いぬぶし秀一の激辛活動日誌

おかしな議員[わんちゃん]の激辛日誌です。日々感じたこと、活動報告、行政への提言など、本音で書き込む人気ブログです。

拝啓 小沢民主党代表 (産経新聞社 正論10月号より)

2007-11-08 | Weblog
 小沢民主党代表の大連立から辞意表明、撤回とここ数日間、日本が振り回された。ここに正論10月号に寄稿した拙文を再掲し、改めて今回の騒動の真髄を考える参考にして頂きたい。原稿用紙30枚分と長文のため2日間にわたることをお許し願いたい。また、PDFにしろ、というお叱りも頂きそうだが、なるべく多くの方にお読みいた頂くため、とご理解願いたい。

あなたの変身は、国民を裏切っていませんか
             自由党代表  犬伏 秀一

 参議院選挙で圧勝し、政局の主導権を得た時の人であるあなたに、このような僭越なお手紙を差し上げるご無礼をお許しください。私には、今のあなたがかつての小沢一郎と同じ人物だとはどうしても思えないからなのです。
 
《犬伏氏は昭和31年東京都生まれ。現在大田区議。与党が役所の政策決定を牛耳り、野党は官公労の既得権維持に走る。55年体制下の地方議会では、こんな光景が当たり前だった。犬伏氏はこうした構図に果敢に挑み、役所や学校の癒着体質を糺す活動を展開してきた。公務員や教員から目の敵にされたが、こうした独自の活動で当選3回を果たした異色の地方議員だ。
一方で南京事件を不当に歪めて描いた本宮ひろし氏のマンガ「国が燃える」に憤慨。抗議活動を展開し、連載休止に追い込んだり、元航空自衛官だった経験から、現在も予備自衛官であるなど、地域エゴに染まらない国家を見据えた活動でも知られる。

 そんな犬伏氏にとっての政治の原点は、小沢一郎との出会いだ。小沢氏に心酔し、氏が掲げる「日本一新」に集った。ところが、自由党はやがて解党。しかし、犬伏氏は、小沢氏が民主党に合流し、党を去った今も小沢イズムを掲げ、たった一人で自由党の旗を守り続けている、全国でただ一人の自由党議員(代表)だ。本稿は参院選に勝利し、これから政権奪取をうかがう、かつての「師」小沢氏に対する〝公開質問状〟であり、小沢一郎論である》

 私があなたと初めてお会いしたのは、平成6年の春でした。大田区選出の都議会議員、松原仁氏(現民主党衆議院議員)からのお誘いで参加した新生党大田支部設立大会の席です。その席であなたが語った「国を憂いる心」に、私は大いに感動し、支部常任幹事を即座にお引受したのです。しかし、あなたの講演の後に登壇された「新生党第一期区議会議員候補者」の皆さんは、あまりにも弱々しく、私はそのギャップを松原都議にぶつけたのです。すると、翌日から松原都議から私への「区議出馬攻勢」が始まりました。そんなに言うなら、お前(私)が区議選に出ろ、とおっしゃるのです。その頃私は、年商10億円を超える旅行会社の経営者でしたので、何度もお断りしましたが彼の攻勢は止りませんでした。そこで、平成6年8月、ついにお受けすることに致しました。それは、松原都議の執拗な口説きに負けたのではなく、小沢さん、あなたの「国を変える」思いに賭けようと思ったからなのです。
 
 特に感銘をうけたのは「全国を300の市」に再編成し、身近なことはすべてこの「基礎的自治体」に行わせるとの、地方分権基本法構想でした。権限も財源も地方に移し、国は必要最小限の関与しかしない。さらに都道府県を廃止し、一層制の地方自治、という発想は、今でこそその一歩を踏み出していますが、当時はあなた以外には誰一人として言い出さなかったことです。
 
 決断した翌日から「新生党」の名刺を持ち、区内を歩き始めました。松原都議から教えられた選挙必勝法は「毎日駅頭演説6ケ月」。区議ならこれだけでいける、との、今振り返るとなんとも無責任なものでしたが、政治は素人の私は、その言葉を信じ、毎日駅前に立ちました。有権者には「新生党」の名刺はえらく評判がよく、自民党政治に不信感を持つ多くの良識派国民が、あなたの強力なリーダーシップに期待していることがひしひしと伝わってまいりました。
 
 小さな政党ゆえ、私のような区議候補者であっても、国会議員と親しく話しが出来、また、身近に感じながら国家について議論が出来る、アットホームな新生党の環境は、とても気にいっていました。経世会時代から継続されている初秋の箱根研修会も楽しい行事でした。党所属の国会議員、地方議員、支持者が3日間、外出禁止の研修所で、政策研修をし、酒を酌みかわし、スポーツに汗を流す、という盛りだくさんの研修会でした。そこで出会った多くの若者が、今では民主党の国会議員として活躍されている姿を見ると、感慨深いものがあります。きっと、大政党になってしまったので、もう開催されていないのでしょうね。 
 
 ある年のスポーツ大会では、飛び入りのあなたと卓球に興じている私の写真が全国紙に掲載され、他の研修生から羨ましがられたものです。研修講座での、選挙の鬼を自称されるあなたの必勝法は、ノンビリムードの研修生には、大きな喝として響きわたりました。「おまえさんたちは、もっと地元、選挙区に入り込んでいかなければダメだ。私は、今でこそ行かないが、選挙区の誰の孫がどうした、あそこの婆さんは今どうしている等、すべて知っていた。国会を目指すなら戸別訪問3万件、辻説法5万回」と。私は、あなたの話を聞けば聞くほど、そして、お会いすればお会いするほど、小沢一郎という稀有な政治家に傾注していきました。この人についていけば、日本を変えることが出来る、青臭いかもしれませんが、当時30歳代初めの私は、本気でそう信じていました。

■新生党から新進党、自由党結党へ
         政治の師だった小沢氏

 ところが、平成6年12月新生党は解党され、公明党衆議院議員(参議院と地方議員は除く)と大同合併をはたし、新進党となったのです。私たちが、必死の思いで「新生党」の名刺を配り、ポスターを貼りまくったのは何だったのだろう、といささか不満も覚えましたが、政権奪取、国を変えるのだ、という思いもありました。「創価学会と合併するのか!」と街で言われながらも、旧公明党代議士が試験官となった「新進党公認審査」を受け、12月10日、横浜で挙行された「新進党結党大会」は、そのハデな演出と、力強い結党宣言に、体が武者震いしたのを鮮明に覚えています。会場周辺には、政権政党が派遣したであろう多くの街宣車が、大音量で妨害を繰り返していましたが、それすらも「新しい日本」の門出のBGMに聞こえたものでした。あの時壇上にいらしたあなたは、本当に輝いて見え、私は、あなたがきっと総理大臣になり、日本が変わるのだ、と確信したのです。
 
 翌年の区議会議員選挙では、新進党候補4名のうち、私を含む3名が落選し、辛うじて松原都議の秘書だけが当選をいたしました。ちなみに、新進党に合流しなかった公明の区議候補は全員当選。にわか作りの政党の悲哀と、自らの選挙戦法の甘さに、立ち上がれない程のショックを味わいました。
 
 その後、しばらくはあなたのことは忘れ、もっと政治について学ぼうと、大前研一氏が主宰する「一新塾」の門を叩き、彼の提唱する「平成維新」を学びました。しかし、この塾で、大前イズムを学べば学ぶほど、あなたが提唱された「日本改造計画」と類似していることに気づきました。また、残念ながら大前氏の評論家的運動にも限界を感じたのです。そんな時、将来新進党への合流を予定していた、旧公明党の参議院議員と地方議員の政党「公明」が、合流せず、新進党に参加していた旧公明党衆議院議員とともに新公明党を、旧民社系議員も新党を結党するとのことが伝わってまいりました。
 
 この頃は、あなたや新進党から距離をおいていましたから、具体的な事情はよく知りませんが、どちらかと言えば好感を持って、このニュースを聞いたのを覚えています。そして、このことを契機に新進党は分党されていったのです。ときは、平成9年の年末だったでしょうか。翌10年には、自由党が結党され、あなたが党首に就任をされました。いかにも、すぐ解散しそうな浮いた名前の新党が乱立した当時、自由党という歴史ある名前の政党の誕生に、今一度、あなたが総理大臣になる夢を抱いたのは私だけではなかったはずです。
 
 7月には自由党初の参議院選挙がありました。自由党参議院選対からチラシやらポスターが送られてきました。暑い夏の選挙でしたが一生懸命ビラを配り、ポスターを貼りました。投票日には、自由党の開票立会人として開票所に深夜まで詰めていましたが、自由党と書かれた投票用紙が机のうえに次々と積まれていく光景に心は躍るばかりでした。結局、わが自由党は東京地方区に候補者がいないにも関わらず、大田区で3万票を超える得票を得たのです。そして、小さな政党であったにも関わらず、6議席を確保し、非改選とあわせ12議席となりました。新進党の分党でいささか気落ちされていたあなたにも、大きな朗報であったことでしょう。さらに、翌年1月15日に発足した小渕内閣に参画、閣僚(野田毅自治大臣兼国家公安委員長)を輩出することになりました。
 
 この頃、私の選挙区で、あなたにとても助けられる事件が起こりました。忘れもしない平成10年12月29日のことです。あなたは大田区羽田にある料理店に突如お越しになりました。私は、たまたま近所で町内会の夜回りの打ち上げに参加していましたので「党首来る」の報に、すぐさま料理屋に駆け込みました。日本酒が好きなあなたは、すでにご機嫌で、このときとばかり私はある作戦に出たのです。「党首、この町の町会長が近所で飲んでいるのですが、お連れしてもいいですか?」との私の問いかけに、あなたは「お連れしなさい」と快諾されました。選挙区で徹底してドブ板をしろ、と教えるあなたは、さすがです。党所属の地方議員候補(当時)でも、そのドブ板選挙の手助けをしてくださいました。
 
 作戦というのは、この町会の町会会館建設についてのことです。町会役員の皆さんが廃品回収で資金を蓄え、必死に土地を購入し、運輸省(当時)の飛行場周辺対策事業の補助金1800万円と大田区の補助金で会館を建設しようとしたところ、当初羽田空港の補助金対象騒音レベル区域内にあったこの土地が、空港滑走路の沖合い移転により、対象区域外になってしまったというのです。
 
 この法律条文を読むと『騒音レベル区域内に居住する住民のための施設に補助金を支給する』とあり、施設そのものが騒音レベル区域内になければいけない、とは書いていないのです。この町会のほとんどの世帯は、対象騒音レベル区域内にあり、当然適用されるべきでしたが、お役人は一度ダメと決めるとなかなか誤りを認めてくれません。勿論、一介の区議会議員候補が運輸省に掛け合ったところで、相手にすらされないでしょう。そこで、あなたのトラ(失礼!)の衣をお借りしようと考えたのです。
 
 ほろ酔いの町会長のもとに戻り、小沢党首が来ていること、運輸省の補助金について直談判して欲しい旨を話しました。その後、料理屋の座敷で、あなたと向かい合って座った町会長が、日本酒を酌み交わしている姿を見て、私はさらに感動したものです。日本酒がお好きなあなたは、党所属の我々は勿論のこと、国会議員のお酌ですらも受けず、手酌で飲まれるのが常だったからです。それが、党所属候補の選挙区の町会長であれば、お酌を受ける、選挙や同志に対する気配りの凄さを痛感し、感謝した一瞬でもありました。
さて、作戦通り町会長は「党首、なんとか補助金を出してください」と、あなたに懇願されました。すると、あなたは「わかりました。大田区のことは犬伏君に任せているので、彼を通じてやってみてください」と応じられました。私は、この「わかりました」の言質を取りたかったのです。
 
 正月明けに、運輸官僚出身の党所属国会議員とともに運輸省を訪問し、法律条文の解釈を説明し「なお、本件は小沢党首も了解していることです」と付け加えたのです。いささか無理がありますが「了解」と、あなたのトラの衣をお借りしました。すると、なんと1ケ月後の2月、大田区を通じ補助金内定の通知が届き、町会役員さんとともに、あなたのお名前の重みに感謝したものでした。当時、私は区議の候補予定者の分際でしたが、この事件を契機に、この地区での認知度は格段にあがり、8年以上たった今でも、新年会などで町会長の隣席は私の指定席となっています。ただ、後日、あなたの秘書さんからは「党首の名前を簡単に出すな!」と叱られましたが……今更ですが、本当にありがとうございました。

■小沢イズムの実践と自由党分裂の悲劇

 さて、その後行われた区議会議員選挙では、私は、新進党候補だった頃の倍以上の得票を頂き、初当選を飾ることができました。街頭演説や、選挙活動を通じて「小沢さんのところの政党か?だったら応援してやる」との声をたくさんかけられ、自由党を、そして、あなたを選んで本当に良かったと痛感したのです。区議になった私は、他の議員と会派を組まず、一人で「大田区議会自由党」を称し、あなたの持論である「日本一新」を目指して改革に努めました。特に『地方財政の10%を削減すれば、住民税所得税を3割減税できるし、消費税4%相当の財源が出来る』とのあなたの提案は、一般国民にもわかりやすく、今でも拝借しています。また、あなたが訴えていた教育改革の一環としての「新・教師聖職論」を実践するため、教育労働者を標榜する教員や、日教組や全教(共産党系)と戦い続けてまいりました。
 
 その結果、1期目を終わる頃には「お役人、教員の天敵」という、とても名誉ある称号を頂くことになりました。2期目の選挙は、経営していた旅行会社が同時多発テロの影響で倒産し、私自身も連帯債務の処理で自己破産すら検討した時期でしたが、そのことをあからさまに語ったことがかえってプラスに働き、当選者50名中9位で当選出来たのです。このことは「犬伏は、会社を潰してもうだめだろう」とウワサしていた人々には、脅威の目をもってむかえられました。当時私は「やっぱり一生懸命やった結果だ」と、内心いささか誇らしげでもありました。ところが、その好成績での当選は、小沢さん、実は、あなたのお陰だったことは、最近になってようやくわかったのですが、そのことは後ほどお話します。
 
 さて、初当選以来、私は自由党員として、自分で言うのもはばかられますが、必死に党勢拡大と、あなたの「日本一新」思想の普及に努めておりました。自由党東京都総支部連合会では常任幹事を、また平成12年の総選挙では、東京都連遊説隊長、翌年の参議院選も選対で働きました。悲しいかな比例選挙で当選した衆参国会議員の多くは、2期目当選時の私と同様、それが自らの力だ、と誤解されていたのは誠に残念でした。実は、自由党、いえ、小沢一郎という稀有な政治家の力で当選していたことは、その後、彼等が落選したり、党を移動してみないとなかなか理解できないものなのです。
 
 平成12年春には、あなたにとっても思い出したくない出来事がありましたね。「政策の実現が出来ないなら連立を組んでいる必要はない」と、自自公連立離脱を決断したあなたに、大臣や政務次官の椅子に恋々とし、与党に残りたい多くの議員が反発した、あの事件です。あなたは多分、26名(当時自由党所属議員は50名)もの同志が出て行くとは思ってもいなかったでしょう。それも、かつての盟友である西川太一郎氏、二階俊博氏、中西啓介氏の離脱には、さぞかし悔しく、残念だったことと思います。
 
 ただ、あなたの素晴らしいところは、議会内での政策論争以外では、決して人の悪口を言わないことです。あなたの元を去った多くの国会議員は、機会ある度に、あなたがいかにひどいかを発信していますが、あなたはそのようなことを口にされることはありません。きっと、それが品性のない私や彼等と、あなたとの人間的な器量の大きな違いなのでしょう。
 
 自由党を離脱し、政権に擦り寄った保守党のその後は哀れでした。2ケ月後に行われた総選挙では、保守党は7議席しか獲得できず、わが自由党は4議席増やし22議席に躍進、その差は歴然としていました。ただ、うまく立ち回り、自民党に戻ったあの時の裏切り者達が、いまや自民党内で時の人となっているのは、なんとも腹立たしい限りです。

(以下、明日へ続く)



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