噛みつこうにも歯が立たないが

2011-09-20 15:50:11 | 塾あれこれ
広辞苑や天声人語というと、評価が確立し
いまだに金科玉条として崇める方も多いと聞きます。

広辞苑は高島俊男さんが『お言葉ですが・・・』の
シリーズでこてんぱんに書いておられ、そのセイか
最近「広辞苑には~と書いてある」式の文章を
見かけることが減ってきました。

もちろん天下の広辞苑です、たかが「高島ごとき」が
何を言ってるか知らないが・・という方もおられるでしょう
文春文庫のシリーズに当たって判断頂くしかありませんが
私はオオムネ高島先生の方に軍配を揚げたいと思います。

天声人語に対しても評価の低い文章を書いておられたと
思いますが、天声人語のレベルも下がってきている風に
私は思いますね。
伝説の深代惇郎さんのように書け、というのも酷ですが
二人で一日おきに書いていて、あの程度なんですかねえ。
日本語がひどくなっている象徴かもしれません。


先日、の天声人語です。(9/17)

ら抜き言葉が肯定されてきた、と書いています。

ご存じのように学校文法では、「れる」は「ある」以外の
五段活用の未然形とサ変の未然形「さ」に接続し
「られる」は上記以外の動詞の未然形に、うんぬん
と明確な決まりがあります。

「見る」ならば「見られる」が正しく
「見れる」は誤用。(関西なまりです)

それに対して、天声人語は文化庁「国語に関する
世論調査」というものをひき「来れる」は過半数の
人間が使っているから近い将来誤用とは言われなくなる
と断定しておられます。

国語に「世論」調査というものがなじむことかどうかも
問題だとは思いますが、
誤用かどうか、多数決で決められることなんだ?
知らなかったねえ。

51%を取れば勝ちなのでしょうか?
80%なら良い?・・・だれが決めたのでしょうかねえ。
あとの20%がチョー不快に思っても使って良いの?

言葉というものは相手が嫌がることは避けるのが常識で
過半数で決定していけないものもありますよね。
中国人が「支那」という語を忌避するならばこちらは
使わないのが当然で、その代わり日本への悪表現もダメ!

(話が飛ぶワケではなく)上記と同じ気遣いが言葉全般に
必要であり、若者言葉は仲間内であれば構いません。
私だって流行り言葉を使っていました。

それを会社で上司に言ったか?・・・まさか、ね。

今なら「ヤバイのガッツリ行きましょうよ」くらいは
言いかねません。
上からの強制力が弱くなり親しみを込められているのか
はたまた、なめられているのか

使う若者も別の言い方があることは知っている筈で
クラブの先輩に不用意なタメグチは叩きません。

もっとも、近年は改まった言い方か、くだけているのかの
認識すらアイマイになってる人も増加中かもしれません。

目上の客に「来れます」と言っていいと
天声人語がお墨付きを与えているくらいですから。

本来ならば「不快に思われる人もおられる」と
諭すのが年寄りの役目じゃありませんか。
バカモノに迎合してどうしますか。

(勿論、学校文法が全て正しいという訳ではありません)


天声人語、続きに何が書いてあると思います?

ら抜き言葉は昔からあったとして、川端康成の『雪國』
駒子のセリフがそうだというのです。

小説の登場人物のセリフが引用に値しますか?
田舎芸者ですよ、
出身や性格を現すための言葉づかいじゃありませんか?

明治の小説に警官が登場し、とある人物が鹿児島弁を
しゃべっている文章があったとしましょうか。
それを証拠に明治維新後は警察官は鹿児島弁を
しゃべってたと断定しますか?

百歩ゆずっても、あくまで一つの例でしかありえません。

なんとも情けない「引用」じゃありませんか。

さすがに『雪國』だけではマズイと思ったのでしょう。
次に学者の新書を引用してハクづけしています。

あのね、学者がどれだけ信用できますか?

原子力学会がいまどうですか?

考古学会は藤村センセの単純な(遺跡ねつ造)を見抜けず
あとで諸先生こぞって大騒ぎじゃなかったですか。
「なんでアレで良いと思ってたんだろう」「恥ずかしい」

この程度の集まりなんですよ。

一種の井戸端会議であると同時に、権威へのゴマスリ機関
自ら考えないで楽をしつつ、素人には威張って見せる
それが学会であり学者の姿です。

そんな学者の新書ごときを引くなよナ。
(引かれた新書の評価ではありません。←未読)

いまの国語学者は「言葉は変わる」「変わってよい」が
流行りであるだけなのです。

「偏った」話であるという自覚は天声人語にはないようで
終わり近くには、突然、略語は多く定着してきた、と
(れるられる)とは何ら関係のないことを言い散らす始末です。

文の最後に至っては、定義も怪しくかつ文意不明の恐るべき悪文で
チャンスがあればまた書きますが、そんなことを書かないと
いけないこと自体が腹立たしいかぎりです。
書いても少数者しか読んでくれないしね。

この天声人語氏は言葉や文章について悩んだことがない方かも
しれませんね。
お幸せな方なのでしょう。
(ちょこっと検索して都合の良い材料を並べ安易に書いた
 としか思えないからです。言葉って悩むことなのに)

PS
変化承認派の方には、たとえば「見れる」は(可能)
「見られる」は(受け身尊敬)と区別できるからよい、
と本末転倒の意見もあるようです。
上記天声人語でも触れています。

「書ける」などと似た新しい可能動詞が増えたと考えれば
「来れる」もよい、という考えも成り立つかもしれません。
なにも五段活用以外の動詞の(可能化)は禁ずるという
法律があるわけではないですからね。

しかし私は、言葉の変化は無原則にしてはならないと考え
上記の考えには賛成できません。

今、子供たちが「行くことができる」という表現に
「行けれる」などと喋っていますね。
「来れる」と同様に新しい可能動詞と認めますか?

タチのわるいユスリと同じく後から後から出てきますよ。

気持ちの悪い言い方は断固否定すべきです。
頑固爺と嫌われようと。