先日のことです。
高校の化学、基礎的な一問にどうしても手がつかず、
仕方なく理系の先生に教わることになりました。
(知り合いの塾に電話して教えを乞いました)
「これは理科特有の言い方で、○○は何価ということを
前提として計算する問題なのです。」
なぜ~価として決定できるのか、それが出来なければ計算は
どうすれば出来るのか、悩んだのがバカみたいでした。
○
今、算数の問題集が目の前にあります。
昔から塾では定評があるもので、この中から無断引用しますね。
(数字は変えておきます)
『重さが1kgのかごに、くだものを4kg入れてくだものかご
を作りました。くだものの重さは、くだものかご全体の重さの
どれだけにあたりますか、割合を答えなさい』
答えは4÷(1+4)=0.8 8割などと答えても可。
ところがこれが理解出来ない子が多いのですね。
かご+くだもの=くだものかご、という日本語が分からないのです。
かごは、果物のかごだから(くだものかご)となるらしい・・
比べる量÷もとにする量=割合
これだけでも理解が大変なのに、日本語でも迷わされています。
もちろん問題集にケチをつけるわけではありません。
算数における国語の大切さ、も重要な課題ですから。
(「果物かご」という日本語はちょっと古いけれど)
別の学年を引きましょうか。
「縦30cm横50cm高さ45cmの直方体の水槽がある。
これに一杯に入っている水を正四角柱の水槽に入れたら
水の深さが30cmになった。」
正四角柱の一辺を出す問題の一部です。
普通、30cmの水の深さは正四角柱をさすと思われますが
もとの直方体の45cmが30cmになったと解する生徒もいます。
(別のことから後者は間違いと分かる問題ですが)
これも日本語!ですね。
○
これらは先生が注意して生徒を見ていれば「日本語」が
問題であると気づくことですが、うかつに接していると
算数数学の理解不足と誤解する恐れがあります。
生徒も日本語の問題を解決できないまま、解き方だけを
写していては勉強が不十分になるかもしれません。
日本語がしっかりとしていれば何ら悩むことではない
のですけれども。
○
私だけの感触でモノを言うのですが
「通常なら日本語ではこういう意味である」ということが
伝わらない生徒が増えているのではないでしょうか。
(算数数学で理解力応用力がないのも関係がありそう)
簡潔な表現や省略された部分を正しく読みとる能力が
日本語では大切です。
それが日本人の長所にもつながるのですから。
すでにある日本語を正しく使うことができないのは
上記の部分の弱さ(=学ぶ難しさ)が関係しています。
ところが昨今は大人までも頭を使わなくなり
直接的な「分かり易い」表現ばかりチマタに溢れています。
これでは子供の日本語が伸びるわけがない。
教育は社会(同世代の子供も含む)も行うのですから。
くだものかごの例は氷山の一角です。
思考力さえあれば正しい理解をしやすいとも言えます。
日本語が弱い→思考力が伸びない→日本語が弱い
この悪循環にはまっている子供が多いのではないかなあ。
○
類題を多数こなして平均点を上げる(幼稚な方法)で
算数数学の国際順位を上げようという発想はオソマツ。
教育界の偉い方たちも皆さんお気づきのハズですが
原発村と同じで?皆で気づかないふりをしているのでは
ないかと勘ぐっております。
日本語力の向上は難題だから。
小学校での英語学習も大切でしょう。
しかし、まず日本語!
言語というものは意思疎通のための道具でありますが
同時に(思考するための道具)でもあります。
道具がガタガタでは思考力が伸びるわけがありません。
意思疎通の重要性を否定はしませんが
それより人間の思考のほうが大切なのです。
なめらかではあるが内容がない話よりも
疎通は上手ではないが内容がある話のほうが
よほど重要であるからです。
英語よりまず日本語で思考力の基礎固めですね。
特に10歳までくらいは。
高校の化学、基礎的な一問にどうしても手がつかず、
仕方なく理系の先生に教わることになりました。
(知り合いの塾に電話して教えを乞いました)
「これは理科特有の言い方で、○○は何価ということを
前提として計算する問題なのです。」
なぜ~価として決定できるのか、それが出来なければ計算は
どうすれば出来るのか、悩んだのがバカみたいでした。
○
今、算数の問題集が目の前にあります。
昔から塾では定評があるもので、この中から無断引用しますね。
(数字は変えておきます)
『重さが1kgのかごに、くだものを4kg入れてくだものかご
を作りました。くだものの重さは、くだものかご全体の重さの
どれだけにあたりますか、割合を答えなさい』
答えは4÷(1+4)=0.8 8割などと答えても可。
ところがこれが理解出来ない子が多いのですね。
かご+くだもの=くだものかご、という日本語が分からないのです。
かごは、果物のかごだから(くだものかご)となるらしい・・
比べる量÷もとにする量=割合
これだけでも理解が大変なのに、日本語でも迷わされています。
もちろん問題集にケチをつけるわけではありません。
算数における国語の大切さ、も重要な課題ですから。
(「果物かご」という日本語はちょっと古いけれど)
別の学年を引きましょうか。
「縦30cm横50cm高さ45cmの直方体の水槽がある。
これに一杯に入っている水を正四角柱の水槽に入れたら
水の深さが30cmになった。」
正四角柱の一辺を出す問題の一部です。
普通、30cmの水の深さは正四角柱をさすと思われますが
もとの直方体の45cmが30cmになったと解する生徒もいます。
(別のことから後者は間違いと分かる問題ですが)
これも日本語!ですね。
○
これらは先生が注意して生徒を見ていれば「日本語」が
問題であると気づくことですが、うかつに接していると
算数数学の理解不足と誤解する恐れがあります。
生徒も日本語の問題を解決できないまま、解き方だけを
写していては勉強が不十分になるかもしれません。
日本語がしっかりとしていれば何ら悩むことではない
のですけれども。
○
私だけの感触でモノを言うのですが
「通常なら日本語ではこういう意味である」ということが
伝わらない生徒が増えているのではないでしょうか。
(算数数学で理解力応用力がないのも関係がありそう)
簡潔な表現や省略された部分を正しく読みとる能力が
日本語では大切です。
それが日本人の長所にもつながるのですから。
すでにある日本語を正しく使うことができないのは
上記の部分の弱さ(=学ぶ難しさ)が関係しています。
ところが昨今は大人までも頭を使わなくなり
直接的な「分かり易い」表現ばかりチマタに溢れています。
これでは子供の日本語が伸びるわけがない。
教育は社会(同世代の子供も含む)も行うのですから。
くだものかごの例は氷山の一角です。
思考力さえあれば正しい理解をしやすいとも言えます。
日本語が弱い→思考力が伸びない→日本語が弱い
この悪循環にはまっている子供が多いのではないかなあ。
○
類題を多数こなして平均点を上げる(幼稚な方法)で
算数数学の国際順位を上げようという発想はオソマツ。
教育界の偉い方たちも皆さんお気づきのハズですが
原発村と同じで?皆で気づかないふりをしているのでは
ないかと勘ぐっております。
日本語力の向上は難題だから。
小学校での英語学習も大切でしょう。
しかし、まず日本語!
言語というものは意思疎通のための道具でありますが
同時に(思考するための道具)でもあります。
道具がガタガタでは思考力が伸びるわけがありません。
意思疎通の重要性を否定はしませんが
それより人間の思考のほうが大切なのです。
なめらかではあるが内容がない話よりも
疎通は上手ではないが内容がある話のほうが
よほど重要であるからです。
英語よりまず日本語で思考力の基礎固めですね。
特に10歳までくらいは。
英語は、高度の考えを編み出すために適した言語である。
英米人の高等教育は、子供には学習が難しい彼らの国語 (英語) 教育である。
我が国には、英米流の高等教育は存在しない。
修業年限を英米と同じにするなどの教育制度の確立だけでは、高度な職業人を育成することは難しい。
我が国では最初から最後まで行われている丸暗記 (rote memory) と受け売り (regurgitation) の修行では、自らを決することが難しい。
これを「教養がない (uneducated)」という。子供のような状態かな、赤子かな。
自らを決することのできない人たちには、論点を定めることができない。
自分の意見を大声で言う、
相手をこき下ろす、
相手がしゃべっている最中に反対意見を言うなど、「議論をすれば、喧嘩になります」という事態が事実になる。
議論と無礼は同等と見なされているのかもしれない。
だから、礼儀正しい日本人は誰も議論をしたがらない。
いつも静かに笑っている。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、もって万世のために太平の世を開かんと欲するのみである。
少しおかしくはありませんか。
自分に必要なものを、自分自ら手に入れるのが大人の態度でしょう。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
仰るように、明治になって学校教育を始めた際に大いに意識していたであろう欧米風教育、思考法などは結局消化不十分のまま現在に至っております。
しかし私は欧米風でなきゃ「高等に」ならないとは考えづらく思っております。西洋がアラブから科学を学ぶときにすべてをアラブ化しなかったのと同様です。取り込めばよろしい。
坂本龍馬だって夏目漱石だって日本語で勉強を始めていますから、日本語も捨てたもんでもないでしょう。
百歩譲って欧米風になるべきと仮定しても英語でなければならないという考えには保留をつけたいですね。なるべきとした森有礼だって、英語の著作が評価された岡倉天心、新渡戸稲造などなど、日本語では考えていなかったとは思えません。マザータングの日本語ができてこそ外国語も身につくのです。
もちろん英語をないがしろにしようという考えは狭量にすぎます。
日本語すら危ないのに早くから英語教育を始めることへの疑問を抱くだけです。個人的に知る例では十人を超える例でティーンエージャ-から英語に集中してマスターできております。
英語は当然として第二外国語から先が勝負というのが私の持論でもあります。幼くして勉強を始めても良いのでしょうが日本語があやしくなっては何のためになるでしょう。
日本人も自分の文化を大切にしてこそ国際人になれると思いますが、それらは全て日本語で出来あがったものです。自分の土俵を大切にしなければ英語圏の人と伍してはいけないでしょう。
日本語で考え意思疎通をし、マトモな人間も多いハズですからこれを大切にしたいと考えております。(私は日本語でしか考え、かつ意思疎通ができない・・)
日本語重視と国際語としての英語(そうなっちゃったんだからもう仕方ないよね)を大切にすることと矛盾するものではないと思います。
日本語は国際語ではないけれど長所も多い言語であろうと思います。
大切なのは成長時期にあわせたプライオリティーですよね。