十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

秋月龍珉師の誤解だらけの佛教21

2018年06月16日 | 佛教

第七章 なぜ「梵我一如」は佛教でないか
「梵我一如」に対する違和感

省略

「梵我一如」と「般若直観」の違い

「佛法には、(無我)にて候」という蓮如の言葉こそ、私たち佛教徒の基本信条であ

る。佛教の基本思想は「無我」すなわち「アン・アートマン (ニル・アートマン)」である。これに対して、ヒンドゥイズムの正統的な哲学の中心思想は「我」(自我)すなわち「アートマン」である。「我」こそ、輪廻の主体であり、また生死からの解脱の主体アートマンである。ヒンドゥ的な考え方は、常にこの〝輪廻と解脱の主体″としての「我」を前提とする「有我説」である。ここが「無我説」に立つブディズムとヒンドゥイズムとの根本的相違点である。
 
 バラモンの「祀り」によって、神の恩寵を受けて、「不死」の世界に趣くという考え
方の底にも、この有我説があったし、そうした見方に変えて、宇宙の絶対者たるブラフマンと個我であるアートマンとが本来一つであると知ることによって、「梵我一如」によって、「不死」となるという考え方の底にも、この有我説があった。ヒンドゥの宗教は、すべて 「我」が何らかの意味で「不死」を得るという有我説であった。

 釈尊も、また輪廻からの解脱を求めた。その意味で、ヒンドゥ伝来の不死の獲得を
目ざしたと言ってよいであろう。現に、悟った釈尊は、「私は(不死)を得た。私は鹿野苑で、(不死)の法鼓を打つであろう」と宣言している。ただ佛陀は、そのことを「無我」の体験によって ー より正確に言えば、「無我の我」の自覚によって ー 確立し得たのである。すなわち「法」 - 「無我の我」の真実 - を悟って佛陀に成ることによって、佛法的な「不死」の道を開拓したのである。釈尊もまた輪廻からの解脱の道を探し求めて出家修行し、その結果として「法」を悟った人である。

 「法」とは何か。「法」は〝宇宙と自己の真理・真実″である。そして、それを釈尊が悟って、人々に〝説いた教え″である。

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