石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都市 右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町 清涼寺宝篋印塔

2007-01-18 22:54:37 | 京都府

京都市 右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町 清涼寺宝篋印塔

清涼寺は嵯峨の釈迦堂、然上人招来の清涼寺式釈迦如来などで著名な寺院。河原の左大臣源融の棲霞観の跡といわれ、念仏系宗派ゆかりの旧跡としても知られる。

08 本堂向かって左、木造の多宝塔と鐘楼の間に、本堂側つまり北から石幢、宝篋印塔、層塔が一列に並び壮観である。その南側の木立の中、多宝塔の裏側で目立たない場所にも宝篋印塔があり、これら4基が南北一20_1 列に並んでいる。いずれも花崗岩製で、北から然上人、嵯峨天皇、檀林皇后、源融の供養塔とされている。(これらは平安時代の人物で石塔とぜんぜん時代が合わない)然上人の石幢は、笠以上後補で他所から近年移された(※1)もの、古い部分の高さ155㎝。檀林皇后塔は寄せ集めで、塔身など一部に平安末(※2)の部材を含む、高さ約3mの古い層塔である。一方、本堂向かって右手、経蔵の南に宝塔と弥31 勒坐像を表裏に刻んだものがある。これは石仏でもあり塔婆でもあることから何と呼ぶべきか、川勝博士、竹村俊則氏は弥勒宝塔石仏(※1、※3)または両面石仏ともいい(※4)、お寺のパンフレットには弥勒多宝石仏とある。いずれも如来坐像を刻んだ面を正面と考えておられるようで、石仏をメインとする考え方である。高さ2.1m、円形の複弁反花座の上に扁平で縦長の花崗岩自然石を立てる。裏面の宝塔はほぼ全面を使って半肉彫りされ、同じく半肉彫の石仏はヘの字型の天蓋を備えた弥勒仏とされる。なお反花座は大部分近年の新補で宝塔正面部分のみ旧物である。(※3)源融塔は後補の相輪を除き各部が揃い、見ごたえのあるもので、通常は基礎、13 笠、隅飾の各部を一石とするところを各々に別石の構成を見せる。すなわち基礎は前後2石の上に反花座を置いて3石としと笠は軒を含む3段と笠上6段の2石、隅飾はそれぞれ別石とする。奈良県南法華寺(壷阪寺)塔との形態類似性を指摘されている。相輪を除く高さ163cm。(※5)

さて、前置きがながくなったが、ここでは従来あまり詳しく記述されてこなかった嵯峨天皇供養塔とされる北側の宝篋印塔(北塔)について紹介したい。この宝篋印塔は源融塔(南塔)より一回り大き く、井桁に組んだ一重の切石基壇上に低い無地の基礎を据え、基礎上に別石の反花座を載せる。反花は複弁の抑揚のあるもので、左右隅弁の間に3弁を配する。左右間弁と中央弁に大きさやデザインに差はなく、弁外縁部を薄く優美な曲線に仕立て中央の複弁の丸みを際立たせる意匠と彫技は出色で、いきいきとし21 た印象を与え、マンネリ化傾向は見て取れない。反花の上部には塔身受が刻みだされ、どっしりと大きい塔身が載る。各面とも月輪を大きく線刻し、金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子の字体は洗練されているが小さい。月輪下方に蓮華座を配する。笠は上下2石からなり隅飾は全て失われている。笠上6段で隅飾があった四隅部分がいずれも下から2段目までが欠損している。一方笠下は一段しかないように見え不自然である。これは本来、別石の軒部が笠の上下の段形の間に挿入されていたものが失われたと解釈できるのではないかと思われる。笠上段形の最下段と笠下上段の幅が、わずかに笠下が上回る程度で、欠損している隅飾が介入できるスペースが十分とれないこと、基礎幅に比して現状の笠下の軒幅が狭すぎることから推定できる。おそらく元々は、現状で軒のように見える笠下上段の厚みよりもやや厚く、基礎幅に近い幅をもった四角い平板状の軒部材が挿入されていたのだろう。これが正しければ、笠上6段、笠下2段、欠損した隅飾とあいまって、一回り以上大きい印象の、どっしりとした巨塔の姿が想定される。軒部材のみを別石とする構造は例がなく、隅飾がどのようになっていたのか気になる。笠上四隅の欠損面が作為的には見えないので隅飾は笠上と一体彫成されていたと考えるのが自然であるが、笠と別石の可能性も否定はできない。別石であったとすれば、笠上の段形は四隅をはじめからへこませて彫成するのではなく、ひととおり四隅まで彫り上げてから隅飾が食い込むスペース部分を後から打ち欠いていたようである。さらに4つの隅飾がそれぞれ別石であったのか、はたまた軒部分の石材と一体彫成されていた可能性もあって謎は深まる。さらに、全体のバランスや石材の様子などからみてその蓋然性はかなり小さいが、今の笠上が別物であることもありえる。笠下段形は塔身との大きさの釣りあいがとれており、別物とは思えない。欠損した隅飾は、南塔(源融塔)同様3弧輪郭付きの大きめのものであったと推定したい。相輪は九輪の七輪以上を欠損するが凹凸がはっきりするタイプ。伏鉢上の請花は単弁のように見える。笠石とのバランス、石材の風化の程度などから当初のものと考えられる。笠下の西側は破損が進んでおり鉄の補強材で補強されている。なお、銘文は確認できない。規模を記した文献を見ることが出来ず、実測(むろん採拓も)などできない外部観察だけで造立年代を論ずると、考古学的アプローチによる石造物研究の諸兄からは、非科学的との謗りは免れないだろうが、あえて試みることを諒承頂くとして、全体規模が大きいこと、安定感のある低い基礎、変則的な石材の組み合わせは、構造形式が定型・普遍化する最盛期以前の特徴を示す。一方、基礎上反花座の彫刻、塔身の種子の書体や月輪蓮華座の形状などは洗練され定型退化の兆候を示している。通常、基礎上のむくり反花は南北朝期以降に流行するが、別石で彫技・意匠に抜群の出来を示す本塔は、その中でもごく初期に位置づけられよう。正和2年(1313年)銘の新京極誠心院塔や正和5年(1316年)銘の大原勝林院塔を参考とすべき類例とし、これらと前後するか、むしろやや遡る時期、つまり14世紀前半でも早い時期の造立と推定したいが、いかがであろうか、諸雅の叱正を請いたい。

参考

※1 竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 146~154ページ

※2 川勝政太郎 『京都の石造美術』 61~62ページ

※3 川勝政太郎 『京都の石造美術』 51~53ページ

※4 川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 146ページ

※5 川勝政太郎 『京都の石造美術』 115ページ


滋賀県 野洲市三上 西養寺宝篋印塔

2007-01-17 22:15:24 | 五輪塔

滋賀県 野洲市三上 西養寺宝篋印塔

02御上神社の北西、三上の小中小路集落の中央に西養寺がある。無住のように見受けられる小寺院だが、境内の手入れは行き届いている。境内南隅の鐘楼を右手に見て山門をくぐると本堂向かって左手に無縁の石塔石仏類が雛壇式に高く積み重ねられている。最上段中央のやや大きい五輪塔を中心に、小型の宝篋印塔や多数の一石五輪塔があり、一石五輪塔のほとんどは、小型で白っぽくキメの粗い花崗岩の粗製のもので、近江では広く見られるタイプのものであるが、中段中央付近に、調整の丁寧な、一見すると四石組み合わせ式の五輪塔と見まがう程に整った一石五輪塔が2点並んでおり、注目される。花崗岩製と見られ、銘文があるようにも見えるが、雛壇の下からは確認できない。室町後期でもやや古い頃のものであろうか?

15_2山門の西側は細長い墓地になっており、南西隅の生垣に接して置いてある巨大な宝篋印塔の上部が一際眼を引く。笠と相輪のみで、塔身、基礎は見られないが、高さは目測で2mはある。笠の軒幅は1辺が約95cmもあり、復元すれば10尺余もあろうかという巨塔で、昭和40年代に広くこの地方の石造美術を調査された故・田岡香逸氏の昭和49年頃の知見によれば、近江最大の宝篋印塔(※)とされているものである。花崗岩製。笠下は埋まっているが、2段までは確認できる。笠上は7段で、5段の上にさらに2段を別石で載せている点はあまり例がない。規模が大きすぎて製作便宜上石材を分割したのだろうか。別石部の接合面下部に納入孔が設けられている可能性もありうる。隅飾は1個が欠損しているが、軒と区別して直線的にやや外反する三弧輪郭付、輪郭内には蓮華座上に月輪を陽刻し、その中に種子を陰刻している。種子ははっきり確認していないが、各面同一のものではなく、ウーン、バクらしいものがあるが不詳。相輪は珍しく完存している。宝珠、上下請花、伏鉢の曲線はスムーズで、九輪は凸凹をはっきり彫り出し、請花は風化により確認できないが、上が単弁、下が複弁と見られる。笠は全体として幅広で安定感があり、隅飾内の蓮座の蓮弁表現もしっかりし、相輪宝珠の完好な形状などを考慮すると、所謂典型的な鎌倉後期様式が完成期を迎えた最盛期ごろのものと考えられる。規模が大きく隅飾3弧で、蓮華座を伴う月輪内に種子を配する点や笠上を7段とする点などの特長を鑑み、細かい相違点はあるものの嘉元2年(1304年)銘の日野町十禅師の比都佐神社塔や正安3年(1301年)銘の近江八幡市上田町篠田神社塔などが参考になると思われ、具体的には14世紀初頭から前半のものと推定したい。

残存するのは笠以上のみだが隅飾1箇所を欠く以外は保存状態良好。規模が大きいわりに間延びしたようなところはなく、形状もよく整い装飾意匠も行き届いた優品で、基礎や塔身がないことは誠に遺憾である。

参考

※ 田岡香逸 『近江の石造美術3』 民俗文化研究会 72頁~73頁


滋賀県 東近江市市辺町 三所神社石燈籠及び大蓮寺宝篋印塔、三尊石仏

2007-01-16 23:04:48 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 東近江市市辺町 三所神社石燈籠及び大蓮寺宝篋印塔、三尊石仏

06 市辺町集落の中央に三所神社があって、本殿前の玉垣の中に建武4年(1337年)銘を持つ優れた石燈籠がある。高さ203cm、円形の中台は単弁2段葺の複雑な円形の蓮台式、あとは各部平面八角型で、基礎各面に格狭間と開蓮華で飾り、基礎上端は一段の繰り出しを経て複弁反花、竿は上中下とも連珠文、火袋にはひとつおきに四天王を半肉彫りする。竿の中節以下に「右志者為悲母第三年追善、□石女造立所建武四年丁丑12月13日敬白」の銘があるというが(※1)肉眼では確認できない。笠の蕨手、請花宝珠も欠損ない優品である。花崗岩製。

 神社と隣り合うように大蓮寺がある。現在は浄土宗。山門を入って境内の、向かって右、山車か何かの保管庫のような場所の軒下に立派な花崗岩製の宝篋印塔が立っている。抑揚感のある隅弁式反花座24 の上の基礎は壇上積式で、束の表現がなく格狭間を持たない。こうした意匠はあたかも未成品か手抜きのようである。銘文は確認できない。基礎上は2段式。塔身には月輪を廻らせずに金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子の彫りは浅く、文字も小さめで力強さに欠けている。笠は上6段、下2段で、隅飾は軒と区別して直線的に外反し、薄く2弧の輪郭を巻く。茨の位置は低く、輪郭内は素面。相輪も完備しており、伏鉢は半球形で複弁請花が上に続き、九輪は凹凸がはっきりするタイプで、その上に単弁請花、宝珠は重心が中央にあっておおむね完好な曲線を描く。各部完備で総高230㎝(※2)と大きい。全体的バランスがとれた優れた宝篋印塔だが、細かい意匠に手抜きではと思えるような部分があって、退化傾向と認められる。隅飾の特徴や反花座を持つことなどから南北朝期後半から室町初期(※2)の造立と推定される。すぐ隣に接して鎌倉末期の三尊石仏がある。高さ185cm、平べったい自然石の広い面を方形に彫りくぼめ、蓮華座に立つ如来半肉20彫像を三体を並べ、右に「元亨辛酉元年(1321年)4月月日造立了」の紀年銘を刻むほか、下方に「為生阿弥陀仏現在也/為西念房第三年也/為字六母三十三年也」の銘がある。生阿が自身の逆修と西念房という師匠か縁者と思われる僧の三回忌、そして母親の三十三回忌の供養の為に造立したことがわかる。(※3)このほか付近に宝篋印塔や宝塔の残欠が何点か置かれている。ざっと見ても、宝篋印塔の笠が6点、基礎が6点、どれも花崗岩製、ほぼ同じサイズ、元は6尺~7尺塔と推定され、基礎は上2段の2点04_2を除き基礎上を反花とし、壇上積式のもので、四面格狭間を設け、開花蓮や三茎蓮を持つ。笠はどれも上6段、下2段で、隅飾は2弧輪郭で輪郭内は素面が多く、1点は蓮華座と月輪を浮き彫りにして種子を入れている。また、宝塔の笠と基礎が1点ずつある。宝塔は笠下に3段の垂木を刻みだし、露盤と四注の降棟を表現し、基礎は四面輪郭を巻き、3面に開蓮華入格狭間を飾り、1面は輪郭内をやや深く彫りこんで二仏の坐像を半肉彫している。二尊とも肉髻が確認できるので法華経見塔品に説く多宝・釈迦かもしれない。宝塔基礎にこうした表現があるのは多くない。この宝塔の笠と基礎は1具のものかもしれない。これらの残欠は14世紀初めから後半の時期のものと思われ、何故かどれも相輪と塔身が見られない。注意すべきは、これらの基礎束石に複数の刻銘が見られることで、これらは拓本をとれば判読できるはずで、造立目的や年代形式を考えるうえで貴重な資料となるだろう。さらに同じサイズの素面の立方体の部材が1点あり、五輪塔の地輪と考えられる。これらの残欠は付近の田から掘り出されたもの(※4)という。

他にも境内には多数の小五輪塔や箱仏がある。

また、同じ集落内の薬師堂に貞和2年(1346年)銘のよく似た三尊石仏があるので、あわせて見学されることをお勧めする。

 

 

 

参考

 

※1 川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』107ページ

※2 滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』120ページ

※3 川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』162ページ

※4 瀬川欣一『近江石の文化財』78ページ

 

 

 

 

 

 

その後、佐野知三郎氏が『史迹と美術』591号に、大蓮寺の宝篋印塔基礎に正和5年(1316年)並びに正慶元年(1336年)の紀年銘を含む銘文があることを報じておられることがわかったが、上記残欠の内いずれかであろう。なお、『八日市市史』は、もう1基上記宝篋印塔の近くに総高290cmの宝篋印塔があると記述するが現地に見当たらない。

(いったいどこへいったんでしょうか?)


天理市王墓山の宝篋印塔はどこへ?

2007-01-16 21:27:02 | 奈良県

天理市王墓山の宝篋印塔はどこへ?

奈良県天理市上総の王墓山にあるはずの層塔1基、宝篋印塔2基はどこにあるのでしょうか?ご存知の方いっらしゃいますでしょうか?

屋蓋四注形の宝篋印塔が2基もあるということで、かねて訪ねたいと思っていました。

清水俊明氏の『奈良県史』第7巻 石造美術(昭和59年発行)179ページには次の記述があります。「上総集落の東に樹木の生い茂る塚があり、王墓山と呼ぶが、その塚内に宝篋印塔二基と九重層塔がある」。(層塔は十三重説もあるようです。)

昨年、天理市上総を訪れる機会がありました。なるほど集落の東に墳丘状の土地の高まりがあり、これこそ「王墓山」であろうと勇んで駆け上ってみましたが、石塔は見当たりません。樹木はほぼ伐採されていましたので「塚」の上を歩き回りましたが捜せませんでした・・・。まさか盗難にあったのでしょうか?それとも売却されたり移設保存されたのでしょうか?集落の東方にそれらしい塚状の地形は他に見当たりません。

屋蓋四注形の宝篋印塔の代表例として、しばしば諸書に取り上げられている著名な石塔で、2基のうち西側のもは凝灰岩製で鎌倉中期にまで遡るものとされています。失われたとすれば遺憾です。健在を信じたいものです。


奈良県 天理市山田町中 蔵輪寺無縫塔

2007-01-15 22:30:08 | 五輪塔

奈良県 天理市山田町中 蔵輪寺無縫塔

Dscf0789 旧街道沿いの山裾に建つ蔵輪寺は、筒井順慶の母方の祖父で、東大寺大仏の補修や書画で知られる異色の戦国武将、山田道安ゆかりの古寺。石段を上がり、向かって左手の真新しいお堂の裏手に墓地がある。墓地の中央に目だって大きい単制の無縫塔が2基並んでいる。山田道安父子の墓碑である。向かって左の小さい方は、高さ140cm、方形の台座に半球形の請花台を載せ、その中央に大きく天真と陰刻し、判読しづらいが右に元亀2年、左に8月4日の銘があるようである。塔身は下が細く、上にいくにしたがって徐々に太くなり、先端はやや先の尖ったラウンドヘッドの縦長の棒状。台座、請花座、塔身ともに無地。32歳で討ち死にした道安の子息、岩掛城主山田太郎左衛門藤原順清の墓である。一方、右の大きい方は高さ160cm。基礎は円形で半球形の請花台に上方が太く、下が細いラウンドヘッドの棒状で、小さい方と同じ形だが、先端の丸みがやや強い。台座、請花、塔身ともに無地。請花座の中央に月輪を陰刻し、中央に大きい字で道安と刻む。右に天正元年、左に10月21日の銘があるようだが記年銘は見づらい。これが馬場城主雲外道安大居士山田民部大輔藤原順貞つまり道安の墓である。江戸時代の卵塔のように先端の尖りが顕著でなく野趣がある。同寺には父子の位牌もあるという。(※)山田道安こと順貞は永禄6年、井之市城主の福住宗永と交戦して敗れ、落飾して引退、当寺に入って絵画彫刻に勤しみ、松永久秀の兵火で焼け落ちた東大寺大仏の頭部の仮修復に尽力したという。天正元年没。一方、山田太郎左衛門順清は道安の嫡子で、辰之市にて戦死、父道安により当寺に葬られたという。(辰市合戦は元亀2年8月4日、松永久秀軍を筒井軍が撃破した、大和最大の野戦として知られる。戦いの舞台となった辰市城は現在の奈良市西九条町付近にあったとされる)Dscf0809_4

無縫塔の周辺には多数の宝篋印塔や五輪塔などが立ち並び壮観である。これらは山田一族の累代の墓碑と思われる。どれも小型で、ほとんどが複弁反花座を持ち、いずれも室町~江戸初期のもの。無縫塔の傍らには笠上7段の宝篋印塔笠残欠が転がっており、無縫塔のすぐ背後にある宝篋印塔の基礎の残欠には文明3年(1471年)銘がある。宝篋印塔の基礎の格狭間はどれも退化形式。そのほか、墓地には、ざっと見渡しただけでも、文明15年(1483年)銘の宝篋印塔基礎や天文5年(1536年)銘の一石五輪塔、天文18年(1549年)、大永2年(1522年)、大永7年(1527年)、弘治3年(1557年)銘を地輪に刻んだ五輪塔など、有銘の石塔がかなり目に付く。詳しく調べればさらに多くの銘が見つかると思われる。ただ、惜しむべきはその多くが寄せ集め状態と思われる点で、中には宝篋印塔と五輪塔が混積されているものもあり、何度か倒壊して積み直されたのであろう。組み合わせ式の五輪塔の数が多いが、宝篋印塔のパーセンテージもかなり高い。ほかにも舟形板碑形五輪塔、半裁五輪塔、一石五輪塔、箱仏など15世紀代から16世紀代にかけての石塔や石仏のオンパレードの様相を呈しており、しばし時が経つのを忘れさせる。静かな境内に野鳥の声が響き、戦国の異才、山田道安を偲び、その謎に満ちた波乱の生涯に思いをはせるのである。

参考

※ 清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術 369~370ページ

そのほか、現地案内看板も参考にしました。


奈良県 宇陀郡榛原町赤瀬 千福寺宝篋印塔

2007-01-14 21:56:20 | 奈良県

奈良県 宇陀郡榛原町赤瀬 千福寺宝篋印塔

Dscf0877 天満台西の団地の西のはずれに、墓地があり、その中央に小堂がある。無住で千福寺というらしいが、どこにも寺名を示すものは見当たらない。墓地はお堂の裏山に広がっている。お堂の向かって左、墓地の入口にあたる斜面に、僧形(弘法大師か?)を陽刻した石仏と隣り合って立派な宝篋印塔が建っている。周辺には小型の石仏や3尺サイズの五輪塔が数基並んでいる。訪れた時は、雑草が多く、石仏や五輪塔の多くは草の中に埋もれており、宝篋印塔も基礎下部は草の中ではっきり見えにくい状態であったが、基壇や台座はないようである。相輪は欠損して、五輪塔の空風輪が載せてある。笠上6段、笠下を四隅とその間に各々3弁の都合16枚の傾斜がなだらかで優美な単弁請花とし、軒と一体延べ造りとした隅飾は小さく、ほぼ直立して一弧無地。うち1つは完全に欠損している。塔身は四方に二重円光背を彫りくぼめ、蓮華座に坐す如来像を半肉彫している。(※ 顕教4仏)基礎は上を2段とし側面無地で、背面が大きく剥落している。銘は確認できない。安山岩製(※)(安山岩かもしくは類する室生火山岩系と思われる。表面がざらついた感じのもので、軽石のように多くの気泡と石英などの結晶を含んで火山灰が固まったような黒っぽい火成岩。黒色系の流紋岩質溶結凝灰岩とでもいうべきもの。)相輪を除く高さ124cm(※)で決して小さくはない。最大の特徴は笠下の請花で、田岡香逸氏のいう「特殊宝篋印塔」である。大和では、生駒市有里の円福寺南塔や弘長3年銘(1263年)高取町上小嶋観音院塔、奈良市菩提山町正暦寺東塔が代表例として知られるが数は多くない。笠下の特徴、小さく直立した延べ造りの隅飾、軒幅があって逓減率が大きく安定感のある笠石、全体のサイズ、塔身の四仏の像容などに古い要素を見る。清水俊明氏は鎌倉後期とされる(※)。

参考

※ 清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術 495ページ


お目当ての石造美術はどこだ?

2007-01-13 23:19:45 | 石造美術について

お目当ての石造美術がある場所が意外とわからない。

無造作に佇む姿に郷愁に似た感覚を覚え、黙して語らない石の造形に向き合い、数百年の時間を隔てた先人の心にいろいろの思いを廻らせ眺めているだけで立ち去り難い気分にさせてくれるのも、石造美術を探訪する醍醐味である。(これは石造でない仏像などにも当てはまるが・・・)

ところが超有名なもの以外は、案外詳しい場所がわからないことが多い。

観光や文化財を扱う自治体にしても積極的に詳しい場所を知らせないことが多い。HPなどたいてい詳しい場所は周知していない。盗難を恐れての配慮があると感じている。それはそれで無理もないことである。しかし、こうした状況では、専門家でない小生のごとき一般人にとって、結果的に石造美術との距離がどんどん遠くなってしまうのである。

仏教文化の所産でもある石造美術は、そもそもが信仰の対象でみだりに触れたりできないということもある。さらに文化財の盗難がとりざたされるご時勢である。普段観光客など来ないような場所にある石造美術の周辺でうろうろするなど、傍目には不審者以外の何者でもないだろう。場合によっては事情を説明し理解を得るのに多大の労力を費やす場合もある。

やむをえないことだが、一石造美術ファンがアポなしで訪ねても、なかなか実測、まして拓本などできる環境にはない。「科学的客観性」をもって検討するには実測と拓本、舐めるような表面観察などが不可欠で、それをしない鑑賞はただの「見物」であり、論じる資格もない!とまで言い切れた田岡香逸氏の時代は遠い過去になってしまったようだ。

それではキチンと手続きを経るのかいえば、費やす労力と時間を考えれば、実際問題としてなかなか厳しい。

結局のことろ実測や拓本などの基礎データ収集は個人の手を離れ、もっぱら行政や研究機関が受け持つしかない。しかも調査は人手と手間がかかる作業だけに、予算的な事情などから後手後手に回っているというのが実態ではないだろうか。それでも何とか収集された基礎データも上記のようなセキュリティ上の配慮から積極的には公開されず、一部の限られた研究者だけのものになってしまっている。結果として一般市民への普及も進まず、ますます地味になっていくというジレンマに陥っていくのである。

もっとも実測や拓本は一種の記録保存であるから、サイズや銘文などに特段の問題意識がない場合は、一定の公的な担保があるデータがあれば、それを踏襲すればよく、訪れる研究者・鑑賞者ら全員がいちいち実測し拓本をとる必要もなく、保存上からもそういうことは望ましいとは言えない。よって基礎データとして紹介済のものに限っては、自分で実測・拓本を行なわずとも鑑賞(=「見物」)でも構わないと思っている。(ですから保護行政に携わる方・専門家の皆さん、詳しい場所はともかく基礎的データはもっと広く紹介してくださいョ・・・)

小生のようなマイノリティな道楽者は、地元の人や住職に怪しまれながら、市販書や図書館の書物などから得る断片情報だけを手ががりに、探訪していくしかないわけで、そうした書物の情報が極めて貴重かつ有益なのである。著作などを通じてこれらを提供してくれる川勝博士を初めとする先達の学恩に与っているわけなのだ。

昔ながらの地域コミュニティが弱体化し、当たり前のように受け継がれてきた地元の人々による信仰的側面の強い管理や監視が消えつつある一方で、金になればバチあたりでも何でもするとような不道徳がまかりとおる、世知辛いご時勢になってしまったものである。幾百年を隔てた先人の思いや地域の埋もれた歴史を紐解く資料であり、世界に1つしかないその地域の貴重な文化資源でもある石造美術を守り伝えていくために、我々はいったい何をしなければならないのだろうか?難しい問題である。本来、石造美術は、手に触れることができるような身近な存在である。それが不心得者が現われるようなご時勢になり、やむをえない対抗措置として短絡的な対処療法をとらざるをえないがために、善意の見学者が容易に近づけないというケースが発生するのである。このような有様では、価値の発揚と情報発信という点からは、結果的に本末転倒の状況になっているといっていい。

石造美術を探訪するとき、身近であるはずの石造美術との距離を感じ、どうにもならない憤りと無力感を感じることがしばしばあるのである。

とにかく、石造美術を盗もうなどという不心得者には必ずや重い仏罰(と刑事罰)が下るよう祈るばかりである。


川勝博士

2007-01-13 17:46:34 | 石造美術について

川勝博士は昭和53年に他界された。享年74歳。

存命であれば既に100歳を超えられるわけで、当然、生前にお目にかかることはなかった。

小生が最初に手にしたのは、博士の最後の著作のひとつである新装版『日本石造美術辞典』であった。初めはなんということなく読んでいたが、これを片手にいろいろ現地を訪ねてみて初めて気づいたことがある。それは、遺品編の各項目説明文にある場所の記述、わずか1~2行しかない簡単な記述が実に的確で、記述を読みつつ市販の地図があれば、たいていはスムーズに石造美術のある場所にたどりつけるのである。

石造美術の多くは、案内板もなくひっそりと存在している。自治体のHPなどでも詳しい行き方はわからない。地図と本を頼りに現地の人に聞きながら行くことも多い。他の人が書いた本では、記述が冗長であるか、または現地に辿り着けもしないのである。これが石造美術を小生が探訪するうえでどれほど助かるかは別の機会に述べる。

平易かつ簡潔でありながら的確な文章表現と、遺品はもちろん、土地や場所に関して、しっかりとした観察眼が車の両輪のように作用して読者の理解を助けるのである。

しかも、そういう文章を書くのがとても速かったという。そう、川勝博士はえらいのである。


石造美術とは何だろう(その4)

2007-01-13 16:05:42 | 石造美術について

石造美術のカテゴリには諸説あり、これが絶対というものはないようである。ここでは、特に異論がほとんどないものを扱う。

層塔、宝塔、多宝塔、宝篋印塔、五輪塔、狛犬、石燈籠、石幢、無縫塔、水船などはわかりやすい。石仏、板碑、笠塔婆、石室、石碑などになるといったいどれに分類されるのか専門家でも意見が分かれ、よくわからないものも出てくる。ある程度ひとくくりにして石塔という場合もあり、呼称にしても、例えば無縫塔は卵塔ともいうし、個々のカテゴリ内でも細分化される。結局のところ突き詰めていっても決定打には辿り着けないので、ある程度柔軟姿勢を許容し、論じたい対象や場合に応じ、便宜的に使い分けるしかないと考えるのである。


石造美術とは何だろう(その3)

2007-01-13 11:01:10 | 石造美術について

石造美術研究のあり方に対する批判をしばしば耳にする。つまり、①美術的な観点を重視するあまり対象が優品に限定される傾向がある。②その結果、慶長以前(とりわけ鎌倉後期以前)に対象と多くの価値が絞られる傾向が強い③経験則を重視するあまり感覚的で客観性が弱いことなどである。

川勝博士と同年生まれで、西宮の在野の歴史家であった故・田岡香逸氏は、特に晩年、精力的(というか超人的)に各地の石造美術を調査され、後に川勝博士と並び称される石造美術研究の大家として世に知られた人物であるが、この人などは、既に昭和40年代初めごろから③の「欠点」を強く指摘し、徹底した実測と拓本、各部位の比率比較検討などをもって「科学的客観性」とし、これらを前面に押し出した方法論で、しばしば従前の石造美術研究の「欠点」を厳しく批判した。

しかし、これらの「欠点」は、何も石造分野に限ったことではなく、①や③は美術工芸史の陥りやすい「欠点」として誰でも気づくことである。「科学的客観性」ばかり追求することにもさまざまな「欠点」があって、小生は「欠点」は「欠点」としてきちんと認識し、「長所」をしっかり見失わないよう、自省と向上心が大切だと思う。

結局、各部寸法の単純比較の議論が時に虚しく感じるように、美しいものは美しく、計測値では表せない普遍的な「美」というものはやはり否定できない。一方で時代時代の美的感覚の移ろいを追っていくこともまた文化史なのである。破片や残欠、時代の下るものの中にも、さまざまな物語が秘められていることを心しておきたいものである。