石造美術紀行

石造美術の探訪記

天沼俊一博士

2012-06-27 00:27:04 | うんちく・小ネタ

天沼俊一博士

先ごろ黒谷金戒光明寺を訪ねた際、天沼俊一博士(1876-1947)のお墓にお参りさせていただきました。ここの御影堂を設計された京都帝大教授であった工学博士です。Photo建築史学、とりわけ細部様式のオーソリティですが、実は石造の研究のパイオニアのお一人で、川勝政太郎博士が師事されたことで知られています。川勝博士は次のように述懐されています。「昭和3年の春天沼先生の知遇を得た頃、私は23歳の青二才であったが、先生から古建築についていろいろのことを教えて頂くために、自分で質問を準備して京大の建築学教室へ三日にあけず足を運んだ。…世間では気難しい先生、偏屈な先生という評判もあったのだが、私はそんなことを何も知らなかったから、ずいぶん無遠慮におそれ気もなく推参していた。そして先生も迷惑らしい顔もされず、何時でも親しく教えてくださった…」、「青年の日から指導を受けた関係から、学問上のことやその他のことにも私は天沼先生の影響を多く受けている。私はそれを喜んでいる…見学に月の半ばを割いてお伴をし、数年の間は家に半分、先生と旅行が半分というほどの熱の上げ方で、実地について古建築の研究を教わった。まったく私は幸運な一人であったと思う」、「図面と写真と拓本…この3つを作ることは物を注意深く模索することになる。自分の観察したところを書けというのが先生の常々の教えであった」。

また、その後当時25歳の川勝博士が昭和5年に史迹美術同攷会を立ち上げ『史迹と美術』誌を発刊される際、逡巡されていた川勝博士に発刊を勧め、困った時はいつでも原稿を寄せると天沼博士に励まされたことで決心がついたといわれています。天沼博士との出会いや勧励がなければ、あるいは、のちに石造美術研究を大成された川勝博士の業績はなかったかもしれないということを考える時、小生の天沼博士への関心はいやがおうでも高まります。そこで、石造の分野でも最近はあまりお名を耳にし目にする機会も少なくなった観もある天沼博士について少しご紹介したいと思います。

 我国近代建築学の父と称されるのが、欧米から招かれ明治近代化の先導役を努めた所謂お雇い外国人の一人であったジョサイア・コンドル(JosiahKondoer(1852-1920))だと言われています。その最初の教え子で我国近代建築界の大立物だったのが辰野金吾(1854-1919)で、辰野の教え子に日本建築史学の草分けであった伊東忠太(1867-1954)や関野貞(1868-1935)がいます。さらにその教え子だったのが武田五一(1872-1938)や天沼博士で、ともに京都帝大の建築学科立ち上げの際の教官でした。

 天沼博士は東京芝区南佐久間町(現在の港区西新橋)のご出身で、少年時代は昆虫採集が好きなちょっとエキセントリックな子供だったそうで、昆虫学を専攻したいと考えておられたようです。それでも親の勧めもあって当時は東京に「帝国大学」がただ1つだけだったという大学の土木学科に入学することになりましたが、入学一週間前に建築学科に転科を願い出られ認められたそうです。とはいえ初めはあまりやる気がなかったようで、「そこでまぁ建築学科へ入ったには入ったが、さて、どうも何だか仕方がなしに入ったというような気がして、どうもやる気になれなかったから、そういってはすまないが、いやいやながら毎日学校へ通っているという調子であった」と述懐されています。その後、古建築の魅力に目覚められて大学院に進み、日露戦争で歩兵少尉に任ぜられ東京郊外で工廠建設の現場監督をされた後、明治39年、31歳の時、恩師である関野貞の勧めで奈良県に古社寺修理の技師として赴任されました。この時には東京駅はまだなくて新橋から汽車に乗って出発されたそうです。そして奈良にあること12年、東大寺大仏殿や唐招提寺講堂といった名だたる古建築の修理に携わられる傍ら、給料泥棒と揶揄されるような比較的自由度の高い環境で精力的に古建築や石塔等の調査に勤しまれたとのことです。大正7年に京都府の技師に転じ、翌年工学博士となり、京都府技師兼務で京都帝大助教授に就任されました。大正10年から2年間の海外留学を経て大正12年には教授に昇られました。武田・天沼の両御大に支えられた京都帝大建築史の学統からは村田治郎(1895-1985)、藤原義一(1898-1969)、福山敏男(1905-1995)等々優れた建築史家を輩出します。昭和11年に定年退官、退官後も多数の著作をあらわされ、四天王寺五重塔(戦災で焼失)や金戒光明寺御影堂などの設計を手がけられています。ちなみに天沼博士が設計に携われた建築物としてはこのほか東福寺本堂、本能寺本堂、道明寺正門・本堂などがあり、高野山の金堂並びに大塔は武田五一との共同作業です。戦後間もない昭和22年9月1日、脳溢血により忽然世を去られました。享年72歳。心墖院天眞抱一居士。生前親しく交際された法隆寺佐伯管主による法名だそうです。

 奈良に赴任されていた頃、石塔をはじめとする石造物の調査に熱をあげ、その後何年かして止めてしまったが石灯籠だけはその後も続けている旨の記述を残されています。国東半島を中心に分布する独特の石造宝塔に「国東塔」との名を付けられたのも天沼博士です。天沼博士の石造物研究の後を継ぎ、一層発展させたのが川勝博士と言えるでしょう。天沼博士は古建築の細部様式を中心に深く探求されると同時に、名著といわれるような我国建築史を通覧する図録やテキストをまとめられています。何かと誤解され、あるいは忘れ去られつつあった古建築の実情に対する問題意識を強く持っておられたようで、日本古来の建築の素晴らしさや正しい理解を世に広めるために著作、講演、エクスカーション等々熱心に取り組まれました。同じようなことは石造物にも当てはまります。川勝博士の学風に啓蒙的なところがあるのは天沼博士の影響が大きいと思われます。川勝博士をはじめ小川晴暘(1894-1960)、高田十郎(1881-1952)、重森三玲(1896-1975)、中野楚渓(?-?)、大脇正一(?-1946)といった在野のユニークな研究者達(それぞれ一家を成す錚々たる人達です)と親しく交際・指導されたり、芸苑巡礼会あるいは天王会という有志の勉強会の顧問役となって同好の士のネットワーク形成に協力されていたというのも天沼博士の啓蒙的な取組みの一環だったといえるでしょう。天王会ではメンバーをあだ名で呼ぶ決まりがあり、川勝博士は「式部卿」と呼ばれていたといいます。興味深いエピソードですね。ところで、天沼博士は「八戸成蟲楼」という面白いペンネームを用いられました。これは、やっと今頃になって博士の学位をもらったという喜びを少々自嘲気味に表現されたお気に入りのペンネームだったらしく、昆虫採集が好きだった少年時代の痕跡を認めることができます。当時学生だった村田治郎博士(後の京都帝大教授)はペンネームの由来や読み方を知らなかったため、天沼博士のお住まいに「成蟲楼」という額が架かっているかもしれないとわざわざ見に行ったそうで、後から武田五一博士に「成蟲はイマゴ(Imago)と読むんだよ。英和の字引を引いてみたまえ。イマゴに成蟲という訳がちゃんと出ているよ。だからヤットイマゴロさ。学位をもらった記念だね。天沼君だいぶんご自慢のようだぜ」と教わったというエピソードを述懐されています。さらに「天沼先生は万事につけて理非をはっきりさせて、些細なことでもいい加減に済ませることは決してされなかった。正反対の武田五一先生と「天沼君は神経質過ぎるよ」「あなたの方が無神経なんですよ」とよく応酬されているのを聞いた」というエピソードを藤原義一博士が書かれています。武田博士は天沼博士の先輩で、関西建築界の父と称される偉い人物ですが、なかなか磊落な方だったようで、何だかその様子が目に浮かぶような面白いお話です。

 天沼博士のお人柄について、学問は言うまでもなく礼儀作法に厳しく、何事もきちんとしていないと気が済まない恐ろしく生真面目な方だったようです。それでいてシャイでちょっとシニカルな気難しい人物という話もありますが、江戸っ子気質で洒落を解される側面があり、実に人間味あふれる方だったようです。また、個人主義、つまり高いインテリジェンスで自己統制された個々人の独自性や自律性を重んじるというインディビジュアリズミックな方だったようです。「夏目漱石(1867-1916)の「坊ちゃん」などとものの考え方がすごぶるよく似ている」と評されたのは高田十郎氏で、なるほどわかりやすいたとえだと思いました。藤原博士によれば「ネクタイも、カラーもきちんとして、寸分の乱れもない実に几帳面な感じの先生であった」、「準備なしに事を運ばれることは絶対になかったといってよい」とされています。さらによく一緒に旅行した小川晴暘氏は「先生は、ずいぶん気難し屋さんだという噂であるが、汽車中の先生は、ユーモアたっぷりの話し上手で、長の道中を少しも飽きさせない。座談は名人だと思った。しかしきちんとした紳士で、時々は気難しいことを言われる。私はそのおかげで、先生に古建築だけでなく、人間としての心がけや、西洋流の行儀作法までも教わる機会を得たことを今でも喜んでいる」と述べられています。さらに旅行中のエピソードとして、おなじみの宿に泊まると「宿の主人がお湯が沸きましたからお風呂にお入りと言ってきたので先生と二人で五右衛門風呂に入りにいった。先生は湯につかる前に、石鹸で体をすっかり洗い流してから入られる。そしてタオルは湯槽の外に置かれて、静かにつかっておられた。私は、お湯を汲み出して体を洗ってからまずお湯につかって、流し場で石鹸を使う習慣にしていると申し上げると、先生は、我々に今日の初風呂をすすめてくれたのであるから、後から入る人の迷惑にならぬように、一日の垢を十分洗い落としてからお湯は温まるだけにすべきだと言われた。…先生の入浴ぶりは、先生独特の道徳観からであり、万事がこのお気持ちから出ている事をみて、他人のいう「気難しい先生」を一層尊敬せずにいられなかった」と述懐されています。川勝博士も「…学者として高い地位を占められていたにもかかわらず威張られることはなかった。それはまた威張る人をお嫌いであったということでもあった。人との応接は非常に丁寧で私ごときも一度も粗略に扱われたことがない。実に偉い先生だと一層感服した」、「先生はなかなか几帳面な方であり、また人に迷惑をかけるのを恐れ、自分も迷惑をかけられることを嫌われた」などと述べておられます。何でも川勝博士がみどり夫人と結婚される際、仲人を頼まれ気安く引き受けたはいいが仲人は夫婦揃ってするものと知らず奥さんからそのことを知らされ、驚いて翌日には断って式には一人で出席したとか、家族に告げた予定の日時より早く旅行から京都に帰ることになった際に、わざわざ駅前のホテルで一泊してから予定の日時に帰宅したという面白エピソードが残されています。こうしたエピソードを知るにつけ、天沼博士に対するリスペクトが俄然高まっている小生であります。

 

参考:天沼俊一『成蟲楼随筆』

        〃    『続成蟲楼随筆』

        〃    『続々成蟲楼随筆』

     八戸成蟲楼「古建築追懐」『史迹と美術』第84号

     村田治郎「大正九年ころの事」『史迹と美術』第187号

     藤原義一「氷雨降る妙成寺」『史迹と美術』第187号

     小川晴暘「朝鮮古寺巡礼の想出」『史迹と美術』第187号

     川勝政太郎「天沼先生の人間味」『史迹と美術』第188号

     天沼 香『ある「大正」の精神―建築史家天沼俊一の思想と生活―』吉川弘文館

  ※ 勝手ながら文中引用部分の仮名遣い等一部改めました。


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