石造美術紀行

石造美術の探訪記

福井県小浜市太良庄 長英寺五輪塔

2018-06-28 23:35:03 | 五輪塔

福井県小浜市太良庄 長英寺五輪塔
太良庄は、東寺百合文書などに関係史料が多く残され、荘園の研究で名高い所。北側の山塊から延びた丘陵尾根に東西から抱かれるように挟まれた地形で、中央は低平な水田地帯、その南は北川という河川が流れている。東側から北側にかけての丘陵寄りの少し高い所に集落がある。集落からやや奥まった山裾の閑静な場所に曹洞宗泰雲山長英寺がある。小浜藩主酒井忠勝の菩提寺で、禅宗らしい静かで落ち着いた境内の北側、緩斜面の山林内に五輪塔がひっそりと建っている。五輪塔は数本の奇樹巨木に囲まれた目立たない一画にあり、周囲には拳大~人頭大の円礫が多数あるのが見える。円礫は明らかに人為的に搬入敷設されたもので、埋葬施設か経塚など何らかの遺構である可能性が考えられる。五輪塔はその標識的な役割を果たしているように見える。基壇や台座などは見られず、地輪の下端は不整形なままとしている。塔高約165㎝。地輪幅約70㎝、地輪側面高約35㎝。低めの地輪は水輪以上に比して大きめに作られている。水輪の径約58㎝、高さ約47.5㎝。最大径がやや上寄りにあってやや裾すぼまり感がある形状。火輪の軒幅約58㎝、高さ約40.5㎝。軒の厚さは中央で約11.5㎝。空風輪は高さ約41㎝、風輪径約28㎝、空輪径約26㎝。各輪には五大四転の梵字が浅く薬研彫されている。地輪の四転はほぼ正しい方角を指している。地輪には右寄りに各二行の刻銘があるようにも見えるが風化磨滅が進み判読できない。石材は花崗岩とされているが、表面がざらついて気泡のような穴が目立ち、見慣れた花崗岩の質感とは少し異なった印象を受ける。地輪が少々大き過ぎて塔姿の均衡がとれていないようにも見えるが寄集めではないと思う。付近は御所の森と称され往昔の高貴な人物の館跡と伝えられ、五輪塔はその墓塔というが詳細不明。低くどっしりした地輪の形状や火輪の軒反り、梵字の彫り方などから鎌倉時代後期頃の造立と考えられる。
(参考)小浜市教育委員会編『わかさ小浜の文化財(図録)』
           日本石造物辞典編集委員会編『日本石造物辞典』吉川弘文館



境内裏手のほの暗い木立の中にあり、奇樹に囲まれて何かスピリチャルな雰囲気、シチュエーションでパワースポットというのはきっとこういう場所を言うのかなと思います。文中法量は例によってコンベクスによる実地略測ですので少々の誤差はご寛恕願います。


京都市 右京区 梅ケ畑奥殿町 為因寺宝篋印塔

2018-03-20 00:11:31 | 宝篋印塔

京都市 右京区 梅ケ畑奥殿町 為因寺宝篋印塔
 為因寺は集落内の小さい寺院。境内東寄りのある宝篋印塔は、この付近にあったとされる善妙寺の遺品と伝えられている。
 花崗岩製。現存高約210㎝。相輪は、先端の宝珠と下半を失い、残っているのは上請花とその下の4輪分だけである。昭和9年の10月にこの石塔を調査された川勝政太郎博士らが境内に転がっていたのを載せたのだそうである。二重の切石基壇の上に二段の段形部分が直接載せてある。基壇の上段が基礎のようにも見えるが、基礎は亡失、別石作りの低い素面の基礎であっただろうと推定される。塔身は全体に大きく、幅より高さが勝る。西側正面に「阿難塔」、背面に「文永二(1265)年乙丑/八月八日建之」と割合大きい文字で陰刻されている。通常見る四仏の種子などは刻まれていない。笠は上六段下二段で、各隅飾りを別石とし、笠石本体も二石からなる。すなわち、軒と下二段及び上一段目までと上二段目以上を分けている。軒側面と同一面で立ち上がるよう上の一段目と同じ高さに隅飾りの基底部を作りつけている。隅飾りは笠石上端に拮抗する程の高さがあり、基底部分の幅は軒幅の1/3程もあるので、左右の隅飾りに挟まれた軒口中央の上側には長方形に切り欠いた部分があるように見えるが、これが一段目になる。隅飾りは一弧素面で直立する。長大な馬耳状と言われる隅飾りである。段形は逓減が一定せず、上端又は下端にいくほど各段が徐々に低くなっている。こうした段形の作り方は厳密な規格性が感じられない。むしろ定型化以前のおおらかさの現れと見るべきだろう。本塔とよく似た形状の宝篋印塔が高山寺開山廟に二基存在しているが、川勝博士により高山寺式の宝篋印塔と称されている。いずれも各部別石づくりで、小生などが見慣れた宝篋印塔とは一線を画する独特の風格があり、素朴でありながら堂々とした存在感がある。高山寺式の宝篋印塔は、我が国最古の宝篋印塔の形状を示すものと考えられており、その中で為因寺塔は、不完全ながら主要部分が残る唯一の在銘品である点が貴重。国重文指定。
参考:川勝政太郎「新資料 京都為因庵の文永二年在銘宝篋印塔『史迹と美術』第49号1934年
     〃 『京都の石造美術』1972年



 これも今更の感がある超有名な宝篋印塔です。善妙寺は高山寺の別院。寺の名前の「善妙」は、高山寺に伝わる国宝「華厳宗祖師絵伝」にも登場する女性からとっているようです。承久の乱で罪を得た公卿の妻子を高山寺の明恵上人(1173~1232)が保護し匿ったとされる尼寺で、塔身の「阿難塔」の文字からこの石塔が釈尊の弟子であった阿難の供養塔として建立されたものと考えられます。阿難は、釈尊の養母であった摩訶波闍波提らの出家について、渋る釈尊を説得し認めてもらったことで初めて女人出家の道を開いたとされる人物。いかにも尼寺の遺品らしい石塔です。石塔の願主だったであろう尼さん達は、阿難の向うに明恵を重ね合わせていたのではないでしょうか…。


石塔寺宝篋印塔について(補遺)

2018-01-18 23:33:05 | お知らせ

石塔寺宝篋印塔について(補遺)
 平成29年12月31日の「石塔寺三重層塔ほか(その2)」において、文中、寄せ集めの宝篋印塔について「似たサイズをうまく寄せ集めたものと先学の意見はだいたい一致している。」と書きましたが、いい加減なことを書いてしまったようですのでお詫びし追加記事を載せます。
 この宝篋印塔は、川勝政太郎博士以下、歴史考古学研究会のメンバーが、昭和41年9月25日、ご住職立会の下、適当な部材を選んで実際に寄せ集めたということです。意見が一致しているも何も川勝博士が寄せ集めた当事者でした。昭和42年12月発行の『史迹と美術』第380号にある川勝政太郎博士の「近江宝篋印塔補遺-附装飾的系列補説-」にそのことが書かれていました。一部を抜粋すると「…石塔寺には、層塔・宝塔・五輪塔の見るべきものがあるにかかわらず、宝篋印塔の形をなしたものがなく、残欠がいつくかあるだけなのは淋しいので、一つだけでも宝篋印塔としての形を作りたいと考え…中略…基礎と笠は本来一具のものと認めてよいものを選んで組み合わせた…中略…塔身は一具とおぼしいものを見出し得ないので、比較的近い大きさのものを組み入れた。形としてはやや小さく、もう少し大きい方がよい。相輪は似合ったものを用いたが本来のものと断言はできない。」ということです。『民俗文化』第177号の田岡香逸氏の報文では、笠と基礎も別モノとしています。田岡報文によると、塔身の上下には枘がなく水平に切ってあるのに、笠下端、基礎上端には枘穴があり、基礎の枘穴と笠の枘穴の大きさが異なるとのことです。笠の方が基礎よりやや新しいとのことです。もっとも川勝博士も「認めてよい」という表現なので一具だと断じているわけではないようです。小生もまぁ一具と認めてよいのではと思いますが…。
 なお、この基礎は意匠の優れたものとして従前から知る人ぞ知るもので、川勝博士の『日本石材工芸史』に文様が2種図示されていたとのことで、造立時期は鎌倉時代末頃と川勝・田岡両氏の意見は一致しています。
 田岡氏の調査は、報文によれば昭和52年10月と思われますが、なぜか10年程前の川勝博士の『史迹と美術』誌上の記事や、福田海のことにはまったく触れられません。しかし、田岡氏自身が昭和初年にはじめて石塔寺を訪ねた当時は、まだこれほどではなく、方々に空間が見られたということを書いておられるのは、福田海以前の状況を知るうえで興味深い記述です。
 それにしても、流石に川勝博士は記事にして寄せ集めの事実を後世に伝えてくれていますが、こうしたことは当事者には当たり前でも、知らない人は知らないので、ややもすれば忘れ去られて既成事実化するおそれがあるので、注意が必要ですね。


滋賀県大津市坂本本町 香炉岡弥勒石仏

2018-01-01 12:16:30 | 石仏

滋賀県大津市坂本本町 香炉岡弥勒石仏
 石仏は、比叡山延暦寺西塔の中心的施設である釈迦堂(転法輪堂)の裏山、通称「香爐岡」と呼ばれる尾根の先端
ピーク付近にある。釈迦堂後方の西側から相輪橖へ向かう山道を北に進み、相輪橖を正面に仰ぐところで道を右手に折れると間もなく、疎らな木立の空地の真ん中にポツンと石仏があるのが目に入る。石仏の周囲は樹木や雑草が切り払われ、空が見える明るい広場のようになっているが、かつては背丈を覆うような熊笹に埋もれていたとのことである。
 周辺は平坦に整形された目測約15m×20m、高さ1.5m程の土壇状になっており、堂宇の遺構の上に石仏があることが見て取れる。江戸時代初め頃に書かれたとされる『比叡山堂舎僧坊記』には「弥勒堂 旧跡石仏弥勒之大像有之」の記載があり、これに当たるものと考えられている。弥勒堂は戦国期の兵火で焼失し、再建されることなく長い間忘れ去られていたところ、昭和34年頃、釈迦堂解体修理の際に、たまたま横川に参詣する篤信の一老女がこの石仏の存在を延暦寺関係者に語ったとのことで、そのことを聞きつけた川勝政太郎博士らが現地を調査し、世に知られるようになった。
 石仏はほぼ南面し、現状地上高約2.1m。二重円光背を負い蓮座に坐す如来像で、上端に反花を刻み出した台石と、敷茄子以上の本体の二石からなる。花崗岩製と見られる。反花座のある台石は幅約130㎝、反花は一見中央に稜を設けた単弁に見えるが、小さい彫くぼめが2つ認められることから子持ち複弁とすべきかもしれない。反花の蓮弁は前面から左右側面まで終わり後方には見られない。敷茄子は低平で、その上の蓮座は三重の同心円を半裁したような蓮弁で、小花も同様の意匠である。光背は幅約116㎝、厚さ約15㎝。像高約136㎝、髪際高約120㎝。体躯と頭部のバランスがよく、肩から胸にかけて上半身の肉取りやボリューム感のある腹部から広くとった両膝など、全体的に安定感がある。ほとんど丸彫りに近い手法で、特に右手、うなじは完全に彫り抜いている。両手を膝前に垂らしているが、手先が欠損磨滅して印相は明らかでない。左手の様子から降魔印と推定される。衣文も木彫風で写実的である。全体に表面は焼損によると見られる剥落と風化でかなり荒れている。特に面相部は痛みが激しいが左眼から額にかけては面影をとどめている。光背の向かって右側が大きく欠損しているが、光背面には、頭光に5つ、身光に6つ、合計11個、径約17㎝の円相を浅く彫沈め、内に梵字を平板陽刻している。肉眼では判読しづらいが、採拓された川勝博士によれば、頭上「アーク」、向かって左側、上から「アー」「アク」「ア」「ヨ」「ウーン」、右側上から(欠)「アン」(欠)(欠)「バン」とのことである。さらに、光背の背面には中央に外径約68㎝、内径約50㎝の下方に蓮座を持つ月輪を平らな突帯で刻み出し、内に大
きく釈迦如来の種子「バク」を平板陽刻している。その下方左右にも同様の手法でやや小さく月輪と種子を刻んでいる。「マン」「ウーン」で文殊菩薩と普賢菩薩と考えられ、釈迦三尊である。普賢菩薩の種子は通常「アン」であるが、川勝博士によれば「ウーン」も用いられるとのことである。その下方には約33㎝四方、深さ約12.5㎝の内に二重に段を設けた方形の奉籠穴を穿っている。手の込んだ奉籠穴で、失われた蓋石があったことが容易に推定できる。この奉籠穴の下方にも半肉彫りの蓮座状の高まりが見られる。奉籠穴の脇には文字が刻まれていたような方形の窪みも見られるが磨滅しているため不詳。二重円光背を負い光背面に円相種子を設けた石仏が京都付近に点在し、川勝博士により天台系あるいは叡山系の石仏と名付けられている。この石仏はその最古の例とされ、造立時期は、藤原期の余風を残す鎌倉時代初期とされている。

二重円光背に円相梵字が叡山系…






堂々とした正面観に比べると側面観はちょっとペンペンな感じ…後頭部に注目、くり抜いています。


背面の様子。何か文字でも刻んであったような方形枠がうっすら見えます…


剥落しておいたわしい面相部…


肘のところは完全に彫り抜いています…


奉籠穴…


蓮座と敷茄子、台石の反花の様子…膝元のギザギザは何でしょうか?カエルの足みたいに見えますが…

参考:川勝政太郎「比叡山香爐岡石仏とその様式」『史迹と美術』第300号
   川勝政太郎『京都の石造美術』
   栗東市教育委員会(財)栗東市文化体育振興事業団編『忘れられた霊場をさぐる』3-近江における山寺の分布-

蓮弁や梵字など他に例を見ない非常に手の込んだ意匠表現で、丸彫りに近い彫成法も考え合わせれば、往時の威容と壮麗さが偲ばれます。北嶺の
一画を占めた堂宇の本尊であっただけのことはある流石の石仏です。そういえば、山麓や末寺には石造物が多いのに当の比叡山には石造物を見かけない。田岡香逸氏などは、古い石造物はまったく無いとまで言っておられますが、そうでもない。くまなく見て回ったわけではありませんが、中世に遡りそうな小型石仏や五輪塔などはあちこちで見かけます。この石仏はその中でも別格のエース的な存在でしょう。


あけましておめでとうございます。

2017-12-31 21:44:12 | ひとりごと

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。六郎敬白

南郷山王神社大日石仏(奈良県(永治2年))…ナウマクサンマンダボダナンアビラウンケン…
右志者為/法界衆生/平等利益也/平成卅戊戌秊正月/願主六郎敬白


滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その3)

2017-12-31 18:13:52 | 五輪塔、石仏などなど

滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その3)
 三重層塔を取り囲むように集積された無数の石造物について、これまでに誰か数えた人がいるだろうか、埋もれたものや若干の増減もあるだろうから、本当に正確な数字を出すのは至難の業だろう。ざっと見た限りでも千の単位ではなく万をもって数えるべき数量に思われる。
 つらつら見ていていくつか気付いた点を述べたい。総数は数万
基と推定されるが、その9割方は小型の石五輪塔と小型の石仏で占める。一石五輪塔と火輪以上と水輪以下を分けるスタイルの三石五輪塔で1割程、そのほか宝篋印塔、宝塔、層塔なども若干あるが合計しても1%に未たないだろう。五輪塔をはじめ複数の部材からなる石塔の大部分は寄せ集めである。組み合わせを原形に戻すのは天文学的なパターンのパズルである。
 五輪塔の空風輪や火輪の残欠の形状が一様でない。低平で軒の薄い火輪、重心の低い空輪も見られ、鎌倉時代でもかなり古い時期のものだろう。逆に軒口の上方の反りが大きく下端が水平な火輪や宝珠の先端の尖りが妙に大きい空風輪などは近世にさしかかる頃のものだろう。玉石混交状態である。ちょっと見は似ているが古いものと新しいものの間には4~5百年くらいの開きがある。
 一石五輪塔は概して粗製で地輪の長いものが目立つ
小型の五輪塔の空風輪には枘があり火輪上端に枘穴があるが、なぜか水輪に枘がない。したがって地輪上端と火輪下端に枘穴がない。水輪の上下は平らにカットしたままで、作る手間はかからないが枘がない分安定を欠き倒壊の確率が高い。三石五輪塔も同様に枘がない。大和などでは小型の五輪塔でもたいていは枘があるのと異なる。
 三石五輪塔の火輪の四注が短くにえ詰まったような感じは一石五輪塔のそれに共通する。量産化・簡素化の一端を示す手法であろう。石仏龕の屋根にもこれと共通する意匠を見て取れるものがある。
 石仏も多種多様だが、石仏龕タイプが目立つ。阿弥陀座像を刻むものが多いが、三尊像や五輪塔や宝篋印塔をレリーフするものもある。笠石は別石としたり作り付けたりで、屋根の形状も多様である。
 意匠表現に優れた大型の優品から量産される小型の粗製品への移行は、石造物が一部の貴顕や高僧だけのものから庶民層のものに近づいた結果であり、量産される小型の粗製品の実態を解明することが往時の社会や人々の生活を紐解くことに直結するはずである。今後
詳細な調査と分析検討が進むことに期待したい。
 なお、石塔寺にある大量の石造物の集積について、
昭和2年~6年、宗教団体の福田海が主導し、地元の協力も得ながら石塔寺周辺から石塔や石仏が集積されたとのことである。地元では石仏奉賛少年団まで組織されたという。福田海は宇治浮島大層塔の復元でも知られる。丘陵斜面の松林などで地面を金棒で細心の注意を払って探索し、金棒にコツコツ当れば勇躍して掘り出したという。深さは30㎝から深いものでは2m余も掘ったという。一列横隊に約100m、一か所に5・6個から10個程度、六文銭も出たらしい。こうした作業が昭和6年まで断続的に3次にわたって繰り返され、石塔寺に石塔石仏がうず高く集積されたニュースを伝える当時の新聞記事もあるらしい。(当時きちんと県の許可を得たとのことですが、今なら組織的な中世墓の破壊盗掘に他ならない気がします…)
 層塔の背後にある地蔵菩薩像の台石には、
福田海が竣工記念として昭和6年
に造立した旨が刻まれている。八万四千結願とあるから、本当に数えたのかもしれない。
 石塔寺は、中世以前の様子はハッキリしないが、江戸時代の初め、慶安元年に朱印状をもらっていることから、江戸時代以降名の知られたお寺であったことがわかる。それは江戸時代の紀年銘を持つ奉納された石灯籠や石段などからも伺うことができる。幕末の蘭学者、司馬江漢は、寛政2年(1790)に当地を訪ね、石塔村の集落や周辺至るところに石塔の残欠が見られる旨、また、寺の石段や三重層塔の周囲にもたくさんの石塔がある旨を旅日記の『西遊旅譚』に記しているという。福田海の集積事業以前の大正時代刊行『近江蒲生郡志』に掲載された写真では、層塔の周囲は石柵で囲まれ、今日とは様子が異なっている。しかし、既に小型石仏などが取り囲んでいる様子がうかがえる。幕末頃既に層塔の周辺にはある程度小型石仏や石塔が集積されていたところに、福田海が寺や集落周辺に散在していたものや丘陵斜面などの中世墓跡から大量に運び、整然と並べ置いて今日の景観が出来たのであろう。おそらくその後も近在で工事や耕作のたび石仏などが出土するとここに運び込まれてきたのであろう。
【参考】
田岡香逸「続近江蒲生町の石造美術」(前)(中)(後)『民俗文化』第1771791978
    野村 隆「近江石塔寺三重石塔の造立年代」『史迹と美術』第5581985
    川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』東京堂出版1998年
    蒲生町国際親善協会編『石塔寺三重石塔のルーツを探る』サンライズ出版2000
    池内順一郎『近江の石造遺品』(上)サンライズ出版2006

見渡す限りの石仏、石仏、石仏…


こちらは五輪塔、五輪塔、五輪塔…


火輪と空風輪がくっついた三石五輪塔。近江ではちょくちょく見かけるが、よそではあまり見ない…


層塔背後の地蔵菩薩像。昭和6年福田海の結願記念と知られる。


三尊石仏龕。大日、阿弥陀、釈迦だろうか…?屋根が変わっています。推定室町…


石仏龕タイプの五輪塔レリーフ。水輪に金剛界大日の種子「バン」が絶妙なアクセント。推定室町…


石仏龕タイプの六字名号とダブル五輪塔レリーフ。下端が未成形で埋け込み式と知られる。推定戦国期…


小型の石仏。いい表情されておられます。シンプルな作りですがこういうのが意外と古い。推定鎌倉…


地輪に二体の像容を刻む一石五輪塔。変わり種。推定戦国期…


枘穴がない(地輪)。


枘穴がない(三石五輪塔)。

 石塔寺は言うまでもない近江石造美術の雄、今更何をか言わんやの感も否めませんね。石段を上がると一面に広がる無数の五輪塔と石仏、そして巨大な三重層塔の威容に圧倒されます。五輪塔や石仏は大部分が高さ60㎝~90㎝程度の小型のもので、いくつかのブロックごとによく似たサイズ、同じような形状のものを集めてあります。五輪塔は五輪塔、石仏は石仏ばかりでまとめてある感じです。このほか八十八ヵ所巡礼コースが設けてあり、立派な石造毘沙門天像や巡礼寺院の本尊と弘法大師を並置したと見られる半肉彫り石仏が点在しています。これらは近世以降のものと思われます。いずれにせよ石造ファンにとって石塔寺はまさに聖地…ですね。
 それでは皆様、どうか良いお年をお迎えください。六郎敬白


滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その2)

2017-12-31 13:24:02 | 宝塔、五輪塔、宝篋印塔、層塔

滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その2)
 三重層塔の東側の少し高くなった勅使墓と呼ばれる場所に、二基の大型の五輪塔と立派な宝塔が据えられている。宝塔は、壇上積式基礎の各側面に格狭間を入れ、三方の格狭間内には近江式装飾文の開花蓮のレリーフを刻む。格狭間内を素面にした面の束部左右に「奉造立之/大工平景吉」、格狭間内に「大願主/正安四年(1302)壬寅十月日/阿闍梨□□」の陰刻銘がある。塔身四方に扉型、首部には勾欄型を刻み、笠石の重厚な軒口、笠裏の二重垂木型や露盤と隅降棟の造作に抜かりない近江の石造宝塔の一典型である。残念ながら相輪を失って別の小さい残欠が載せてある。後補の相輪を除く高さ約139㎝、花崗岩製。平景吉は甲良町西明寺の石造宝塔(嘉元2年(1304))の作者と同じ人である。重要文化財指定。
 宝塔の東側に南北に並ぶ五輪塔も重要文化財指定。北側の五輪塔は高さ約135㎝、花崗岩製。地輪の一面中央に一行「嘉元二(1304)甲辰九月五日」の刻銘がある。力強い軒反りを見せる火輪は地輪と一具と見て特段支障ないように見えるが、空風輪と水輪は小さ過ぎ別モノと思われる。水輪にだけ梵字があるのも不審である。南側の五輪塔は、高さ約140㎝。花崗岩製、地輪のアの面に「貞和五年(1349)巳丑/八月廿九日」「大森之廿五三昧/一結衆」と刻まれている。「大森」は石塔寺の北東方にある現在の大森町のことだろう。紀年銘とともに地名と葬送に関係する講衆による造立と知られる点で貴重な刻銘である。従前こちらは寄せ集めではないとされるが、よく見ると、どうもこちらも水輪がやや小さいし、各部に刻まれた梵字の大きさや刻み方に不揃い感がある。寄せ集めの可能性が否定できないと思われる。
 無数の小型五輪塔・石仏に混じって注目すべき石造物が散見される。主だったところは田岡香逸氏や池内順一郎氏らが紹介されているが、いくつか紹介する。
 三重層塔の北側、一番奥まったところにある層塔の残欠は、六字名号を刻んだ五輪塔の地輪と思しい部分を初層軸部に見立て、笠石4枚分を積み重ねたもの。笠石は一具と思われ、風化が進んでいるが花崗岩製で、軸笠別石の構造形式や薄目の軒口と緩い軒反の様子などから鎌倉時代前期に遡るものと推定されている。
 層塔エリアの北西隅付近にある宝篋印塔は、相輪上端を欠き現高約110㎝。ちょっと見ると各部揃っているように見えるが、似たサイズの部材をうまく寄せ集めたものと先学の意見はだいたい一致している。無銘だが、特色ある遺品である。笠は上5段下2段で二弧輪郭の隅飾の近江ではよく見るものだが、塔身の金剛界四仏の種子のうちなぜかウーンにだけ月輪を有している。また、基礎上小花付単弁の壇上積式で、側面格狭間内に、孔雀、宝瓶三茎の未開敷蓮(蕾)、変形三茎開花蓮、花托と散蓮という各面ごとに異なる近江式装飾文様のレリーフを刻む。非常に装飾的な意匠である。寄せ集めだが、だいたい14世紀中葉頃前後のものと考えられる。
 そのすぐ近くにある宝篋印塔は塔身の代わりに五輪塔の水輪を入れている寄せ集め。上5段下2段の笠石は、隅飾二弧輪郭内には蓮座円相を入れ、各面とも円相内に地蔵菩薩と思われる「カ」の種子を刻んでいる。
 丘陵麓、本堂前庭の南東隅にある小石祠の台石に転用されている宝篋印塔の基礎は上反花式で、側面は輪郭格狭間、開花蓮のレリーフで装飾され、束部分に「右志者為二/親聖霊并法/界衆生平等/利益也/建武四年(1337/八月廿四日/孝子敬白」の刻銘がある。
 ほかにもいくつか注意すべきものもあるが、きりがないのであとは先学の報文を参照されたい。(続く)

大層塔の背後側の一画。ここは一石五輪塔が多い。奥の方に小さく層塔(残欠)が見えます。


重文の宝塔。平景吉さん、いい仕事してます。


重文の五輪塔。寄せ集めの匂いがプンプンします…


一見違和感はないですがこれも寄せ集めです。しかし基礎の意匠が素晴らしい。


笠の隅飾に注意。これもまったくの寄せ集めだけど見た目は何となく収まりはいい感じ。


建武銘の宝篋印塔の基礎


滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その1)

2017-12-30 23:54:58 | 層塔

滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その1)
 石塔寺は、石塔(いしどう)町集落の北側の丘陵麓にある古刹である。北側の石段を上った丘陵上の石造
層塔は、我が国最古にして最大の三重層塔として古くから著名な存在である。


 花崗岩製で高さ約7.5m。方形の土檀の中央に、無数の五輪塔に
囲まれて悠然と建っている。11世紀初頭の寛弘年間に土中から発見され再建されたと伝えるが、その詳しい場所はわかっていない。
 相輪は後補で、先端には五輪塔の火輪と空風輪のようなものが載せてある。軸部と笠石を別石とし、軒の出が大きい低平な笠石と縦長の軸部が外形的な特長である。鎌倉時代以降に普遍化する軸笠一石づくりの石造層塔とは明らかに一線を画する構造形式である。基礎は大半が埋まって全容が確認できないが、幅は優に2mを超える自然石で、平らな上端部には軸部受の方形の窪みと排水溝の造作が認められる。初層軸部は縦方向に組み合わせた二石からなり、高さ約1.4m。初層笠石は高さ約59㎝に比して幅は約2.5mと幅が広く低平で、軒口は薄く軒反りはほとんどないに等しい程度である。軒口をやや内斜に切っているのは、分厚い軒口を垂直に切る鎌倉時代以降の石塔と異なり見逃してはならない特長である。二層目と三層目の笠石も概ね同じ形状で軒裏には薄く垂木型を表し、中央には方形の塔身受の窪みがある。上端は薄い段を設け、初層と二層目には内側には塔身受の窪みがあるらしい。二層目、三層目の軸部は一石で三層目軸部の中央やや上寄りの南側には方形の穴(目測だいたい20㎝くらい)が見えるが奉籠穴だろうか。
 造立時期について、奈良時代前期説と平安時代後期説がある。今のところ奈良前期説が有力である。朝鮮半島に残される百済系の石造層塔との類似点や、『日本書紀』天智天皇8年(669)にある百済からの渡来人が蒲生郡に移住した記事から、渡来人の子孫によって造立されたとものと考えられている。平安時代説では、手本となったとされる韓国の長蝦里塔の造立が10世紀代まで降るのではないかという点と、平安末期頃の阿育王八万四千塔信仰の高まりや土中から発見された阿育王塔が11世紀初め頃に再建されたという伝承を踏まえた考え方である。いずれにせよ、石塔が定型化する以前の非常に古い石塔であることは疑いがない。重要文化財指定。
 石塔寺についての文献資料として、平安時代末の
『後拾遺往生伝』に「蒲生郡石塔別処…阿育王八万四千塔…」という記述が、同じく『兵範記』に「詣蒲生西郡石塔…」の記述があるというから平安時代末にはこの地に阿育王の石塔信仰があったことは確認される。また、『源平盛衰記』や鎌倉時代前半の紀年銘のある大般若経の識語に、石塔寺あるは石塔院という言葉が確認されているという。鎌倉時代末までに原形ができたとされる『拾芥抄』には「蒲生石塔、阿育王八万四千塔…」の記述があるというから、石塔寺が遅くとも鎌倉時代前半頃には存在したことは疑いない。それが現在の石塔寺と同じ場所にあったかどうか、寺が原位置を保っているならば、遺構や遺物から証明されなければならないが、この点は今一つ明確でない。これはとりもなおさず層塔が原位置を保っているのか移建されているのかという点とも関わる今後の課題である。石塔集落の南方数百mの綺田町には、奈良時代の古代寺院跡が確認されている点は示唆深い。
 軸笠別石の層塔は同じ滋賀県内や京都などにも確認されているが、遡ってもせいぜい平安末期で、規模も小さいものが多い。石塔寺の層塔は規格外のサイズで、外形的な印象も合わせ少々趣きが異なるように思われる。また、
2つの石材を縦方向に継いだやり方は、五個荘金堂馬場の五輪塔地輪(正安2年(1300)在銘)に共通するが、石塔寺の層塔が影響している可能性もある。(続く)

※ たいへんご無沙汰をいたしておりました。ぜんぜん記事UPができない一年でしたが、せめて大晦日までには何か書いておこうという悪あがき、情けない次第です。今更ながらの石塔寺、何度も来ているところですが、休暇を利用して久しぶりに訪れました。暮れも押し迫る平日、晴天の下で貸し切り状態でした。割合に暖かい日で、無数の石塔に囲まれてまったりと石造三昧の午後でした。参考図書は続編にまとめて記載します。


川勝政太郎博士のこと(ひとりごと)

2017-09-25 21:38:44 | ひとりごと

川勝政太郎博士のこと(ひとりごと)
川勝博士の著作『石造美術入門-歴史と鑑賞-』(昭和42年社会思想社)の14頁から19頁、本編前のイントロダクションにあたるところに、前から気になっている記述があります。以下抜粋します。
「私は「石造美術」という名称のもとに、三十数年来、仏教関係を中心とする石造物を研究してきた。その体験にもとづいて、この方面になんらの知識もなかった方々を対象とする立場で、石造美術の入門講話を述べようと思うのであるが、話を気楽にするために、昭和三十九年九月十七日から三回にわたって、NHKの「人生読本」の時間に、「石との対話」というラジオ放送をしたのを、以下に掲げることとする…」
(以下略)
小生などはまだ生まれる前、昭和39年の9月というと、先の東京オリンピック開会の前月、今から53年も前になりますが、ちょうど今時分、川勝博士がNHKラジオの「人生読本」に出演され、3回にわたって三十数年の石造美術研究生活の一端を語られたということです。『石造美術入門』には以下3回分の内容が載せてあるので、どういうお話しをされたかはわかります。しかし、生前に謦咳に接する機会がなかった身としてはたいへん気になっています。お姿は写真で偲ぶことはできますが、録音が残っていたらお声を聴くことができるかもしれない。そこで、古い放送データを検索できるNHKさんのオンラインクロニクルというホームページを見つけて検索してみましたが残念ながらヒットしませんでした。古い放送はテープが高価だったこともあってほとんど残されてないようです。川勝博士くらいになれば、このほかにもラジオやテレビに出演されたことがあったかもしれない。もしその音声や映像がどこかに残されていれば、いつか拝聴・拝見できる機会もあるかもしれませんが、どうなんでしょう…。


『石塔調べのコツとツボ』を購入しました。(お知らせ)

2017-01-17 21:15:58 | お知らせ

『石塔調べのコツとツボ』を購入しました。(お知らせ)
『図説 採る撮る測るの三種の実技/石塔調べのコツとツボ』藤澤典彦・狭川真一著、高志書院から出ました。藤澤・狭川コンビによる調査ハンドブックですので間違いがあろうはずがない、速攻でゲットです。
石仏調査のハンドブック、拓本のハンドブック、遺物や遺構の実測についてのハンドブックは、たぶんこれまでもあったと思いますが、丸々一冊石塔に特化した調査ハンドブックとしては唯一無二の存在ではないでしょうか。石塔を知るためというよりむしろ石塔を調査するためのハンドブックです。特に実測図の取り方が豊富な写真と作図途中のメモまで示し懇切丁寧に記載されている点はたいへんありがたいものです。写真における光線の当て方も詳述されていてたいへん参考になります。
こうした出版物が背中を押して石塔に興味を持つ人が増え、石塔の調査が各地で進むことに期待です。
前半は藤澤先生と狭川先生が対談形式で石塔を語っておられます。基本的に口語の関西弁のままのところもあり、関西弁のニュアンスが伝わらない人にはちょっとわかりにくいかもしれませんが、当代石塔研究の御大による流石の薀蓄を横で直接聞いているようで、その生々しい感覚には代え難いものがあり、標準語に変換しなくてよかったのではないかと思いました。とにかく是非おすすめしたい一冊です。
小生はシンポ会場で高志書院さんから手渡しで購入できたのも嬉しかったですが、amazonでも扱ってます。