石造美術紀行

石造美術の探訪記

お目当ての石造美術はどこだ?

2007-01-13 23:19:45 | 石造美術について

お目当ての石造美術がある場所が意外とわからない。

無造作に佇む姿に郷愁に似た感覚を覚え、黙して語らない石の造形に向き合い、数百年の時間を隔てた先人の心にいろいろの思いを廻らせ眺めているだけで立ち去り難い気分にさせてくれるのも、石造美術を探訪する醍醐味である。(これは石造でない仏像などにも当てはまるが・・・)

ところが超有名なもの以外は、案外詳しい場所がわからないことが多い。

観光や文化財を扱う自治体にしても積極的に詳しい場所を知らせないことが多い。HPなどたいてい詳しい場所は周知していない。盗難を恐れての配慮があると感じている。それはそれで無理もないことである。しかし、こうした状況では、専門家でない小生のごとき一般人にとって、結果的に石造美術との距離がどんどん遠くなってしまうのである。

仏教文化の所産でもある石造美術は、そもそもが信仰の対象でみだりに触れたりできないということもある。さらに文化財の盗難がとりざたされるご時勢である。普段観光客など来ないような場所にある石造美術の周辺でうろうろするなど、傍目には不審者以外の何者でもないだろう。場合によっては事情を説明し理解を得るのに多大の労力を費やす場合もある。

やむをえないことだが、一石造美術ファンがアポなしで訪ねても、なかなか実測、まして拓本などできる環境にはない。「科学的客観性」をもって検討するには実測と拓本、舐めるような表面観察などが不可欠で、それをしない鑑賞はただの「見物」であり、論じる資格もない!とまで言い切れた田岡香逸氏の時代は遠い過去になってしまったようだ。

それではキチンと手続きを経るのかいえば、費やす労力と時間を考えれば、実際問題としてなかなか厳しい。

結局のことろ実測や拓本などの基礎データ収集は個人の手を離れ、もっぱら行政や研究機関が受け持つしかない。しかも調査は人手と手間がかかる作業だけに、予算的な事情などから後手後手に回っているというのが実態ではないだろうか。それでも何とか収集された基礎データも上記のようなセキュリティ上の配慮から積極的には公開されず、一部の限られた研究者だけのものになってしまっている。結果として一般市民への普及も進まず、ますます地味になっていくというジレンマに陥っていくのである。

もっとも実測や拓本は一種の記録保存であるから、サイズや銘文などに特段の問題意識がない場合は、一定の公的な担保があるデータがあれば、それを踏襲すればよく、訪れる研究者・鑑賞者ら全員がいちいち実測し拓本をとる必要もなく、保存上からもそういうことは望ましいとは言えない。よって基礎データとして紹介済のものに限っては、自分で実測・拓本を行なわずとも鑑賞(=「見物」)でも構わないと思っている。(ですから保護行政に携わる方・専門家の皆さん、詳しい場所はともかく基礎的データはもっと広く紹介してくださいョ・・・)

小生のようなマイノリティな道楽者は、地元の人や住職に怪しまれながら、市販書や図書館の書物などから得る断片情報だけを手ががりに、探訪していくしかないわけで、そうした書物の情報が極めて貴重かつ有益なのである。著作などを通じてこれらを提供してくれる川勝博士を初めとする先達の学恩に与っているわけなのだ。

昔ながらの地域コミュニティが弱体化し、当たり前のように受け継がれてきた地元の人々による信仰的側面の強い管理や監視が消えつつある一方で、金になればバチあたりでも何でもするとような不道徳がまかりとおる、世知辛いご時勢になってしまったものである。幾百年を隔てた先人の思いや地域の埋もれた歴史を紐解く資料であり、世界に1つしかないその地域の貴重な文化資源でもある石造美術を守り伝えていくために、我々はいったい何をしなければならないのだろうか?難しい問題である。本来、石造美術は、手に触れることができるような身近な存在である。それが不心得者が現われるようなご時勢になり、やむをえない対抗措置として短絡的な対処療法をとらざるをえないがために、善意の見学者が容易に近づけないというケースが発生するのである。このような有様では、価値の発揚と情報発信という点からは、結果的に本末転倒の状況になっているといっていい。

石造美術を探訪するとき、身近であるはずの石造美術との距離を感じ、どうにもならない憤りと無力感を感じることがしばしばあるのである。

とにかく、石造美術を盗もうなどという不心得者には必ずや重い仏罰(と刑事罰)が下るよう祈るばかりである。


川勝博士

2007-01-13 17:46:34 | 石造美術について

川勝博士は昭和53年に他界された。享年74歳。

存命であれば既に100歳を超えられるわけで、当然、生前にお目にかかることはなかった。

小生が最初に手にしたのは、博士の最後の著作のひとつである新装版『日本石造美術辞典』であった。初めはなんということなく読んでいたが、これを片手にいろいろ現地を訪ねてみて初めて気づいたことがある。それは、遺品編の各項目説明文にある場所の記述、わずか1~2行しかない簡単な記述が実に的確で、記述を読みつつ市販の地図があれば、たいていはスムーズに石造美術のある場所にたどりつけるのである。

石造美術の多くは、案内板もなくひっそりと存在している。自治体のHPなどでも詳しい行き方はわからない。地図と本を頼りに現地の人に聞きながら行くことも多い。他の人が書いた本では、記述が冗長であるか、または現地に辿り着けもしないのである。これが石造美術を小生が探訪するうえでどれほど助かるかは別の機会に述べる。

平易かつ簡潔でありながら的確な文章表現と、遺品はもちろん、土地や場所に関して、しっかりとした観察眼が車の両輪のように作用して読者の理解を助けるのである。

しかも、そういう文章を書くのがとても速かったという。そう、川勝博士はえらいのである。


石造美術とは何だろう(その4)

2007-01-13 16:05:42 | 石造美術について

石造美術のカテゴリには諸説あり、これが絶対というものはないようである。ここでは、特に異論がほとんどないものを扱う。

層塔、宝塔、多宝塔、宝篋印塔、五輪塔、狛犬、石燈籠、石幢、無縫塔、水船などはわかりやすい。石仏、板碑、笠塔婆、石室、石碑などになるといったいどれに分類されるのか専門家でも意見が分かれ、よくわからないものも出てくる。ある程度ひとくくりにして石塔という場合もあり、呼称にしても、例えば無縫塔は卵塔ともいうし、個々のカテゴリ内でも細分化される。結局のところ突き詰めていっても決定打には辿り着けないので、ある程度柔軟姿勢を許容し、論じたい対象や場合に応じ、便宜的に使い分けるしかないと考えるのである。


石造美術とは何だろう(その3)

2007-01-13 11:01:10 | 石造美術について

石造美術研究のあり方に対する批判をしばしば耳にする。つまり、①美術的な観点を重視するあまり対象が優品に限定される傾向がある。②その結果、慶長以前(とりわけ鎌倉後期以前)に対象と多くの価値が絞られる傾向が強い③経験則を重視するあまり感覚的で客観性が弱いことなどである。

川勝博士と同年生まれで、西宮の在野の歴史家であった故・田岡香逸氏は、特に晩年、精力的(というか超人的)に各地の石造美術を調査され、後に川勝博士と並び称される石造美術研究の大家として世に知られた人物であるが、この人などは、既に昭和40年代初めごろから③の「欠点」を強く指摘し、徹底した実測と拓本、各部位の比率比較検討などをもって「科学的客観性」とし、これらを前面に押し出した方法論で、しばしば従前の石造美術研究の「欠点」を厳しく批判した。

しかし、これらの「欠点」は、何も石造分野に限ったことではなく、①や③は美術工芸史の陥りやすい「欠点」として誰でも気づくことである。「科学的客観性」ばかり追求することにもさまざまな「欠点」があって、小生は「欠点」は「欠点」としてきちんと認識し、「長所」をしっかり見失わないよう、自省と向上心が大切だと思う。

結局、各部寸法の単純比較の議論が時に虚しく感じるように、美しいものは美しく、計測値では表せない普遍的な「美」というものはやはり否定できない。一方で時代時代の美的感覚の移ろいを追っていくこともまた文化史なのである。破片や残欠、時代の下るものの中にも、さまざまな物語が秘められていることを心しておきたいものである。


石造美術とは何だろう(その2)

2007-01-13 10:28:02 | 石造美術について

石造美術という言葉が創始されて70年以上になる。昭和8年の時点から70年前は江戸末期になる。石造美術という概念は、用語が創始された時点で今日いう概念がすべて定まっていたのではなく、昭和8年以降も、川勝博士のみならず多くの先達の試行錯誤の結果、概念として形成されてきた部分もあるだろう。対象として取り扱われる時代を考えたとき、飛鳥時代から江戸時代までとしているが、昭和8年時点で歴史は止まっているわけではないということを考えれば、明治以降を範疇に含めてもいいのではないだろうかと思うのである。もちろん、飛鳥時代以前の例えば古墳の石棺や石人石馬、もっと遡れば石器時代の尖頭器や石鏃、石斧などにも美術工芸的なものの内包は多少を問わねばあると思われる。こうした古いものは時に参考として取り扱う旨を川勝博士も認めておられた。したがって、ここでも参考として飛鳥時代以前や明治以降も参考として時に取り扱うこととしたい。


ご注意!

2007-01-13 01:13:12 | 注意!

へたな文章と汚い写真で恐縮ではありますが、当ブログにおける写真は全て小生が撮影したものです。文章も引用した部分を除き小生の文責によるものです。利用価値はほとんどないと思いますが、いちおう、著作権法に基づいて無断使用を禁止します。

 如件、恐惶謹言。


奈良県 宇陀郡榛原町額井 法寿寺宝篋印塔

2007-01-13 01:01:34 | 奈良県

奈良県宇陀郡 榛原町額井 法寿寺宝篋印塔

 

 

 

Dscf0872 額井岳の南麓、国道369号、玉立橋交差点から東北に折れ、1kmほどいった県道のすぐ北に面して、法寿寺という小堂がある。無住で会所のようになっている。額井岳から伸びる尾根のひとつの先端斜面を形成して境内とし、この裏山にあたる尾根の一角に小さい墓地がある。無住のためか墓地は荒れ放題で、雑草が繁茂する中に、歴代住職のものと思われる江戸時代の無縫塔数基が並んでいる。その中央に中型の宝篋印塔が建つ。相輪は、伏鉢、請花と九輪の2段目までを残し、3段目以上が欠損している。尾根斜面を形成して切石で基壇を組み、その上に四弁の複弁反花座を置く。基礎は無地で上二段。欠損した相輪を除けば遺存状態は良好だが、銘文は摩滅が進行して判読困難。文字は小さく彫りが浅いが、かすかに正面に数行の銘があるように見える。応永12年(1405年)乙酉2月4日の銘があるという。(※)塔身は小さめの月輪を陰刻し、金剛界4仏の種子を薬研彫するが、線は細く、彫りも浅く種字は小さい。笠は下2段、上6段で、隅飾はやや弧を描いて外反し、二弧輪郭付。輪郭線は太めで均一の太さだが茨先が長く尖っている。輪郭内は無地。石英粗面岩製で高さ95cm。(※)

参考

※清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術494ページ


奈良県 山辺郡都祁村馬場 金龍寺 宝篋印塔

2007-01-13 00:56:45 | 奈良県

奈良県 山辺郡都祁村馬場 金龍寺宝篋印塔

Dscf0909 名阪国道針・都祁インターの北方、馬場は山間の集落である。国道369号と県道月ヶ瀬針線の交差点から北東約300mの丘陵上に金龍寺がある。県道から北に脇道に入ってしばらく行くと、長い石段がある。石段を登ると本堂があり、向かって右手、本堂のすぐ横の庫裏の前庭の一角、槙の木の根元に瀟洒な宝篋印塔がある。花崗岩製。相輪を失って五輪塔の空風輪を載せている。笠は上6段、下2段、伏鉢に続く最上段面は比較的広めである。隅飾は4つともよく残っており、軒と区別して、かなり外反している。2弧輪郭付で輪郭幅は狭く、下側の弧に比べて上側の弧が約2倍あって大きい。輪郭内は広くとっているが無地。塔身は四方に蓮華座付の月輪を陰刻し、その中に金剛界4仏の種子を薬研彫する。文字は小さめ。基礎は上2段、側面4面とも細い輪郭を巻き、格狭間を入れる。格狭間は小さく退化ぎみである。基壇や台座はなく、近世の墓碑か石仏の基礎の上に載っており、組み直されていることは確実で、相輪を除く高さ65cm(※)と小さいことから、他所から移設されている可能性が大きい。基礎の輪郭部分に「寛正四年(1463年)□□□」の銘があるという(※)が、肉眼でははっきりと判読できない。規模は小さいが、装飾的で全体的な保存状態も良好、小洒落た印象の優美な宝篋印塔である。相輪を欠く点は惜しまれるが、室町時代中期の在銘品として指標となるべき貴重な一品。

参考

※ 清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術 353ページ


奈良県山辺郡 山添村峰寺 六所神社宝塔

2007-01-13 00:19:04 | 奈良県

奈良県山辺郡 山添村峰寺 六所神社宝塔

Dscf1011 峰寺の集落を見下ろす高所に六所神社があり、神社の境内には建武年銘を持つ不動明王の磨崖仏がある。神社の向かって右手に峰寺会所がある。元は薬王寺という寺の跡といわれている。会所の建物の右端に石塔類が寄せてある。目立つのは層塔で、現在4層を残すのみだが、花崗岩製で元は7重と推定され、低く安定感のある基礎、塔身に大きく月輪を陰刻し雄渾に薬研彫された金剛界四仏種子や笠石の軒反の力強さから鎌倉時代のものと推定される。(※)この層塔のすぐそばに小さい宝塔がある。花崗岩製。笠と塔身と基礎をあわせた高さ約70cm。相輪を失っており、背の高い複弁反花座は大きさが合わないので別物である。基礎は幅に比して高さが高Dscf1006_1 く、4面とも薄めの輪郭を巻いて格狭間を入れる。塔身軸部は浅い彫りで扉型を表現し、首部は細めで無地、匂欄表現はない。笠石は裏に円形軸受と垂木型を削りだし、降棟の表現はないが、上部に薄い路盤を作っている。銘文は確認できない。欠損している相輪を除けば保存状態は悪くない。全体としてバランスがとれて瀟洒な感じで、総じて彫りが浅く、格狭間の表現も退化が進んでいるもので、室町中期ごろの造立だろうか。奈良県の宝塔は数が少なく、特に室町時代の基準となる遺品は少なく、管見では永正5年(1508年)銘の長谷寺宝塔があるに過ぎない。少し場所も離れており、長谷寺宝塔の方は実見していないが、写真を見る限り造形意匠は格段に優れるものの作風に異質な感じがする。したがって本塔の造形意匠が長谷寺宝塔に比較して拙劣であっても、単純に時代が降るとは言いきれないように思う。しかし、永正5年はひとつのヒントにはなる。

参考

※ 清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術 338ページ