数日前のこと。以前、同じ会社で働いたことのあるYMさんと、メールで近況のヤリトリをした。YMさんの文に「人間万事塞翁が馬」とのくだりがあった。
はて、国語の類が大嫌いだった私は「人間万事塞翁が馬」の意味するところを正確に把握していないことに気づいた(情けない)。なので、忘れないように調べて書いておこうと思った。
カチャカチャといくつか見た中で、この「人間」を「じんかん」と読むページがあった。知らなかった。「にんげん」の事ではなく、世間(せけん)という意味だそうだ。しかし、「にんげん」と呼んでいるページでも「人間万事」で「この世のすべて」とか「人間のあらゆること(災難と幸福)」との意味だとあるので、同じようなことなのでしょう。日本語的には「にんげん」と読んだほうが通りがよいだろうし、ウンチクを語るときには「じんかん」と読んだほうが…(語ることは無いな)。
「塞翁」というのは、言うまでもなく城塞(とりで)に住んでいる「翁=老人」という意味。
この言葉の出所は中国の古いお話(淮南子)で、簡単に書くと、馬が逃げた(禍)→でも良い馬を連れて戻ってきた(福)→でも息子が馬から落ちて骨折した(禍)→でも戦争に行かずに済んだ(福)。となる。(簡単過ぎ?)
そこで、全体の意味としては、「このお祖父ちゃんの馬は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」となるわけだな。
他にもいろいろ書いてある。例えば、
予測できないのだから、安易に喜んだり悲しむべきではないということ。
不幸な目にあっても、これで厄が落ちたと意識を前向きにすれば幸福はめぐってくる。
不幸を恐れて幸福になることを躊躇しない。幸福は幸福で足元を見失わないようにしないと。
ものごとは考え方ひとつで、どうにでも考えられるということ。そうであるなら、自分が生きやすいように考えることは大切なこと。
なるほどね~、今不幸だとか、不幸になるか?幸福になるか?分からない選択を迫られたとしても、先の事は分からないのだから、それよりも本人の考え方次第だと・・・と納得しつつ、最後にと別のサイトを見てみたら、
この話は禍福がただ転換することや、人生の偶然性を指しているように思われるが、『淮南子』の本意は《偶然と見えることも皆人間が自ら招くものだ》と言うところにあるらしい。それは〈人間訓〉の書き出しの一部に、「それ禍の来るや、人自らこれを生ず。福の来たるや、人自らこれを生ず。」とあるからである。とある。エーッ!何だよ~そういうオチか(オチじゃねぇよ)。何事も自分自身が招くものなのね。