようです。殊に、木管の響きが、それを引き立ててくれます。」
ということになるのでは。

最後に、このCDの録音を褒めておきましょう。
深々としたオーボエやチェロの低音が、かなりリアルに存在感をもって捉えられています(もちろん高音もそうなのですが、この楽曲では、ヴァイオリンなどの高音部が、あまり活躍しないので)。

以上のような理由から、今回は広くお勧めする次第であります。

今日のゲテモノ―バッハの『ルカ受難曲』

2007-10-28 03:06:37 | CD Review

J. S. BACH
ST. LUKE PASSION
recomposed by JAN JIRASEK after an idea by CARL ORFF
Boni Pueri・ Munich Oratorio Choir・Munich Symphony Orchestra
Clear・Zanasi・Cold・Kronaue
Douglas Bostock
(Classico)


新約聖書には、「マタイ伝福音書」「マルコ伝福音書」「ルカ伝福音書」「ヨハネ伝福音書」の4つの福音書が収められています。

その中から、イエスの受難を題材にして作曲したものが、受難曲(Passion)です。
バッハは、ご承知のように、『マタイ受難曲』と『ヨハネ受難曲』をほぼ完全な形で残しているので、今日の私たちも耳にすることができます。

また、『マルコ受難曲』(1731年に初演された記録あり)は、楽譜も残されていないので、おそらくこの作品から転用したと思われる曲によって復元され、演奏されCD化もされています(T. コープマンによる復元版ありとのこと)。

しかし、『ルカ受難曲』は、バッハの筆による譜が残されているのですが、研究者によれば、バッハの作品ではないとされています。
にもかかわず、『ルカ受難曲』のCDなんてのが出ているのね。
しかも、あの C. オルフが残したアイディアを元に(楽譜は戦災で焼失)、チェコの現代作曲家 Jan Jirasek(1955 - 。ヤン・ジラチェックと読むんでしょうか)が再作曲をしている。

ただ、これ(オルフ/ジラチェック版)は、どう好意的に聴いても、バッハの作品とは思えませんなあ。
もう完全に、『カルミナ・ブラーナ』と同じ復元(捏造?)レヴェル。よほどのゲテモノ好きな方以外には、お勧めはできません(現代音楽に徹しているわけではないしね)。

小生、まだ耳にはしていないのですが、コープマン復元版の『マルコ受難曲』の方が期待が持てそうです。

台風と野分(のわき)と俳句と映画と

2007-10-27 00:42:35 | Essay
九州南方の海上にあった熱帯性低気圧が発達し、南大東島近海で台風20号となりました。

こうした台風の進路などが明らかになったのは、せいぜい20世紀に入ってから、また台風の発生が即時分るようになったのは、近々数十年前からのことでしょう(気象衛星「ひまわり1号」の打ち上げは1977年)。

ですから、戊辰戦争時、榎本艦隊は房総半島沖で台風に遭遇し、2艦を失うことになりました(〈美加保丸〉は座礁、〈咸臨丸〉は損傷、清水へ入港し新政府軍に拿捕される)。
それでも乗組員の中には、台風に遭うことを危惧した者もいました。

しかし、それ以前となると、直接の被害が起こらないと、台風だとも思わなかった。
ちなみに、古来から台風を含めた暴風雨は「野分」と呼ばれていました。
これは「嵐が過ぎ去った後の野の草が、いろいろな方向に倒れ伏した状態」を捉えていった語のようです。

さて、「野分」というと、小生がまず思い出すのが、
鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな
という蕪村の句です。

「鳥羽殿」とは、白河上皇が造った離宮の名まえ。
その名のとおり鳥羽上皇は、この離宮で院政を行ない、また崩御しました。
当時、やっと中央の政治に関与し始めてきた武者(平清盛や源義朝など)。京でいかなる大事が起ったのか、伝令の武者が五、六騎を飛ばしていく。
そういった情景を、嵐の中に描いた俳句です(「蕪村得意の時代劇俳句」との評もある)。

映画で、こういった荒々しい気象とともに、アクションを描いたのは、何と言っても黒澤明でしょう。
『七人の侍』での大雨の中での戦闘シーン、『用心棒』での空っ風の中での対決シーン、などなど。
こうして見ると、黒澤は蕪村の伝統を引いているとも言えるのでしょう。

さて、現在、そのような傾向の監督さんはいるのかしら?

11月1日の「万聖節」によせて

2007-10-26 03:15:54 | CD Review

Hugo Wolf・Richard Strauss
LEADER
Barbara Bonney・Geoffrey Parsons
(DG)


日本でも「ハロウィーン」は有名になってきましたが、実はこの日(夕方)が、「万聖節」のイヴだということは、あまり知られていないようです(したがって、「ハロウィーン」は10月31日、「万聖節」は11月1日)。

ちなみに「万聖節」とは、「キリスト教で、全ての聖者に祈りを捧げる日」なんだそうです。

この日にちなむ曲で、最も有名なのが、R. シュトラウスの "Allerseelen" (「すべての魂」の意。「万聖節」は "Allerheiligen") でしょう。普通は、この曲も『万聖節』と呼ばれています。

英訳の歌詞を以下に載せておきます (ドイツ語の詩作者は Hermann von Gilm)。
All Souls' Day
Place on the table the fragrant mignonettes,
Bring inside the last red asters,
and let us speak again of love,
as once we did in May.

Give me your hand, so that I can press it secretly;
and if someone sees us, it's all the same to me.
Just give me your sweet gaze,
as once you did in May.

Flowers adorn today each grave, sending off their fragrances;
one day in the year are the dead free.
Come close to my heart, so that I can have you again,
as once I did in May.

読んでのとおり、亡くなった恋人を「万聖節」に偲ぶという歌詞です。

ここでは若い女性をイメージして、バーバラ・ボニーの歌で聴いてみましょう。
"Morgen" も良いですが、この "Allerseelen" もなかなかの出来映えです。
やや細くストレートな発声で、清純なイメージ。J. ノーマンや E. グルベローヴァなどの脂っこい歌とは対照的です。その中間が、L. ポップということになるでしょうか(いかにフィッシャー-ディースカウといえども、男声は向かないように思えます)。

ご報告

2007-10-25 13:03:30 | Information
皆さまからご声援いただきましたが、小生の作品『彰義隊異聞 少年鼓手』は、第32回歴史文学賞の第二次選考で、あえなく討死いたしました。

さまざまのご支援を感謝いたします。

さて、本人が一番、作品の長所も欠点も分っているつもりですが、ここは「敗軍の将、兵を語らず」ということで……。
この経験を生かして、より一層の「勉強」をいたすつもりでおります。
また、何か進展があれば、ご報告させていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします。

一風斎啓白

最近の拾い読みから(191) ―『ゼウスガーデン衰亡史』

2007-10-24 01:16:34 | Book Review
日本文学の伝統には、あまり見られなかった「ホラ話」を壮大に描いた作品です(アメリカ合衆国文学/ラテン・アメリカ文学には脈々としてあるようですが)。

気宇壮大さは、物語の主要な時間が、1984年9月1日から始まり、2089年3月にまで及んでいることでお分かりのことと思います(ただし、ゼウスガーデンの滅亡は2075年6月4日に設定)。

ここで例によって、ストーリー紹介と売り文句とを。
「下高井戸オリンピック遊戯場は場末のうらぶれた遊園地だった。しかし双子の兄弟藤島宙一・宙二の天才的な経営手腕と絶妙のコンビネーションにより信じられない急成長を遂げ、ゼウスガーデンと名を変え、ありとあらゆる人間の欲望を吸収した巨大な快楽の帝国となっていった。人類の欲望と快楽の狂走の果てにあるものを、20世紀末から21世紀末の歴史空間を通し、壮大なスケールで描いた三島賞作家の最高傑作長篇」(「BOOK」データベースより)

ゼウスガーデンとは、日本国内に造られた「快楽の帝国」です。
「ゼウスガーデンは今や日本国を完全に凌駕していた。」
そこで最高の価値を持つのは「快楽」。したがって、治外法権まで与えられたこの帝国の興亡は、「快楽」というものの持つ極大から極小に至るまでの諸相を現しています(バブル景気の真っただ中で執筆・刊行されたことを想起!)。
その諸相を、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』に則った歴史叙述の書き方で表現しようとしています。しかし、その書き方は、必ずしも巧くいっているとはいえない。

それでは、なぜ「歴史叙述の書き方」としては巧くいかなかったのか。

その理由は、この小説が「ホラ話」の骨法を踏まえているからです。
特に、この小説では、「過剰さ」が、その骨法の多くをレトリックの面で支えています。
以下のような列挙法 *(ゼウスガーデンの最高幹部会〈元老院〉議員の金銭的腐敗を示す部分)が、そのいい例でしょう。
「公邸、私邸、セカンドハウスと支給され、
その公邸、私邸では、
 メイドから、コックから、ベビーシッターから、家庭教師から、執事から、家令から、運転手から、不足番から、お化粧係から、マニキュア係から、ヘアメイク係から、スタイリストから、照明係から、カメラマンから、アシスタントから、給仕から、お伽衆から、道化から、口上衆から、門番から、送り迎えの自動車から、送り迎えの飛行機から、送り迎えのグライダーから、それらの維持費から、光熱費から、交際費から、交通費から、交遊費から、交合費から、
 とにかく何から何までぜーんぶ鮫入りプールのツケとした上、
 豪華なパーティーを開くわ、豪勢な宴会を開くわ、豪儀な散敗をするわ、豪遊するわ、豪飲するわ、豪食するわ、豪語するわ、芸者をあげるわ、二号を作るわ、三号を作るわ、四号を作るわ、五号を作るわ、六号を作るわ、七号を作るわ、八号を作るわ、九号を作るわ、それでもって妾だけで野球チームを作るわ、野球拳をするわ、猫じゃ猫じゃを踊るわ、逆立ちするわ、立ち小便するわ、あかんべするわ、
 それはもう腐敗の限りをつくしていた。」

*「列挙法はおびただしい量の意味内容を造形するためにおびただしい量のことばを用いる。ことばの量を無理やり現実とつりあわせようとすることで表現を大げさにしている。それによって混乱や繁栄などの現実の複雑さを表現しようとするのである。しかし列挙法はことばの量をふやすことで多くの内容を語っているかのようにみえるが、結果的には文章がいたずらに長くなり、問題の個所がぼやけてしまうこともある。」(佐藤信夫『レトリック感覚』より)

したがって、「過剰さ」という「ホラ話」のレトリックと、歴史的叙述のパロディとしての個々のエピソードをつなげていく構成法とが、妙にちぐはぐで、必ずしも全体として巧くいっているとは言えません。
その面を是正するためには、エピソードの描写により力を入れて(これも「過剰」になるくらいに)、現在の分量を大幅に増やすしか手はないでしょう(井上ひさし『吉里吉里人』を想起!)。

もう一つの方法としては、時間的/歴史的な壮大なスケール感を失うことを敢えて選ぶ、という戦略もあります(その代わりに、空間的なスケール感を生かす)。
その戦略を取って成功したのが、同著者の『カブキの日』だったのではないでしょうか(物語の叙述を、ほぼ1日の出来事に収斂させている)。

小林恭二
『ゼウスガーデン衰亡史』
福武書店
定価 1,575 円 (税込)
ISBN4-8288-2228-3

*元版は現在入手困難。文庫本がハルキ文庫(角川春樹事務所)で出ている。

時代小説分析のために その2

2007-10-23 01:09:48 | Criticism
「その1」では、杉本苑子の『鳥影の関』が、時代小説に「グランド・ホテル形式」を取り入れている、という指摘をしました。

この他に、もう一つ指摘をしなければならないことがあります。
作者が意識して書いたかどうかは別にして、企業小説としても読めるということです。

やはり、武士社会と日本の企業人社会とは、似通ったところがあるのね(本当の武士社会のあり方なのか、それとも日本の小説家が企業人社会の似絵として武士社会を書いているのかは別にして)。

箱根の関の場合、それを設けたのは江戸幕府なのですが、その実務は小田原藩が行なっていました。つまりは、関所には小田原藩士が派遣され、幕臣は関与していない。
したがって、本社(小田原藩)ー支社(箱根の関)という関係に譬えられるわけです。

また、小田原藩士の元で働いている下僚は、箱根で雇われた人びと(ただし、よほどのことがない限り、その職は相続され、代々引き継がれる)。つまりは、支社に現地採用された契約社員のような存在なのです。
本書の主人公が就いた〈人見女〉(「出女」のチェックが主な役目)も、現地採用の職でした。

ですから、企業小説的に言えば、本社と支社との意見の相違、事なかれ「前例主義」の支社長、正社員と現地採用社員との対立、などが、そこには現れてきて、ドラマを形作っていくのです。

これで、ドラマの骨格がほぼ明らかになったと思います。
小説家の方としても、これだけの骨格を手に入れれば、そこに肉付けしていくのは、結構楽なもの。
後は、細かな起伏を想像で生み出していけばいいからです。

その起伏の中には、「凶作にあえぎ一揆を起こす箱根近在の農民たち、強訴にそなえて緊迫する関所」といったものや、「見女として働く小静の身辺にしのびよる亡夫を仇とねらう男の影」などが入ってくるでしょう。

どうしてもストーリー紹介というと、これらのサブな起伏が中心になりますが、実際の小説の上ではメインになる「骨格」が大事、というお話でした。

音楽の「宗教性」と「審美性」について

2007-10-22 09:05:36 | CD Review
なぜか最近、またバッハに凝っています。

昔々に買いためた音源を、何度となく聞き返しているのですが、一番回数が多いのは、『ロ短調ミサ』ということになりました。

ちなみに、手許には、
◯ピリオド楽器の演奏
 ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ
 ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
 パロット指揮タヴァナー・コンソート&プレイヤーズ
 アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン
◯近代楽器の演奏
 マリナー指揮アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
 コルボ指揮ローザンヌ室内オーケストラ
 リヒター指揮ミュンヘン・バッハ・オーケストラ
の7種類があります。

この内、ピリオド楽器の演奏に関しては、また別途扱うとして、ここでは近代楽器の演奏で対照的なコルボ盤とリヒター盤の比較をしたいのね。
ただし、考えがまだまとまっていないので、ここではエスキースのみ。

リヒター盤を聴いて、小生がまず感じるのは、その緊迫感。
出だしの「キリエ」からして、何が起こるのか分らない、けれどもきっと飛んでもないことが起るんじゃないか、と思わせる緊張があります。
この緊張あるいは緊迫感は、盤を通して一貫してあるものです。

一方、コルボ盤は、その演奏の(あるいは音の)美しさに惹かれます。
殊に合唱の見事さは、特筆大書すべきでしょう。
また、近代楽器ですので、管楽器の輝かしさも、忘れてはならないでしょう。

以上の2つの演奏を、一言で表すなら、リヒター盤の「宗教性」とコルボ盤の「審美性」ということになりそう。
その依って立つ由縁については、改めて論じたいと思います。