石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市林小路町 霊巌院阿弥陀三尊石仏

2011-01-30 11:04:23 | 奈良県

奈良県 奈良市林小路町 霊巌院阿弥陀三尊石仏

近鉄奈良駅の西南約250m、多くの寺院が甍を並べる市街地の一画に浄土宗霊巌院がある。正式には永亀山肇叡寺というらしい。01_2北東側には隣接して開化天皇陵に指定された前方後円墳がある。周囲は市街地化が進み、街路は人も車も交通量が多いが、小道を少し入った所にある境内は静かな別天地で、本堂の背後には古墳の森の鬱蒼とした様子が間近に見える。02_2本堂前の西側に石塔や石仏を集積した無縁塚があり、その中央に際立って目を引く大きい箱仏(石仏龕)がある。花崗岩製で高さ150cm、幅91cm、奥行きは目測で25cm程の平べったい箱形に整形されている。正面の周縁部を幅約10cm程残して枠取りし、中央を隅切りのある方形に深さ11cm彫り沈め、内側に蓮華座上に阿弥陀三尊立像を半肉彫している。03下には台状の方形石材があり、一具のものと考えられているが、やや奥まって多数の石塔石仏に囲まれているのではっきり台石とは確認できない。上端は平らで枘は見られないが、ここに別石の笠石が載っていたことは想像に難くない。背面の様子は物陰になって確認できない。この種の石仏では最大級の大きさであろう。中尊は像高83cm、来迎印の阿弥陀如来。脇侍はそれぞれ像高45cm、向かって右は蓮台を捧げ持つ観音菩薩、左は合掌する勢至菩薩である。05_2いずれも裳裾、袖裾は短めで下端が蓮華座に達せず、半肉彫された蓮華座の連弁は細身の覆輪付単弁で足の爪先は前を向いている。全体に衣文は簡素で彫りが浅い。また、頭円光が浅く線刻されているようにも見えるがはっきりしない。面相部分は割合保存がよく、中尊は決して眉目秀麗とは言い難いが、目元、小鼻から口元にかけての表現はなかなか凝っており、若々しい張りのある表情が印象的で、脇侍の表情は童子のように可憐である。大型で保存の良い箱仏として注目されるが、最も注意すべきは正面外縁部に陰刻銘がなされている点である。04こうした箱仏(石仏龕)は大和を中心に非常に多く残されているが、07在銘品は極めて稀で、刻銘のある事例は希少価値が高い。向かって右に「極重悪人無他方便 永享ニ庚戌十一月日」、左に「唯称弥陀得生極楽 願主仏地院僧正」とある。悪人はただ阿弥陀如来の名号を称えるより外に極楽往生できる方法は無いという趣旨の偈で、出典は恵心僧都源信の有名な『往生要集』である。永享2年は室町時代前期の1430年で、文禄年間と伝えられる寺の創建時期をはるかに遡る。願主として仏地院僧正とあるが、仏地院というのは、おそらく興福寺の子院で、僧正というからには別当クラスの高僧であろう。仏地院僧正と呼ばれたのは、鎌倉時代前半に活躍した良盛という人物があるようだがこれは時代が合わない。興福寺仏地院の院主で僧正にまでなった室町時代の高僧となれば候補はかなり絞られると思われるが不詳。さらに外縁部下方には横書きで「氏行工大」(右から左に読むので「大工行氏」)という石工名が刻まれている。「行」は始祖伊行末以来の伊派の通字と思われることから、この行氏が伊派の石工である可能性がある。06ただ、永仁2年銘の石仏寺本尊石仏をはじめ生駒市付近にある石造物の刻銘に名を残す伊行氏は13世紀末から14世紀前半頃の人で、その間100年余りの隔たりがあり、同名別人である。伊行氏の2代目なのだろうか?書体を見る限り偽銘とも思えず、この行氏なる石工がいかなる人物であるのか、そのあたりについては後考を俟つしかない。いずれにせよ室町時代前期の紀年銘のあるこの石仏は、今一つその実態が明らかになっていない箱仏(石仏龕)を考えていくうえで貴重な基準資料として注目される。

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

   土井 実 『奈良県史』第16巻 金石文(上)

 

ちょっと奥まっていて計測するには周囲にある石仏や石塔を跨いだりのったりせねばならず、場所柄少し憚られましたので今回はコンベクス計測は控えました。したがって文中法量値の高さ、幅、彫りの深さ、像高は『奈良県史』に拠ります。あとは目測値ですので参考程度としてください。

市街化が進みビルや住宅が立ち並び、隣の開化天皇陵に指定された墳丘長100m程の前方後円墳は町中にポツンと取り残されたようになっていますが、古墳の付近には寺院や墓地が多く、墓地には戦国期の小石仏や石塔もたくさん残されています。また、霊巌院のすぐ近くにあった円証寺には筒井順昭(順慶の父)の墓塔の立派な五輪塔がありました(近年他所に移転)。今ではちょっと想像しにくいですが、戦国時代頃には古墳を取り巻いてお寺や墓地が広がるけっこう寂寥たる景色だったんじゃないでしょうかね。それにしてもでかい箱仏ですが、願主は僧網トップの「僧正」ですから、この大きさも納得ですね。後に爆発的に造られた小型の箱仏とは出自が違います。庶民の墓塔と思われがちな箱仏ですが、やはり古い段階ではこうした一部の高い階層がもっぱら造ったんでしょうか…。このあたりも興味が尽きませんが、ま、今後の課題でしょうね、ハイ。


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